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Ⅻ ハラミ山

 本日は日本神話の世界から歴史の舞台へと抜け出したいと思います。先ずは、前回の質問の謎解きから始めます。
前回(第11話)のブログの最後に出した質問は以下の通りです。
『日成山、孕み山、日子山』と呼ばれ、豊受大神、イサナギ、イサナミ、天孫降臨のニニキネが登った山はどこでしょうか?』
山の場所が分かれば、天孫降臨のルートや日高見の所在地がわかり、日本の歴史を紐解く際に役に立ちますので、この謎解きにチャレンジしました。

1 日子山

 それでは、ホツマツタヱから謎解きのピースを探ってみましょう。ホツマツタヱの『人の巻』(32 富士と淡湖、瑞の綾)に『ハラミ山』のことが書かれています。
その文章を抜き出してみると、以下のとおりです。

『山の新しい名前を付けたいと思われた。その時、田子の浦の者が藤の花を献上したのに因んで、ハラミ山の新しい名前を思いついた。名前を付ける御歌は
「ハラミ山がいつまでも栄えるように、花もいつまでも咲けよ。藤蔓の花の名に因んで藤(富士)とつけよう。この山のなんと素晴らしいことよ」
これにより名前を「藤の山」とした』

2 富士と藤

ここには、『ハラミ山』は『藤の山』になったと書かれています。これだけ明確に記述されているので、ハラミ山が、藤の山になったことは間違いありません。
つまり、ホツマツタヱの『人の巻』の記述には矛盾がなければ、一件落着になります。

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 しかしながら、ホツマツタヱの『人の巻』は多くの矛盾が含まれており、嘘で固められた日本書紀と内容と類似しています。それ故に、ホツマツタヱの『天の巻』や『地の巻』とは異なり、書かれたことを鵜呑みにすることはできません。そこで先ずは、『富士山』だという結論を出す前に、疑惑な点を解消したいと思います。

1、 『藤の山』と名付けたのは、7代目の孝霊天皇ですが、孝霊天皇は欠史八代の天皇の一人です。しかし、殆どの考古学者が欠史八代の天皇たちの実在を否定しています。こうした考古学者は、記紀は歴史書として認めていませんが、欠史八代の存在がその一つの理由になっています。
ホツマツタヱは記紀の前に編纂された文章ですので、記紀の内容が嘘呼ばわりされるということは、ホツマツタヱの『人の巻』の記載も否定されていることになります。
しかしながら、実在性の議論をしていても埒が明かないので、孝霊天皇が実在していたという前提で話を続けることにしたいと思います。(否定する証拠が何もないので)
3 

 それでは、孝霊天皇はどのような天皇だったのでしょうか?
記紀やホツマツタヱの『人の巻』では、7代目の天皇であり、117歳で崩御しました。古代天皇の寿命は以下のとおりです。(ホツマツタヱ『人の巻』による)
初代天皇  神武天皇 127歳
2代目天皇 綏靖天皇  84歳
3代目天皇 安寧天皇  70歳
4代目天皇 懿徳天皇  74歳
5代目天皇 孝昭天皇 113歳
6代目天皇 孝安天皇 137歳
7代目天皇 孝霊天皇 118歳
8代目天皇 孝元天皇 117歳
9代目天皇 開化天皇 111歳
 
古墳時代の平均寿命は30歳でしたので、孝霊天皇の117歳まで存命していたことはありえません。これは、大風呂敷を広げているか、または、二倍歴(1年を二期作を考慮して二年と数える暦)を採用しているとしかしか考えられません。
なお、新羅の天日矛は11代目垂仁天皇の時代に日本に渡来しましたが、新羅の建国が西暦356年ですので、渡来時期は西暦360年頃だと考えられます。
すると、富士山の話は、7代目孝霊天皇の時世だったので、四世紀前半の話ということになります。


ところで、孝霊天皇は、奈良県桜井市の箸墓古墳の主の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の父親です。
この倭迹迹日百襲姫は卑弥呼ではないと断言できます
倭迹迹日百襲姫が大物主の妃であることは記紀やホツマツタヱ『人の巻』に記載されているので公然の事実です。従って、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫が同一人物だとすると、『卑弥呼は独身である』と魏志倭人伝に書かれることはありません。
また、国立歴史民俗博物館が、C14年代測定法で箸墓古墳の年代を測定した所、造成時期は250年±10年との結論を出しましたが、この測定結果は誤りです。孝霊天皇の娘の墓なので、4世紀前半に建造された墓ということになります。
考古学会的にも、『ホケノ山古墳は西暦300年ごろに築造されたもの、箸墓古墳を西暦350年ごろ以降に築造された』と判断されています。
箸墓古墳が卑弥呼の墓でないという沢山の科学的な論文がありますが、その一つを添付します。興味があれば御覧下さい。
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.pdf
4 箸墓古墳


2、 『32 富士と淡湖、瑞の綾』の別の文章を抜粋します。
『一月十二日の朝、諏訪の祝主がハラ山の絵を献上した。君はこの絵を褒めた。
同じ時、白髭(スセリ)の子孫のアメミカゲが淡海の絵を献上した。君が大変気に入った献上品であった。
ある日、孝霊天皇がカスガに話された。
「吾は昔、このハラミ山の絵を見たけれど、優雅ではなく高いだけだったので、父君はその絵を捨ててしまった。この度の淡海の絵と併せると、調和が取れている。
ハラミの山の良い薬草も五百年前に焼けて無くなってしまったが、種から再び生えてくるよい兆しである。淡海の水がハラミ山を潤せば千代見草も生えるだろう」と、楽しまれた』

  *****
  この文章の問題点は、4つあります。
① 『ハラミの山』と書かれてはいますが、富士山とは書かれておらず、また、ペアリングを考慮すると、淡海は富士山の近辺にある縄文海進の跡だと考えられますが、どこだか特定することができません。この文章だけでは、富士山とは特定できません。しかし、他の文章を読み解くと、富士山という解釈で良いと思います。

② 孝霊天皇がカスガ(アマノコヤネ:天児屋命)に話したことになっていますが、カスガはテルヒコ(クシタマホノアカリ)に随行してアスカに出向いた後、ニニキネ、ホオテミ、ウガヤの鏡臣になりました。ウガヤの子が神武天皇で、初代天皇となりますが、孝霊天皇は第七代です。カスガの年齢を考えると、孝霊天皇がカスガに話すことはありえません
従って、ここに登場するカスガは天児屋命ではなく、恐らくカスガの末裔だったと考えられますが、これが誰だか分かりません。なお、カスガは藤原家の祖先です。
5 カスガ

③ 『ハラミの山の良い薬草も五百年前に焼けて無くなってしまった』とありますが、これが山火事で焼失したのか、噴火によるものか分かりません。噴火によるものでしたら、紀元前200年頃の富士山の噴火によるものだと考えられ、この話をしている時期は、西暦300年頃となります
また、「中峰に調和するものは淡海で、八つ峰に調和するものは裾野の八湖である。今は三つ埋まってしまった。噴火はしたが、中峰の美しさは変わることはない」とありますが、西暦800年頃までは湖は3つしかありませんでした。これは確な情報を知らずに、聞きかじりで話したものと思われます。
6 富士山噴火

3、『32 富士と淡湖、瑞の綾』の更に別の文章を抜粋します。
『三月中頃、オオヤマトフトニ君はハラミ山へ御幸された。その行程が決まり、黒田より香久山、賀茂の宮、多賀の宮、諏訪へ行き、酒折の宮ではタケヒテルが宴の支度をして待っていた。
その後ハラミ山に登って、須走りを下り、山裾を巡り、ムメ大宮に着いて、滞在された。

7 浅間神社


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3月中旬に富士山に登頂したことになっていますが、その時期に富士山に登頂し、須走を下れるはずはありません。それに、天皇が冬山登山をすることが許されるわけがありません。これは、時期ズレの記述だと考えられます。どうやら、オオタタネコの文章は正確性よりも神秘性を重んじているように考えられます


4、クシミカタマの霊山
神武天皇の側近のクシミカタマが編纂した『天の巻』と『地の巻』によると、この山の様相は一般します。先ず、山の名前が変遷していきます。孝霊天皇の時代の呼び方は、『日子山』だったはずです。

①【ヒナル岳】:
『コシの国のヒナルの岳の神宮に、木の実を持って御子がお生まれになったので、その木の実を庭に植えておいた』 ウビチニ/スビチの時代
8 ウビチニ

英彦山の麓に(福岡県)香春岳がありますが、二ノ岳の『耳成岳』が日成岳に相当すると考えられます。

【香久山】:『タカミムスビは常世の花をハラミ山に植えて、香久山と呼び』 高皇産霊 
香久山に関しては、同じく香春岳の三ノ岳の『天香山』の事を言います。
『新古今集』の持統天皇の句『春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の  衣(ほすてむ) 天(あま)の香具山(かぐやま)』は、九州では『天香岳』のことだとされています。(カルスト地形で鍾乳石の白色が衣を干しているように見えるため)

【福岡県香春岳 一ノ岳=畝尾山、香春岳 二ノ岳=耳成山、香春岳 三ノ岳=天香山】
9 香春岳


なお、富士山近郊も探してみましたが、該当する岳が見つかりませんでした。
ヒナル岳、香久山という名の場合、英彦山近辺の方に軍配があがりそうです。


②【ハラミ山】:
『アメミヲヤの子孫には、人の上に立つ者も大勢いますが、その中に天下を治める道理の教えを受けて、民の嘆きを和らげることのできる人はなかなか現れません。そういう人がいなければ世の則(ノリ)も尽きてしまうだろうと嘆き、トヨケ尊はハラミ山に登ってみたけれど、国中のたくさんの民はうごめくばかりで、則を習えないのも道理だと、つくづく嘆いて、ヒタカミの宮に帰りました』 豊受大神の国情視察

豊受大神、イサナギ、イサナミ、ニニキネは、輦(輿)で移動していました。従って、ハラミ山と日高見は近距離でなければなりません。
九州の場合、『日高見(日田)』と英彦山と近距離ですが、富士山と日高見(東北地方)は遠いので、ハラミ山が富士山、日高見が岩手・宮城県であるわけがありません。
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『同じ頃二尊がハラミ山に登ったとき、イサナギ尊が言われました。二人で一緒に国々を巡って民を治め、姫皇子を産んだが、世継ぎの皇子が生まれず、心が安らかでない。イサナギ尊は池の水で左の目を洗っては日の霊に祈り、右の眼を洗っては
月に祈りました』


【富士山の天辺 剣ヶ峰】 お祈りをするのに相応しい場所ではないですね。
10 富士山頂上

ハラミ山に毎日登ったことを考慮すると、長期に渡り、富士山の頂上まで登頂するのは考えられません。(今ならば、五合目から登りますし、一合目まで簡単に来られますが、徒歩や輿で毎日来るのは無理です)
また、池はありません。水を調達する場所は『神徳水』ですが、この水で目を洗ったとは考えにくいです。
11 神徳水

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『雲のかかる山を分け入り、信濃の諏訪より、道案内されてハラミ山に着いた。ハラミ山から四方を見て「裾野は広い。水を引いて、裾野を田にせよ」とニニキネはタチカラヲに、裾野に水を引く井堰を掘らせた』

『その湖の名は、東は山中湖、東北はアス湖、北は川口湖、北西は本栖湖、西は西の湖、西南はキヨミ湖、南はシビレ湖、東南はスト湖である。


【富士五湖の歴史】
(ⅰ)紀元前3000年頃
12 富士五湖1

(ⅱ)紀元前200年頃
13 富士五湖2

(ⅲ)西暦800年頃
14 富士五湖3

(ⅳ)現在
15 富士五湖4

西暦800年前は、山中湖はなかったので、ここでのハラミ山は富士山ではないことがわかります


*****

『新治の民が大勢やってきて、それぞれの湖の土を持ち寄り、小山を造った。ハラミ山の八峰のようにして、天に願いが届くようにし、真中の峰も欲しいものだと考えて、ウツロヰがアワ湖の土を浚い、三尾の土を担いで運び、短期間のうちに真中の峰を造り上げた。
そこに祭った神の名を厳朝間峰の神とした。山は高く、湖は深く、他に並ぶ所はない。ハラミ山の峰に降る雪は湖の水となり、流れの末は多くの里の田となって、あまたの民を潤した。二十年毎に井堰を浚え」と言って、ニニキネは酒折りの宮に入った』


アワ湖が琵琶湖という話だという説がありますが、当時の土木技術力で、琵琶湖の土を富士山に運ぶのは無理です。
なお、『浅間』という峰がありますが、富士山では浅間神社が名残かもしれません。そして、英彦山の場合には、浅間山があります。

16 英彦山浅間山


なお『酒折りの宮』は、日本書紀では『八尋殿』で、宮崎県の西都原にあります。ニニキネに関わる遺跡は沢山残っています。それに対して、富士宮浅間神社の祭神は木花咲耶姫です。両方共互角に見えますが、浅間神宮の由緒書きを読むと、九州のほうが有利であることがわかります。

浅間神宮の由緒(富士本宮浅間社記)
『第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です』とあります。
ここでも7代目孝霊天皇の名前がでてきましたね。『富士本宮浅間社記』には噴火の驚異の話が書かれていますが、ホツマツタヱでは噴火が沈静化しているので、記述内容が異なりますね。これは、『富士本宮浅間社記』に誤りがあると考えられます。
ここで重要なのは、孝霊天皇の時世に大噴火があり、垂仁天皇が浅間大神を祀ったことです。これは、ニニキネと木花咲耶姫がここに暮らしていたから祀られたのでは無く、4世紀に富士山の噴火対策として、火難を克服した木花咲耶姫を祀ったということです。また、『酒折りの宮』はどちらかというと、ヤマトタケル命の舞台です。
*****


③【日の山】(ヒノヤマ)
『日の山の麓に新しい宮を造り、アメミコはヒタカミから遷られた』 天照大御神


④【オオヤマ】:『日の山という名もオオヤマに変えた。故に宮の名をオオヤマト、ヒタカミのヤスクニの宮とした』 天照大御神 


⑤【日子山】
日本書紀によると、ヲシホミミの時代に『日子山』に名前を変え、現在に至っているとされています。
17 英彦山

 英彦山は、古来から、神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました
嵯峨天皇の弘仁10年(819年)詔(みことのり)によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで、霊元法皇。享保14年(1724年)には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山」と改称され現在に至っています。この山は、天皇家公認のオシホミミのための霊山です。(日高見に住む高木神から贈られた霊山と伝えられています)
英彦山には、オシホミミ、イサナギ、イサナミが祀られており、子作りのお祭りもあります。


5、結論
 トヨケ・イサナギ・イサナミ・ヲシホミミが登った山(神武天皇の東征前)は、福岡県の(英彦山+香春岳)の可能性が高いと考えられます。この山は、英彦山として現在に至っています。
そして、神武天皇の東征以降は、東海地方にハラミ山の名称を移し、東方に信仰を広めていったと。そして、孝霊天皇の時代に、『ハラミ山』→『藤さん』→『富士山』に変化したと考えられます。
 つまり、英彦山も富士山も、両方共、正解ということになります。

これは、私の推測ですが、参照にして頂ければ幸甚です。

なお、今回の調査で分かったことは、『人の巻』を編纂したオオタタネコはとても見栄っ張りで、大風呂敷を広げる癖があったようです。『人の巻』は、眉に唾をつけて読む必要がありそうです。(三輪神社 活玉依姫)
18 三輪神社


邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶


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コメント

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No title

英彦山の周辺も、香春の町も、
一度行っただけですが魅了されてしまいました。
緑の多い山々や田園風景、山影に建つ古民家・・・
すっと溶け込んで行きそうでした。

富士山の御来光を望む天辺は、純粋な祈りの場という感じでした。
英彦山は現実的な誓約の場という印象をうけました。
親しみが湧いてくる山でした。

また行きたいなぁ~。

欠史八代の天皇は詳しく語られていないので
自由に神秘的解釈ができる感じですね。(笑)

インスピレーションって大事だけれど
想像だけでは停止してしまいますね。

実証できることはどんどん公開されるべきと思います。