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Ⅺ 弥生時代の曙

 今回(11回目)ブログから、いよいよ弥生時代の話をします。

1、天皇家の血筋
 それでは、前回のブログの質問を繰り返します。
縄文時代の代表的なY染色体(男性)遺伝子は、『アイヌ系』『港川系』『モンゴル系』そして『ウラル系』です。そして、弥生時代に渡来した遺伝子は『呉系』『越系』『漢族系』です。

 質問内容は、『今の天皇家は、どの民族の遺伝子(父方)を受け継いでいるのかお分かりですか?』でした。
1 皇室家系図

 その解答は、『アイヌ系』だと言われています。実は、初代の神武天皇、継体天皇、桓武天皇、源頼朝(清和源氏)、平清清盛も『アイヌ系』なのです。天皇家の家系図を辿っていくと、イサナギ命が『アイヌ系』だと言えます。

 『アイヌ系』とは、旧石器時代に大陸から渡来した『チベット系』の民族が、縄文時代の初めに『中国系』の民族と結ばれ、日本固有の民族(アイヌ系)になったもので、縄文人の大半を占め、現在でもこの系統の男性は39%くらい存在します。
 日本は、『単一民族国家』と言われることがありますが、実は多民族国家なのです。但し、縄文時代から続く生粋の日本人の大多数は『アイヌ系』であり、天皇家はその血脈なのです。


2、弥生時代の始まり
 さて、弥生時代の始まりは何時頃なのでしょうか?
正確なところが分からないというのが実情で、国立歴史民族博物館(歴博)と九州大学(オックスフォード大学)で年代の特定に関して大喧嘩しているのです。

従来説では紀元前5世紀頃と言われていました。しかし、国立歴史民族博物館(歴博)が独自の炭素14測定法による調査で、紀元前10世紀との結果を出しました。

【国立歴史民族博物館】
2 国立歴史民族博物館

それに対して、九州大学が同じ遺跡から出土した人間と鹿の骨をオックスフォード大に依頼して同様の測定をしたところ、従来の紀元前5世紀という結論がでました。

【オックスフォード】
3 オックスフォード

歴博の測定結果は考古学会から支持されていませんが、新聞社が話題性から飛びついているというのが実情です。
以下の参考資料は難しいので読む必要はありませんが、歴博の発表は捏造だというものです。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/25336/p009_rep.pdf
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/yayoijidai1.htm

箸墓古墳に関しても、歴博は造成時期を西暦240~260年と結論付けました。この年代が卑弥呼の逝去の時期と重なるので、歴博は、「卑弥呼の墓だ」と主張しています。
しかし、C14測定法は測定結果をそのまま利用できず、研究機関が独自のやり方で補正せねばなりません。補正のやり方は、北半球と南半球で異なり、海岸沿いと高度が高い所では異なるので、補正幅が非常に大きくなります。そうして補正したとしても、それでも誤差は±35年以上発生します。従って±10年の精度というのは信用できません。
だいち、測定は非公開の上、測定の前提条件、補正方法も明らかにされていません。

 実際、橿原考古学研究所が、箸墓古墳より古い『ホケノ山古墳』の造成時期をC14測定法で実施したところ、西暦250~420年(中心値:西暦335年)になりました。百年近くの差が生じています。
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.pdf
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm

 また、宮内庁の発表では、箸墓古墳に埋葬されているのは、第7代孝霊天皇皇女の「倭迹迹日百襲姫命」で、大物主の妃です。日本書紀では、孝霊天皇は紀元前215年に逝去されたことになっているので、460年くらいの差の説明が必要です。また、魏志倭人伝には「卑弥呼は独身だ」と書かれているので、大物主の妃として一般に公になっている倭迹迹日百襲姫命とは合致しません。また卑弥呼の墓の形状は塚(蟻塚のような形)なので、前方後円墳ではありません。(三国時代の魏の皇帝の御陵は質素なものでした
歴博は、この説明を全くしていません。

【箸墓古墳 倭迹迹日百襲姫命の御陵】
4 箸墓古墳

 何れにせよ、現在の所、炭素14測定法の結果は信用できそうにないので、ここでは従来説の紀元前5世紀を採用することにします。


3、誰が水稲栽培を広めたか(弥生時代を開いたか)?
 渡来人として、考えられるのは以下の通りです。

(1) 呉の『太伯』 : 商(殷)の滅亡が紀元前1046年ですので、その頃に日本に渡来したという伝説が残されています。縄文時代晩期の伝説です。鹿児島神社、太伯山(宮崎)に痕跡が残されており、また、魏志倭人伝に「倭人は『太伯』の後裔なり」と書かれています
なお、太伯は周の公子だったので、黄帝の末裔で、王として認められる資格があります。『呉系』の血脈です。
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-01yayoijidai.htm

【太伯渡来 延岡 / 太伯と倭人の妻 / 石黒しろうイラスト】
5 太伯渡来伝説


(2) 春秋戦国の呉の滅亡で逃れた王族 :
 呉の亡国時期:紀元前473年/松野連(天皇家)系図
春秋戦国の呉が滅びた時、最後の呉王『夫差』の公子の忌一族が日本・朝鮮南部に逃れ倭国を建国したそうです。後に『姫』姓を『松野』姓に変更しました。
 松野連系図とは、呉王『夫差』から始まる家系図です。『倭王』の系図とも呼ばれます。
夫差は太伯(周・呉)の末裔であり、太伯は黄帝の末裔ですので、松野連は黄帝の血脈で、中国皇帝から認可された王の座に着く資格があります。『呉系』の血脈です。

【松野連系図 国立図書館】
6 松野連系図


(3) 春秋の『越』が滅び、その王族が倭国に辿り着いた : 亡国時期紀元前334年
越のトーテムは鹿で、安曇族のトーテムと一緒です。
日本では綿津見(安曇)三神を祀っている福岡県の志賀海神社や春日大社、「武甕槌命」(たけみかづちのみこと)を祀る鹿島神社等です。
越は夏王朝の末裔の国なので、黄帝の血脈で、中国皇帝から認可された王の座に着くことができます。『越系』の血脈です。

【福岡県の志賀海神社(御神:綿津見三神)のホームページ】
7 志賀海神社の鹿


(4) 徐福:紀元前210年ころ渡来
 徐福の先祖は夏王朝の初期に『除』に封じられた王で、子孫は代々長江(揚子江)、淮河(わいか)、泗水(しすい)、斉水(せいすい)の流域一帯に栄えた一族でした。つまり『徐福』は中国屈指の名門『除王』の末裔だったのです。
そして、秦の始皇帝の命で『不老不死の薬』を求めて、500人の若者を含む3000人の家来を引き連れ、倭国に渡来しました。(最初に佐賀市に上陸)

【徐福村 / 江蘇省除州市 羅其湘 http://inoues.net/mystery/jyofuku.html】
8 徐福村

【徐福の渡来 / 江蘇省除州市 羅其湘 http://inoues.net/mystery/jyofuku.html】
9 徐福の航海

 史学上では、上述の頃に大陸から渡来したと考えられます。出港地は、浙江省寧波です。
呉越は水稲栽培が盛んな場所でしたので、呉越からの渡来人が水稲栽培を広めたと推定されます。
徐福は斉(せい:山東省)の出身ですが、呉越で3000人の若者を集め、日本に渡来したと考えられます。従って、彼らのY染色体は『呉系』と『越系』です。
(但し、徐福は斉国の遺伝子を継いでいます)

 紀元前1000年頃の九州全体の人口が2000名位でしたので、3000名で渡来したとすると、徐福の一行の人数の方が多かったことになります。

 日本で一番古い水稲栽培の田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡とされていますが、この遺跡の年代測定で、国立歴史民族博物館と九州大学(オックスフォード大学)が物議を醸しています。
従って、菜畑遺跡も出土品が、紀元前10世紀のものならば太伯、紀元前5世紀のものならば呉の難民たちが、水稲栽培を九州に広めたという事がになります。


4、金属器を誰が広めたか?
 福岡県春日市の須玖岡本(すぐおかもと)遺跡にある『奴国の丘歴史資料館』を訪れました。すると、ボランティアの方が、延々3時間、『奴国』の歴史に関し熱弁をふるったのです。九州の人たちは、郷土の歴史に誇りをもっており、とても熱くなります。
瑠璃さんが撮影した写真を使いながら、解説しますね。
http://ruri87.blog18.fc2.com/page-1.html
10 奴国の丘 説明資料

上記の写真は、ボランテイアの方が纏めた努力の賜物の一部です。文化祭のときに展示するような資料で説明されました。この年表を見て下さい。紀元前100年から、西暦100年までの期間に、『奴国 日本』と、ピンクの枠の中に書かれていますね。

それでは、Q&A形式で、進めさせて頂きます。
質問1. 日本で初めて青銅器が製造されたのは、何時、何処、でしょうか?
回答1. 須玖岡本遺跡で、青銅の剣の鋳型(溶かした青銅を注入し、製品を作る為の、たこ焼き器具のような石や土で作られた容器)が発見され、新聞各紙を沸かせました。昔は竈(かまど)や風呂で、火の勢いを増すために使った鞴(ふいご)で、青銅を溶かして、青銅器を作っていました。紀元前2世紀のことです。

 【奴国の丘歴史資料館写真は全て、瑠璃の星撮影】
11 鋳造ジオラマ

ここで製造された青銅の剣は、国産の第一号だったのです。日本の先進技術到来の夜明け前です。まだ、紀元前2世紀に、日本で、産業革命が起こりました。

質問2. 砂鉄や銅は、どこから仕入れていたのですか?
回答2. この時代には、未だ日本で金属材料が採鉱できなかったので、中国から銅を調達し、各種の青銅器を作っていました。その後、朝鮮半島の南部の地域からから砂鉄が入手できるようになりました。そして、奴国で金属製品を製造していました。ここでは、硝子も製造していました。
12 青銅剣

質問3. ここで製作した青銅器や鉄製の鏡・矛・剣等は何処で売りさばいていたの?
回答3. 大陸に輸出していました。馬韓、辰韓、弁韓、中国各国に売り捌き、巨額の利益を得ていました。そして、奴国は、倭国の工業地域として繁栄を謳歌し、中国の後漢の光武帝より『漢委奴國王』の金印を授かったんです。鉄の道も支配し、マネー・マシンを謳歌する時代でした。
13 金印公園

 それで、須玖岡本遺跡には、権勢を握った奴国の王の墓があります。
14 奴国王の墓

 この御陵で、王様は甕棺墓(かめかんぼ)に葬られています。甕棺墓は、春秋戦国時代の斉(せい)の国の墓様式です。斉(山東半島)といえば、秦の始皇帝で登場する徐福の祖国です。甕棺墓を用いる地域は、福岡市北部と吉野ケ里等です。
吉野ヶ里は、徐福が2000名の若者たちを連れて渡来した場所から、9kmの距離にある大型弥生遺跡です。従って、この近辺の遺跡は、滅亡した春秋時代の呉の末裔と徐福の末裔の縁の地であると考えられます。
15 甕棺弔い方法

質問4. 奴国の末路は、どのようなものでしたか?
回答5. 西暦100年頃より、伊都国が台頭し、急に、奴国は力を失いました。邪馬台国の傘下の伊都国に『鉄の道』を奪われたのが、奴国が没落した主な要因です。奴国は、金印を伊都国に奪われない為に、志賀島に金印を隠しました。

 春秋時代の呉の亡国の王族が東アジア(朝鮮、日本)に逃れ、倭国を建国しました。倭国は、朝鮮側の狗邪韓国から九州北部に至る広大な領域で、日本海も含まれます。九州側の土地を面土国と呼びます。倭人は縄文人と混血し、倭国を拡大していきます。
後に渡来した徐福の末裔が吉野ケ里を建国し、倭人と混血し、奴国を倭国最強の工業国にしました。
 

5、ホツマツタヱの時代設定

(1)ホツマツタヱの中では、イサナギ・イサナミ、ニニキネ、クシキネ(大黒天)は水稲栽培を普及させて民の暮らしを豊かにし、カダや保食神が農業の普及に貢献した事が書かれています。しかし、水稲栽培が普及したのは弥生時代以降のことです。

【菜畑遺跡】
16 菜畑遺跡


(2)ホツマツタヱには青銅製の鏡、矛、剣の記述がでてくるので、日本で金属器の鋳造が始まった紀元前2世紀以降の物語です。

【鉄の剣 奴国の丘歴史資料館】
17 鉄剣


(3)ホツマツタヱには『馬具』の話が出てくるので、史学上では、4世紀以降(6世紀に普及)ですが、弥生時代の九州の王族の墓から輸入製の馬具が発見されたことから、九州の王族は弥生時代に輸入製の馬具を用いていたと推定できます。
18 埴輪馬


(4) ホツマツタヱには早く進む船が登場します。縄文時代の船は丸太船でしたので、これは弥生時代以降の船です。丸太船では、漁や貿易は出来ても海軍を引き連れて東征することなど出来ません

神武東征の船と、縄文時代の丸太船、弥生時代・古墳時代の船を比較してみれば一目瞭然です。
天武天皇の軍船『おきよ丸』は丸太船ではなく、弥生時代の船と古墳時代の船の中間の形状です。これは、神武天皇の東征が、弥生時代から古墳時代への移り目の時期だったからです。

【縄文時代の船 /玉川大学】
19 縄文時代の釣り

【安土城考古博物館 縄文時代の丸木舟のレプリカ】
21 弥生・古墳時代の船 (2)

【弥生時代・古墳時代の船 / 公益財団法人広島県教育事業団事務局 埋蔵文化財調査】
http://www.harc.or.jp/gyouji/pdf/y2015/26kataru_shiryo.pdf
21 弥生・古墳時代の船 (1)

【美々津 神武天皇東征 おきよ丸 /瑠璃の星 撮影】
23 金印公園 (2)


(5) 西暦100年頃に、奴国が伊都国(邪馬台国)に天下を奪われました。ホツマツタヱでは、三代目天神(あめかみ)のトヨクンヌが日本に渡来したことになっているので、天神国と邪馬台国が同じだとすると、トヨクンヌの渡来時期は西暦100年頃となります。昔から、『天照大御神=卑弥呼』説がありますが、この説によると、渡来時期を西暦100年ころとすれば辻褄が合います。


(6) 世界遺産になった熊野には、イサナギとイサナミ、スサノオ所以の場所が幾つかありますが、時代は1900年くらい前とのことです。こうした場合には100年位の下駄を履かせるのが普通ですので、西暦200年頃の出来事だと推測できます。

【熊野本宮大社】
24 熊野本宮大社


(7) 6代目天神のオモタル・カシコネには嫡子がおらず、天神本家の血が途切れてしまいました。すると大乱が発生したので、トヨケ(豊受大神)がイサナギとイサナミを娶せ7代目天神に据え、大乱を沈めました。この大乱が、『倭国大乱』だと想定すると、西暦180年ころの事で、この時代は、天候不順で餓死者が沢山出て、朝鮮に難民が逃げた時代でした。
そこで、イサナギとイサナミは天神就任後、水耕栽培を四国や紀伊に広めました。それが、ご両尊の国創りの話だと考えられます。もし、この推測が正しいとすると、ご両尊の時代に、邪馬台国は九州北部・四国・中国・紀伊と東西に長細い国になったと考えられます。

(8) 日本書紀や古事記によると、ご両尊の長女の蛭子(ひるこ)姫は磐樟船に乗せられ流されたとされています。しかし、ホツマツタヱでは、ヒルコ姫は立派に成長し、若日孁(女性神官の長)の位に就き、祭祀を営むようになります。そして、『虫払の祭祀』等で、蛭子姫は民心をつかみました
卑弥呼になりえる人物は、当時の身分制度を考慮すると、天神家の王女でなければなりません。それでなければ、女性神官の長にはなれませんし、魏王朝から金印を授与されることはありません。そう考えると、卑弥呼になりえる人物は、ヒルコ姫しか考えらないのです。

【蛭子姫 磐樟船 / 石黒しろうイラスト】
25 クシタマホノアカリ ニニキネ (2)


(9) 天照大御神の嫡子は、オシホミミといいますが、オシホミミには、クシタマホノアカリとニニキネの息子がいます。クシタマホノアカリは九州から大和に天孫降臨し大和政権を樹立します。そのときに同行した天神軍は役900名です。その後ニニキネも多くの兵を引き連れて南九州に天孫降臨します。
縄文時代晩期の近畿地方と九州地方の人口は共に2000名足らずです。この人口ではこのような多数の兵を派遣するなどできる訳がありません

【クシタマ・ホノアカリ(大和政権)、ニニキネ(九州政権)兄弟 / 瑠璃の星イラスト】
26 クシタマホノアカリ ニニキネ (1)


(10)イサナミ、(天照大御神:ヒルコ姫)、卑弥呼、台与にしても、女性が司祭の長になるのは、母系社会の名残です。従って、イサナギは『アイヌ系』ですが、ウビチニ、豊受大神、イサナミは「呉越系」または「漢族系」であったと推測されます。それが男権社会に変わり、Y染色体が受け継がれていったのだと考えられます。


6、『邪馬台国ラプソディ』を書いた前提条件

 ホツマツタヱの世界では、神々の政権交代はないので、西暦100年頃に、天神(天皇)家が渡来し、奴国を軍事力で圧倒し、倭国の政権交代したのだと考えられます。
そう考えると、魏志倭人伝とホツマツタヱがピッタリと繋がります。

上述の情報を組み合わせると、私の推理では、以下のようになります。
紀元前5世紀 : 呉の亡国の王族が日本に渡来し、倭国を建国
紀元前三世紀 : 徐福渡来
紀元前2世紀~西暦100年ころ : 奴国が工業国として発展し、光武帝より金印を賜る
西暦100年ころ : 天神家渡来し、伊都国(天神家配下)が倭国の政権を奪う
西暦180年ころ : 6代目天神のオモタル・カシコネが逝去(天神本家の血筋が絶える)
寒冷期となり、飢饉が発生。多くの倭人が朝鮮に難民
倭国大乱勃発
          豊受大神がイサナギとイサナミを娶せ、7代目天神とする
          イサナギとイサナミが水稲栽培を広め、倭国大乱を沈静化
三世紀初期 : 卑弥呼即位(ヒルコ姫が若日孁となる)
西暦238年 : 卑弥呼の魏王朝への朝貢
西暦248年 : ハタレの乱勃発、卑弥呼(ヒルコ姫)から天照大御神に政権委譲

(以下、略)

『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』は、上述の前提で書きましたがが、読みやすくするために。ラブコメディの小説に仕立てました。涙あり、笑いありの小説なので、楽しんでくださいね。


7、ここで質問です。

 それでは、最後に、皆様方に、来週までの質問を出します。
27 日高見

『日成山、孕み山、日子山』と呼ばれ、豊受大神、イサナギ、イサナミが登った山はどこでしょうか?また、日高見はどこですか?』


邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶


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コメント

非公開コメント

No title

日成山、孕み山、日子山=英彦山 

・・・で正解?

川鍋さんの仰る通りかもしれません。
実際に現地へ行ってみたらそのようにも感じられました。
歴史的な時間軸でみたらそうなのかもしれません。
現時点では、私にはまだ知らないことが多いです。

最後の絵の背景ですが、私は富士山にしています。

富士山というのは、たったひとつの霊峰富士だけではなく
たくさんの地方富士が存在しています。
私の好きな伯耆大山、裏六甲には有馬富士です。

私はハラミ山は自分の身近に見ることが出来る
好きな山に設定しても良いのではないか
という考えを持っています。

こんなこと言ったら
怒られるのかも知れませんが。(笑)
自由な読み方から真髄を掴める人だっているでしょう。

天神族は九州が拠点だった?と知ることも大事と思いますが
現在の天皇家のお住まいは、江戸城・皇居。
あの場所に定められているのは
霊峰富士との関わりを考えらてのことかもしれません。

ホツマツタヱは歴史書というだけでなく
現代~未来につなげる設定書という
役割もあるのではないでしょうか。