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Ⅹ 縄文時代の繁栄と終焉

 第10話は、縄文時代の晩期の話をします。縄文時代中期は経済的にも精神的にも豊かな時代でした。そこで、縄文時代の暮らしぶりを別の視点(民族、母系社会)の視点で見てみようと思います。その後、とても栄えていた縄文時代が、なぜ終焉を迎えたのかを、自然災害の側面から紐解いていきます。
1 うさぎうさぎ

1、 縄文時代の興隆
(1) 日本人のルーツ
 1億年以上前は、日本列島はユーラシア大陸の一部でしたが、地殻変動が起こり、日本海が湖になり、やがて大陸から離れて日本列島になりました。
2 日本海湖

 そして、紀元前33000年頃(旧石器時代初頭)には、日本列島の一部が未だ大陸と繋がっていたので、マンモス・マンモスや、それを追う新生人類が日本にやって来ました。これが旧石器で、日本の曙です。
3 日本列島18000年前

 第8回目のブログで、日本人の祖先のY染色体の話をしたのを覚えていますか?
まず初めて日本列島に到来したグループは、『アイヌ系の祖先』『港川系』『モンゴル系』の民族でした。それでは、それぞれの民族に関して、簡単に説明します。

① アイヌ系民族
先ずは、『アイヌ系』の話をする前に、祖先の『チベット系』の民族から説明します。
4 モンゴル人

 これは、チベット人から派生した民族が日本に来たというのではなく、その祖先から、チベット人と『チベット系』が分離して、『チベット系』の民族は東南アジアに移動し、住み着きました。(アジアでは、他の民族も、東南アジアを目指しました)
5 旅立ち

東南アジアに辿り着いた『チベット系』の一部は、現地人との混血や、長期間(先祖代々)肌を紫外線で焼きすぎて、真っ黒になりました。(インド領アンダマン諸島)     『夏はご用心!』
東南アジアに残ったアンダマン諸島の民族は、男性は『チベット系』ですが、母親の遺伝子は『ニグロ系』だと思われます。このグループは土着し、後に北上しなかったので、日本人の祖先では無いと考えられています
6 アンダマン諸島の民

 やがて『チベット系』の多くが北上し、現在の西安辺りに住み着くようになると、現地の住民との混血や長い年月の間に黄色人種に変貌しました。女媧や伏羲(三皇・羌族)の遠い祖先がこの民族ですが、この一部の『チベット系』のグループが中国に残らず、日本列島に渡来しました。

女媧や伏羲(三皇・羌族)の遠い祖先がこの民族ですが、この一部の『チベット系』のグループが中国に残らず、日本列島に渡来しました。

 そして、このグループが日本語の原型を創造したと考えられます。このグループの言葉はチベットやビルマで用いられている言語に近く、この語型はSOV型(主語、目的語、動詞)の語順です。つまり、旧石器時代には、既に日本語の原型があったということになります。
『私は→貴女を→愛しています』がチベット系。
英語や中国語は『I →love→you』『我→愛→你』のように、SVOの順列です。つまり、日本に渡来した『チメッと系』はチベット・ビルマ語ベースに自分たちの言葉を長い年月をかけて作っていったのです。

 日本に渡来した『チベット系』は、縄文時代の初めに、後に渡来した東アジア系の遺伝子の民族と混血し、日本特有の『アイヌ系』の民族に変異したといわれています。『アイヌ系』の現代男性の占有率は、全国平均で39%程度です。そして、沖縄男性の48%が『アイヌ系』です。
また、現代のアイヌ人男性の88%が『アイヌ系』の血筋ですので、この血筋を『アイヌ系』と呼ぶようにしました(分かりやすいので)。
7 アイヌ人

また、徳川家康や安倍晋三も、この血を引いています。
8 徳川家康


②  モンゴル系
 次に『モンゴル系』は、ツングース等の民族ですが、ジンギスハンを想像して頂ければ良いと思います。この系統は、現代日本人男性の3%です。
9 ジンギスハン

 そして、『モンゴル系』は、細石器文化を日本にもたらした立役者です。このお陰で、日本では、旧石器時代にも(局部)磨製石器が作られていました。


 当時は、海峡としている箇所が残っていたので、『アイヌ系』と『モンゴル系』の民は、朝鮮半島や北から丸太船で海を渡ったと考えられます。
10 丸太船


③ 港川系
 最後の旧石器時代人は、沖縄の『港川遺跡』で発見された、日本で最も古い新生人類(紀元前16000年頃)です。そこで、この民族を『港川系』と呼ばして頂きます。その後、日本の特有種になりますが、現代の男性の遺伝子比率は2%です。具志堅用高がこの民族の有名人です。この民族は『モンゴル系』と近い血筋ですが、顔はかなり異なります。
38 港川人

この『港川系』の民は、東南アジアから葦船に乗り北上し、日本に渡来したと想定されます。
12 葦船



(2) 新縄文人のデビュー
① 『アイヌ系』『港川系』『モンゴル系』の旧石器人は、縄文時代の1万年の間に日本全国に拡散し、日本国中で暮らすようになりました。

② 縄文時代中期の渡来民族がいました。この民族は、人種としてはフィンランドやロシアの北方に住む民族で、『ウラル系』と呼ばれます。現代日本人男性の1%、アイヌ人の12%がこの系統です。

 唐朝の高祖の『李淵.』がこの系統です。
13李淵

 そして、下記の図の紺色の部分が、『ウラル族』の現在の居住地です。
14 Nグループ 居住地域

 ところで、青森県の『三内丸山遺跡』は『ウラル系』の集落跡です。三内丸山遺跡は紀元前3800~2100年の遺跡で、最も栄えたのが紀元前2500年ころでした。
三内丸山人は、黒曜石等の貿易を丸太船でやっていた逞しい民族でした。大きな集落を築き、縄文時代の繁栄を支えました。

 日本への渡来ルートは、中国の遼河文明の『前期紅山文化→日本列島』だと考えられます。遼河文明前期(紀元前4500~1600年前)も同じ遺伝子の持ち主で、東アジアには他の『ウラル系』民族は少ないので、遼河文明と三内丸山遺跡は関連性があると考えられます。
15 中国産大文明地図


 遼河文明前期の興隆窪(こうりゅうわ)遺跡紀元前6200~5600年で、後期の紅山文化は紀元前4700~2900年です。興隆窪文化は母系社会で、紅山文化も途中まで母系社会だったといいます。
その後、父権社会になると、『ウラル系』の男性が遼河流域からいなくなり、漢族がこの地を紀元前5000年頃に占拠しました。多分、『ウラル系』民族は、漢族に中国から追い出されたのでしょう。
なお、現在の中国では、遼河文明の骨以外には、『ウラル系』の男性は少ないことから、漢族に追われシベリヤに逃げたと考えられます。その際に、一部の『ウラル系』が日本に移住しただと考えられます。

 それに対して、三内丸山遺跡は、紀元前3800~2100年の『ウラル系』の遺跡ですので、三内丸山遺跡は興隆窪文化の影響を受けたことは確かです。

 遼河文明前期の興隆窪遺跡は、採取狩猟民の遺跡総面積約3. 5万㎡の環濠集落で、竪穴住居址(環濠内80基余り、環濠外70基余り)があります。鹿、豚等の動物骨や、クルミが多く検出されています。この文化は、三内丸山遺跡との共通点が沢山あります。
 ・北緯40°をやや越える緯度に位置する
 ・当時の環境は落葉広葉樹林地帯である
 ・低い丘陵に立地すること
 ・長い期間の定住集落である
 ・土器は主に平底の円筒形土器で、土器の表面に全部文様を施す
 ・石器は打製石器が多く、磨製石斧もある
 ・けつ状耳飾りの存在
 ・住居は堅穴住居であること。床のほぼ中央に地床炉がある
 ・墓は土壙墓である
 ・生業は主に採集狩猟漁労である一方、食用植物の栽培が行われた
 

(2)縄文ユートピア
  これまで述べてきたように縄文時代も早期・中期は繁栄を謳歌し、豊かで幸せな世界を謳歌しました。

16 縄文時代生活
玉川大学資料

 縄文時代の始め(紀元前11000年頃)は氷河期の末期で、現在よりも100m以上海面が低かったそうです。大陸と離れ、現在の日本列島の形に近づいたのもこのころです。

 現生人類として我が祖先が日本に辿り着いたのは、紀元前33000年頃でしたが、その頃は陸続きで日本列島が移動している最中で、アルプス島の高度の山脈が形勢されつつある時代でした。

 温暖な気候になると氷床が解けました。更に、地殻変動の影響で縄文海進が起き、遠浅の海が関東地方ですと川越の方まで続くようになりました。すると、関東地方は漁業だけで十分な収穫を得ることができたので沢山の貝塚ができました。更に、農業(雑穀・木の実・農食物)を自給自足できました。そして、温暖なので雑草が茂り、食料となる動物を多く収穫することができました。それに、西日本のような大規模な自然災害はありませんでした。
 そして、食料を奪い合う必要はなく、争いのない自由で豊かな生活を送れるようになりました。現在では、この世界をユートピアという人が多くなってきました
15 中国産大文明地図

 この頃になると、『アイヌ系』『モンゴル系』や『港川系』等の初期縄文人だけでなく、『ウラル系』の民族が渡来し、農業や玉等の文化を持ってきました。

 温暖になり、地殻変動の影響もあり、海面が上昇してくると、浅瀬の部分が増え、丸太船による漁業が豊漁だったようです。また、温暖なため、農作物が豊作で、狩猟用の動物も沢山いたと推測できます。
更に貿易を営んでいた
ため、三内丸山遺跡はユートピアだったと思われます。他の場所でも同様で、関東や中部、そして東北地方はとても繁栄していました。
縄文時代中期以降では、パッチワークのように、様々な文化が様々な地域別に混在したような様相となりましたが、どの文化も我が世の春を謳歌していました。



(4)母系社会
遼河文明は農業を営んでいました。穀物を粉にしてから料理します。
18 粉挽き道具

 興隆窪遺跡と似ているのが、黄河文明の裴李崗 (はいりこう)文化です。この民族は、『アイヌ系』に近い『羌(きょう)族』(女媧・伏羲)だと推定されます。この文化は紀元前7000年~5000年までの間に存在しており、70を超える遺跡が残されています。アワを耕作する農業や、ブタを飼育する畜産を実践していました。この文化は土器を作った古代中国最古の文化でもあります。中国の考古学者たちは、裴李崗文化が平等主義であり、政治組織はほとんどないユートピアとだと信じています。

 そして、『アイヌ系』に近い裴李崗文化と、『ウラル系』の興隆窪(こうりゅうわ)文化は共に母系社会で、上手く機能していたようです。興隆窪文化が三内丸山遺跡に、黄河文明の裴李崗文化が『アイヌ系』に影響を与えたとすると、縄文文化の多くが母系社会だったと考えられます。縄文時代も太古の中国集落も、家族単位で行動するのが基本でしたので、母系社会の方が上手く機能したのではないでしょうか。

 それが山内丸山遺跡の時代(縄文時代中期)には、農業や上述の貿易が盛んになって来たため、家単位から、村単位での家族長(女性)たちによる合議制へと変化していったと考えられます。

 縄文時代は争いがない豊かな世界でした。それは、母系社会だったからでしょう。これは三内丸山遺跡だけでなく、日本の他の部族も母系社会だったと考えられます。
通い婚は源氏物語(光源氏)の話のように平安時代まで続きましたが、それは母系社会の残りだったと考えられます。それですので、弥生時代の卑弥呼や台与が、倭国の指導者になっても、不思議なことではないのです。
19 卑弥呼

 縄文時代には青銅器や水稲栽培がなかったので、母系社会を続けることができました。それは、身分制度や人を殺し合う戦争がなかったのだと考えられます。母親の愛に包まれた家族は争うことはないし、身分は必要ありません。

 それでは、母系社会の暮らしぶりが、どのようなものであったかのを説明しましょう。
縄文時代の母系社会とは異なるかもしれませんが、母系社会の中国雲南省に暮らすモン族を参考にしてみますね。

20 母系家族

 モン族では、最長老の女性が家長で、一族のさまざまな物事を取り決めるのも女性。外での労働や農作業で男たちが稼いでくる金銭は、すべて女性の手に渡り、家計費として女性たちに分配されるのです。
 そして、モソ人の社会には夫というものが存在しないのです。女性が選んだ恋人がいるだけです。モソ人の女性は13歳で成人を迎えると、「花楼(ホウロウ)」と呼ばれる自分専用の寝室を与えられるそうです。恋人は通い婚で、夜だけ一緒に過ごし、恋人は朝になると実家に帰り、実家の仕事に従事します。女性の家の手伝いはしません。
男性は恋人と同居することはできず、実家にも男性には与えられる部屋がありません。また、女性は経済力があるので、望めば、何人も恋人を持つことができます。その反面、農作や牧畜等、男性の分まで、女性が一生懸命働きます。
21 女性船長

 また、男性には養育する経済力が無いので、女性は恋人との間に生まれた子供は、女性たちの庇護のもと、一族のなかで育てられます。出産した子供がどの恋人の子かは、意味がないんです。だから、男性は自分の子供の面倒を全くみません。

 20年以上モソ人を研究している人類学者、クリスティーヌ・マチュー博士は、
『モソ人の女性には、土地や家の正当な所有権、生まれた子供に対する養育権が認められており、母親になると高い社会的地位が与えられます。母系制では母方の財産を相続しますが、モソ人の場合は姓も母方のものを受け継ぎます。政治的権力だけが女性に与えられる母権制とは、この点で異なります』と、言います。恐らく、三皇の女媧と伏羲の兄妹夫婦も、似たような暮らしを送ったのだと思われます。
 しかし現代では、夫とずっと一緒に暮らしたいと望む女性が多くなり、この社会制度が何時まで続くかは分かりません。

 縄文時代の生活も母系社会だったとすると、縄文時代の生活を理解するのに、モン族の暮らしぶりは参考になると思います。『当たらずしも、遠からず』です。
日本の母系社会にご興味をお持ちの方は、下記を御覧下さい。
http://japanese.hix05.com/Folklore/Sex/sex01.old.html

 縄文時代は、石器や土器はあり、移動手段は徒歩か丸木舟でした。青銅器や鉄器はなかったので、戦争が無い平和な世界でした。
縄文時代の前期は、氷河期から温暖期への移動過程で人々の暮らしぶりが豊かになっていった反面、幾多の大規模な自然災害に見舞われました。



2、縄文時代の終焉
(1)火砕流に飲み込まれた西日本
  火山噴火に関して話すと、富士山は大きな噴火を度々起こしていますが、それ以上に悲惨だったのが『鬼界アカホヤ噴火』です。一瞬のうちに、九州と四国の縄文人を全滅してしましました。
紀元前5300年ころに起きた『鬼界アカホヤ噴火』は、噴煙柱は高度3万メートルまで立ち昇り、山体崩壊した火砕流が、四方の海面を走り、西の種子島、屋久島などを火砕流に焼き尽くし、100 キロ離れた薩摩半島にまで達しました。火山灰は南九州一帯の地層に 60 センチ、大分県で 50 センチの厚さで残っていますが、通称「アカホヤ」と呼ばれます。鬼界カルデラ火山灰は、数メートルも降り積もって九州や四国の縄文人を死滅させました
22 ボルケーノ

 このアカホヤの地層の下から縄文時代の大集落が発見されましたが、その集落は世界最古舟作の工具や、燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などをともなっていました。
 鬼界カルデラ噴火は、この高度な海洋民族を思わせる縄文人を一瞬にして全滅させたのです。
その後、1,000 年ほど九州は無人の地でした。その後、人が再び住み始めましたが、縄文時代晩期になっても九州の人口は2000人程度にしか回復しませんでした
 近畿地方も別の要因ですが、人口は2000人くらいでした。住民も含めてこの人口では、両地域とも、国家を復旧することなど出来ませんでした。人間は自然の驚異に、恐れ戦くだけでした。
西日本はシラス台地に覆われ、人口が少なかったので、経済復興するための救世主を待ち望んでいました。


(2) 寒冷化

 紀元前2,200年前に急激に寒冷化しました。特に、海水は2.0℃の下降を示しました。2.0℃という気温・水温差は緯度方向の距離で約230kmの距離の移動に相当するそうです。(青森-仙台)商業目的の大きな実のなるクリ林は、現在山形県あるいは宮城県南部以南ですが、縄文中期には青森でもりっぱな実のなる栗林が存在したそうです。それで、三内丸山遺跡の人々の食料は潤沢でした。
 しかし、突然の寒冷化により、青森県では栗の栽培ができなくなったのです。そして、栗などの陸上の食料生産は激減しました。陸上動物も同様に減少し、遺跡の人々の食料確保に深刻なダメージを与えました。これが、縄文時代は衰えていった原因です。この気候の寒冷化は、縄文人の人口激減を引き起こしました。。
23 縄文人口推移

 下記のグラフは、温度と栗の生息域の推移です。(温度の変化による栗の生息域の変化)
24 丸山遺跡温度推移

25 栗生育範囲変化

 紀元前3800年ころに築かれた三内丸山遺跡は、紀元前2100年頃に部落を放棄しました。遺跡を放棄した本当の理由は分かっていません。遼河文明の『ウラル系』の住民より前に姿を消しました。

 現在の日本男性の1%しか、『ウラル系』はいません。でも、Y染色体は男性に遺伝するDNAなので、母系社会だったとすると、Y染色体は目安として役に立ちません。。
遅く渡来したとしても『ウラル系』は立派な縄文人であり、日本人なのです。5800年前の太古の世界から来た民族なら、生粋の日本人と言えます。


(3) 縄文海進の終焉
縄文時代中期に最も栄えていたところは、関東地方でした。それは、縄文海進によるものです。水色の部分が遠浅の海で、魚介類が危険を冒さなくても豊漁でした。大陸棚の深い海では、湿気の荒波には丸木舟では太刀打ちできませんでしたが、遠浅の海は縄文人には絶好の漁場で、毎日が豊漁でした。
26 縄文海進

 ところが、寒冷になり、縄文海進が終焉を迎えると、漁場が大幅に減り、漁業で養える人口が大幅に減りました。関東地方は、縄文時代中期の半分、早期の人口レベル並みにまで戻ってしまいました。


(4) 富士山噴火と山体崩壊
  富士山の噴火の歴史を振り返りながら、縄文時代末期の東日本の状況を振り返って混ます。
① 紀元前27000年 このころ富士山はツインピークでした。これは旧石器時代の中期です。
27 富士山ツインピーク

② 縄文時代末期に入ると富士山の噴火が続きます。
紀元前1700年ころの仙石スコリア(M4.7)、
紀元前1140年ころの大沢スコリア(M4.8)【大室山と片蓋山が形成】、
紀元前800年ころの大室スコリア(M4.7)、
紀元前900年の御殿場岩屑なだれ、
紀元前700年頃に砂沢スリア(M5.0)

と大噴火や山体崩落が続きました。地震が頻発するので、津波によるダメージも多発し、また、台風にも苦しめられました。
下の図は、紀元前900年に発生した『御殿場岩屑なだれ』です。
28 山体崩壊

 これは西暦1980年に山鯛崩落を起こしたセントヘレンズの様子です。
29 セントヘレンズ

富士山の山体崩落の被害は甚大なものでした。
30 山体崩壊ダメージ

③ 弥生時代に入った紀元前300年頃にも大噴火がありました。
31 弥生初期噴火

④ そして、西暦864年に延歴の噴火があり、富士五湖が形成されました。
32 延暦噴火

33 青木ヶ原樹海

 その後の幾度かの噴火を経て、美しい現在の富士山の姿になりました。
34 現在の富士山

 富士山の下には、沢山の古い富士山が眠っています。
35 富士山構造

 その結果、東日本でも自然災害が続き、多くの人を養えるだけの食料が確保できず、日本の人口は中期の26万人から晩期は8万人まで落ち込んでしまいました。それで、人々はどのような方法で経済復興を進めていくかを悩んでいました。

 なお、『縄文時代の末頃に、イサナギとイサナミが毎日、富士山に頂上に登ってお祈りをした』という説があるようですが、登山具が無かった時代ですので、夏でも1合目からの登頂は難しい上、それが冬ならば自殺行為です。それに、噴火が頻発している状態でしたので、富士山に立ち寄ることさえも憚れたと思います。


3、纏め
(1) 縄文時代に活躍した民族は、『アイヌ系』『港川系』『モンゴル系』と、縄文時代中期に渡来した『ウラル系』です。その『ウラル系』が三内丸山遺跡の主で、黒曜石の貿易を丸木舟行っていました。

(2)『アイヌ系(チベット系)』の言葉の語順は日本語と同じですので、日本語の原型は35,000年前からあったと考えられます。日本語が英語や中国語と大きく異なるのは、それらの起源にあります。

(3)『アイヌ系』や『ウラル系』は母系社会であったことが考えられます。それで、家族中心の戦のない平和な社会を築いていました。

(4)縄文時代中期は温暖で、縄文海進が進んだ為、縄文人は豊かで平和な生活を送っていました。我が世の春を謳歌していたのです。これをユートピアと呼びます。

(5) しかし、西日本では、鬼界アカホヤ噴火が発生し、九州や四国の縄文人は全滅し1,000年間は人が住めませんでした。その後、復興をはじめましたが、縄文時代の晩期でも九州の人口は2000人しかいませんでした。


(6) 近畿地方は発展途上で、やはり縄文晩期でも人口は2000人足らずでした。

(7) 縄文時代晩期になると冷寒期となり不作となり、終了できる動物が減り、また、縄文海進が終わり遠浅の海が無くなったため、人々は飢えるようになり、日本の人口が26万人から8万人まで落ち込みました。

(8) 更に度重なる富士山の噴火があり、関東地方の農作物は火山灰で大打撃を受けました。

(9) 経済破綻を来し、縄文人は復興のための道を探るようになりました。しかし、自然の驚異に打ち勝つことは大変で、縄文時代は幕を閉じます。

  来月は、渡来人の物語と、その功罪に関してお話します。


4、来週金曜日までの質問
ところで、『今の天皇家は、どの民族の遺伝子(父方)を受け継いでいるのかお分かりですか?』
36 



 難しい質問ですが、頑張って解いて下さい。
それでは今回は、これで終わりにします。


邪馬台国ラプソディ 著者
川鍋 光慶


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No title

前田良一さんの著書「縄文人はるかなる旅路」を読んで
私たちの祖先は大移動民族だったと知り
ワクワクしたのを覚えています。

みんな、古くは「孫悟空」の物語や、
最近では「ONE PIECE」などの冒険譚が大人気ですね。
その世界にハマると、子ども心に戻ってしまいますね。

最近は斎藤成也さんの著書「核DNA解析でたどる 日本人の源流」などで
遺伝子解析が歴史を解き明かしてくれるようにもなりました。
バイオテクノロジー・メタサイエンスの分野が、
私たちの真実の履歴書を描き出してくれているのかな。

見えない世界を知っていくこと、共存していくことは、
女系社会への回帰の流れに入っているから
起こっている流れではないかと感じます。

あっ そうそう
私はアイヌ系イケメンが超好みです♪