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XIII 高皇産霊家の砦 日高見

前回(第12話)のブログでは、『日子山』の話をしましたが、『英彦山』は富士山なんかと比較すると知名度が低く、どのような山かピンとこないと思います。そこで、先ずは『英彦山』の説明から始めます。但し、これは私流の解釈によるものです。
そして、その後で、『日高見』の場所を特定してみます。

1、英彦山
(1)概要
 記紀における『日子山』は『英彦山』のことで、福岡県添田町大分県中津市山国町にまたがる山です。北岳、中岳、南だけの3つの峰があり、標高点は南岳(1,199m)です。
1 英彦山紅葉

 英彦山の北岳には主神として天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)、配神として南岳に伊弉諾尊(イザナギノミコト)、中岳に伊弉冉尊(イザナミノミコト)が祭られています。
 また、下津宮の祭神は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、神武天皇大国主命です。そして、 中津宮には、宗像三女神が祭られており、上宮のすぐ下には産霊(むすび)神社があり、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と玉依姫などが祭られている。更に、摂社の玉屋神社には、ニニギノミコト、末社の大南神社には天火明命(アメノホアカリノミコト)が祭られています。豪華絢爛なメンバーです。


(2)太古の霊山
 この山は太古より、下に載せた『瑠璃の星』さんの写真のように、霊力が宿る山として、多くの貴人が祈祷に登山されたので、『霊山』と呼ばれ、その後も幾多の名前の変遷がありました。
2 高住神社 木々への光
3 高住神社 岩への光


(3)豊受大神
 この『霊山』は、天神家一族が倭国に渡来すると、天神家一族の持ち物になりました。そして、『霊山』の山の連なりを『日成山』(香春岳)として山岳信仰の山として崇めていました。

【4代目天神 ウビチニ・スビチ/瑠璃の星】
4 ウビチニ

その後、6代目天神のオモタル・カシコネに嫡子がいなかった為、豊受大神がこの山を引き継ぎ、高皇産霊家の持ち物になりました。

【下の写真は瑠璃の星さんの写真です。豊受大神の像ではありませんが、多くの貴人がこの山に祈祷に出向きました】
5 修験者

 そして、『ハラミ山』と呼ばれるようになりました。
ハラミ山の語源は、『(イサナギとイサナミがアマテルの神霊を) 孕んだ山)の意味ですが、『ハラミ』(「ハ」:ハホ菜(苦い)、『ラ』:ラハ菜、『ミ』:身草)』を食すと千年寿命が延びるという千代三草を讃え、この三草が生える霊峰をハラミ山と名づけたとも言われています。

 そして、5代目高皇産霊尊の豊受大神(トヨケ)が、この『ハラミ山』と呼ばれた『英彦山』に登り、頂上から四方を見渡し、天下が大乱の渦に飲み込まれてしまったことと嘆きました。それで、領地の日高見に戻り、娘のイサナミと天神嗣子家(4代目天神のウビチニの養子一族)のイサナギと娶せ、二人を7代目天神としました

【英彦山鳥瞰図 吉田初三郎】
6 英彦山鳥瞰図

 英彦山からは、周防灘や玄界灘、福岡、日田(日高見?)を一望することができ、国内外の情勢を把握することができました。


(4)イサナギとイサナミ
 イサナギとイサナミの時代にはまだ母系社会の要素が残っていたのですが、豊受大神とご両尊が相談して、今後は男権社会に変えていくことにしました。そして、ご両尊の長男が生まれたら、豊受大神が帝王学を授けた後に、新生天神家の初代当主に据えることにしました。既に長女(ヒルコ姫)が生まれていたのですが、嫡男を生もうと神に祈りました。(道教や儒教の影響を受けたのでしょう)

 そこで、ご両尊は『ハラミ山』に毎日登頂し、嫡男の誕生を神々に祈りました。すると、ハラミ山の山頂で、イサナミがアマテル(天照大御神)の心霊を孕んだとされています。
『ハラミ山』の祭祀の効能があり、イサナミは嫡子のアマテル(天照大御神)を出産しました。その後、アマテルは日高見に座す祖父の豊受大神から、タカキネと一緒に帝王学を学びました。タカキネは豊受大神の孫で、タカキネは斎名(いみな 諱)で、幼名をフリマロといい、長じて高木神(7代目高皇産霊尊)になりました。
アマテルが学問成就すると、8代目天神になりました。同時に、豊受大神が『地神(国つ神)』の国の初代王としても宣言しました。
その時、『ハラミ山』は『日の山』と名前を変えます。

【イサナギ・イサナミ・天照大御神/瑠璃の星】
7 御両尊、アマテル

 イサナギとイサナミは英彦山の副祭神ですが、英彦山神宮には『御汐井採り』と『御田祭』という神事が大昔から面々と伝えられてきました。

 英彦山神宮の御汐井採り神事は、往時、英彦山最大の行事でした。
https://www.town.soeda.fukuoka.jp/docs/2014061800019/files/04.pdf
旧暦の1月26日・27日から日毎にかけて、今川、祓川の36Kmの道程を辿り、行橋市沓尾浜の姥ケ懐へ出向き御汐井彩りを行います。

【https://blogs.yahoo.co.jp/shicyusuimei/17212525.html】
8 御汐井採ルート

 『御汐井彩神事』は、古来より英彦山の神事で、色衆(女・陰)、刀衆(男・陽)といった陰陽によって執り行われてきました
9 御汐井採 山下り

2軒の『奥屋』が決められており、この際に、両家では陰陽合体を意味する『入れ違いの儀』を行われます。志摩縄を貼った桶の中に、お神酒1本、潮吹貝数個を奉書に包みに入れて取り交わします。
 その後、深夜、沓尾浜まで向かいますが、宿人は提灯を掲げて今井大橋まで見送ります。この後は深秘とされ、何人も見てはならないと伝えられており、「見たものは目が潰れる」と言って、道筋の人家は土を閉ざし、垣間見ることも許されません。一行は、沓尾浜まで行き、禊を行い2尺ほどの竹筒に潮を汲んで宿に持ち帰ります。これを、英彦山まで持ち帰ります。

【姥ケ懐/福岡県行橋市沓尾浜】
10 姥ケ懐


 イサナギとイサナミ由縁の山である英彦山では、毎年、こうした子作りの祭祀(神事)が執り行われて来ました。
ご両尊は『ハラミ山』で子作りのお祈りをしましたが、その祭祀が今に至るまで綿々と引き継がれてきました。

 また、英彦山神社には、『御田祭』という神事があります。稲の豊穣を祈念するもので、氏子8名により、①鍬入れ、②畝切り、③田打ち、④畦切り、⑤馬把、⑥、⑦田植え、⑨飯載汁載、の神事が執り行われます。『飯載汁載』は、妊婦が頭に飯汁を乗せて登場しますが、これは『孕み』と『実り』の象徴とされるものです。やはり、英彦山は孕み(子作りの祭祀)と切っても切れない縁にあるようです。
11 御田祭

(5)ヲシホミミ
 アマテル(天照大御神)は12人の妃を娶り皇室を築き、その中から瀬織津姫を中宮(正妃)としました。

【天照大御神と中宮 瀬織津姫/瑠璃の星】
12 アマテル ホノコ

そして、二神の間にできた嫡子がヲシホミミです。

【瀬織津姫とヲシホミミ/瑠璃の星】
13 ヲシホミミ 瀬織津姫

 ヲシホミミが成長すると、トヨケ(豊受大神)の孫の高木神が、高皇産霊家を摂関家にしようとして、娘のタクハハタチチ(栲機千々姫)をヲシホミミ(天忍穂耳尊)の后に据えて頂く交換条件として、英彦山をヲシホミミに譲ることを約束しました。
それで、英彦山はヲシホミミを祀る霊山となり、また、高皇産霊家のホームグラウンドである日高見に遷都しました。この時、ヲシホミミは『日(天照大御神)の子』ですので、『日の山』は『日子山』に改名しました。
 その後、ヲシホミミの次男のニニキネもこの山に登ってから、天孫降臨を果たしました。


(6)英彦山の開山
 中国北魏の僧・善正上人が、宣化天皇(西暦467-539年)の御世に、仏教公伝(538年)より前の531年に渡来し、英彦山の霊泉寺を開山しました。
そして、善正上人の教えを受けた日田出身の『藤原恒夫』が、英彦山に『高住神社』を開山しました。
この由緒(伝説)を下記に添付しましたので、興味が御座いましたら一読下さい。
https://www.town.soeda.fukuoka.jp/_common/themes/joruri/densetu/hikokaizan2.htm

 平安時代に入った西暦819年に、僧法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て嵯峨天皇に上申し詔によって、「日子山」を「彦山」に改めたとされます。
そして、江戸時代の西暦1719年に、霊元天皇が「『彦』だけでは恐れ多いとして、『英』の尊号を受け『英彦山』と改められたのです。
元禄9年(1696)には幕府より別格本山に認められ、英彦山は江戸時代中期には800の坊舎と、山伏ら僧衆3000を擁したといわれ、盛んに「彦山まいり」が行われたそうです。以来、英彦山修験道の法灯は連綿と受け継がれ現在に至っています。


(7)富士山
 ホツマツタヱの中では、『ハラミ山』とは『富士山』のことだと考えるのが本筋かもしれませんが、この説だと辻褄が合わない点がたくさん出てきます。神武天皇の東征前も『ハラミ山を富士山とする説』を選択される場合には、以下の矛盾点の説明が必要になるでしょう。


① 富士宮浅間大社の御由緒の『起源』には、こう書かれています。
 『「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています』
14 仏門の富士山

 この起源を要約すると以下の通りです。
第7代孝霊天皇の御代の富士山の噴火で世の中が荒れ果ててしまいました。そこで、第11代垂仁天皇が、火難から逃れた木花咲耶姫の御神霊を富士山に勧請され、富士山の噴火を鎮めようとしました。この祭祀が効果てきめんだったため、浅間神社(木花咲耶姫)を祀る祭祀は全国に普及したとされています。つまり、この地で、木花咲耶姫が富士山で火難を逃れたのではなく、木花咲耶姫の御利益にあやかって、御神霊を富士山に勧請されにすぎません。つまり、木花咲耶姫は生前富士山を訪れてはいないのです。

② また、『平安時代、都良香(みやこのよしか)(834~879)の著した『富士山記』には、富士山頂上の様子が書かれています。

 『山に神あり。浅間の大神と名づく。この山高く雲表を極むること、幾丈なるをしらず、頂上に平地あり、広さ一里ばかり。その頂の中央窪く下りて、体炊甑の如く、甑の底に神池あり。池中に大石あり。石の体驚奇にして、宛ら蹲虎の如し。亦その甑底を窺へば湯の沸騰するが如く、その遠きにありて望む者は、常に煙火を見る。 ・ ・ ・中略 ・ ・ ・宿雪は春夏も消えず。』
15 富士山火口

 平安時代になっても、山頂には神池は『湯が沸騰している』と書かれていますので、イサナミのように目を洗うことは無理だと思います。また、山中湖ができたのは、平安時代以降のことです。

③ 『ハラミ山』は豊受大神が国情視察したり、イサナギ、イサナミが天照大御神の誕生を祈って登場された霊峰です。また、天照大御神が成長すると、『ハラミ山』は『日の山』と改名します。
しかし、富士宮浅間大社の主祭神は木花咲耶姫で、副祭神がニニキネと木花咲耶姫の父の大山祇(マウラ)です。豊受大神、ご両尊、そして天照大御神たちが祀られていないのに、『ハラミ山』の場面には一切登場しない木花咲耶姫やマウラが祭神となっているのはありえないことです。
また天孫降臨のニニキネはハラミ山の周辺を開拓したとホツマツタヱに書かれており、最大の功労者なのですが、副祭神の座に甘んじています。ホツマツタヱを素直に読んで、『ハラミ山』が木花咲耶姫の霊山だと読み解く方はおられないと思います。

16 瀬織津姫銅像


④ 富士山信仰は、ニニキネの時代というよりは、ヤマトタケルの時代の話だと思います。
 社記には、『日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています』と書かれています。
17 ニニギ富士山銅像

⑤ トヨケ(豊受大神)は国情視察にハラミ山に出かけたのですから、日高見や都が山頂から見えねば国情視察する意義がありません。もし、日高見を岩手・宮城だとすると、富士山の山頂からでは日高見を展望することはできません。
 日本書紀で、ヲシホミミが山に登り『世が騒がしい』と言い、自ら降臨することを拒否しました。しかし、ヲシホミミの代わりに長子のクシタマ・ホノアカリが降臨した地は大和で(斑鳩・飛鳥)、次男のニニキネが降臨した地は南九州です。この地域をすべて見渡せる山はありませんが、それでも富士山の立地場所は不利だと思われます。

⑥ 王族が九州で輸入した馬具を用い始めたのが弥生時代です。古墳時代になり乗馬が普及しましたが、日本書紀には船は時々登場しますが、馬は象徴的あるいは神話的過ぎるものを除くと応神天皇十五年のところが最初になります。
 『百済王が阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を貢いだので、軽の坂上の厩に養わせ、因って阿直岐をして飼うことを掌らせる。故に其の馬を養う処をなづけて厩坂(うまやさか)というのだ』とありますので、4世紀の中半ころに大陸から馬がられてきていたことがわかります。天照大御神の時代(弥生時代)には、一握りの王族だけが乗馬しましたが、まだ徒歩、輿、船がメインの交通手段だったようです。

【古墳時代の埴輪馬】
18 埴輪馬 新型

 従って、都、ハラミ山、日高見の間を移動するのに、徒歩(輿を含む)か船でしたので、そこを往復するのに数ヶ月掛かってしまったはずです。更に、電話のようなコミュニケーション・ツールがありませんでしたので、国政を円滑に進められるわけがありません。狼煙があったかもしれませんが、狼煙は一度に伝えられる情報量が少なすぎますので、狼煙で政策協議をするのは不可能です。そう考えると、『ハラミ山』と目される富士山は都から遠すぎます。

⑦ ハラミ山は香久山と呼ばれた時代がありました。しかし富士山にその痕跡が残されていません。富士山信仰は、奈良・平安時代から盛んになりましたので、縄文・弥生・古墳・飛鳥時代の痕跡を求めるのは難しいかもしれませんが。
【香春岳(九州の香久山)】
19 香春岳


(8)檀君神話
 東洋の国では、国の歴史を古く見せようとして、国書を改竄することが多々あります。朝鮮の檀君神話をご存知でしょうか?檀君王倹が紀元前2333年に檀君朝鮮を開いたという神話で、この年が朝鮮歴の元年として今でも使われており、韓国の教科書に檀君朝鮮は真実の歴史として書かれています。
20 檀君

 神話の内容は以下の通りです。

 太古の昔、桓因(ファンイン)という天帝の庶子に桓雄(ファンウン)がいました。桓雄が熊の願いを聞き届け人間の女性にすると、桓雄も人間になり、その熊と結婚し、檀君王倹を生みました。檀君は紀元前2333年に平壤を都として檀君朝鮮と呼びました
周の武王が、紀元前1126年に商(殷)の公子の箕子(キジャ)を朝鮮に封じたので、壇君は退き山神となりました。寿命は1908歳でした。
21 檀君神話本

 高句麗時代の一然が西暦1280年代に書いた『三国遺事』に檀君神話が載せられており、魏書が引用元とされているのですが、魏書(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には、檀君に該当する記述が全くありません。
何れにせよ、檀君王倹が存在したという、確かな証拠がありません。
北朝鮮で檀君王倹の骨や墓が発見されたという情報が流れましたが、捏造だということが分かっています。
そこで、韓国以外では、檀君神話は創作だとされています。尚、箕子朝鮮は商の公子が中国から移り住み建国した国ですので、中国の歴史の一部です。

 檀君朝鮮も箕子朝鮮も実在したのかもしれません。しかし、存在していたとしても、国レベルの規模ではなく、部落か村レベルの組織だったのだと思います。朝鮮は冷寒で作物が育たず狩猟生活であった為、紀元前の遺跡を調査すると人口がとても少なかったことが分かっています。従って、国と呼べる規模の集落はなかったと考えられます。

 このような小集団単位でしたら、日本では、縄文時代の幕開け時期(13000年前)にもあったと思いますし、五百人規模の集落でしたら、青森の三内丸山遺跡がそれに該当します。丸山遺跡は紀元前2500年頃に最盛期を迎えていたので、檀君朝鮮が建国する前のことです。

 それでは一体、国や歴史とは何なのでしょうか?やはり、記録に残されるものでなければならないのでしょう。しかし、記録と言っても、檀君神話のようなものでは、歴史と言えそうにありません。檀君神話は歴史書としては、内容が貧弱で、非現実的だからです。

【日本書紀】
22 日本神話

 ホツマツタヱは内容的には歴史書として誇れる内容だと信じていますが、檀君神話ように、『人の巻』は、神秘性を増し神々しさを出すために、檀君神話的な要素を取り込んでいるように感じられます。例えば、寿命にしても非現実的です。これでは、考古学会から神話だとして、相手にされない日本書紀と何も変わりません。ホツマツタヱが日本書紀と同様に信頼できない書だと評価されるのは残念に思えてなりません。
 日本神話があまりにも非現実的な内容であったために、とうとう小学校の教科書の歴史から『神武天皇の東征』が抹消されてしまいました。日本神話が嘘を積み重ねた結果、歴史だと見做されなくなったことは非常に嘆かわしいことです。ただ『人の巻』に関しても、日本書紀と同じ誤りを犯しているように思えてなりません。
私は、ホツマツタヱを真実の歴史書として取り扱おうと思っていますので、不自然な部分は徹底的に解明するための努力をしていこうと考えています。



2、日高見
 日高見はホツマツタヱだけでなく記紀にも登場する有名な場所です。この地が特定できねばなければ、古事記、日本書紀、ホツマツタヱは単なる神話でしかありまえん。
しかし、記紀の解釈さえも人によりまちまちです。北上川の流域という説が有力のようですが、どの説も確たる証拠がありません。こうした状況が放置されているのは、記紀は神話として扱われているので、日高見の場所の特定は、考古学会にとって意味がないからなのでしょう。
 私は、ホツマツタヱの『天の巻』と『地の巻』は真実の歴史書だと評価しているので、私流のやり方でホツマツタヱから日本の真の歴史の姿を導き出したいと考えています。
手始めとして、日高見がどこにあったのかを推定してみます。

【日高見】 『日高見』の節は、才女の瑠璃の星さんのイラストのオンパレードです
23 日高見

(1)日高見にはどんな由緒があるの?

 先ずは、日高見がどのような場所かを、ホツマツタヱから抜粋してみたいと思います。
① 高皇産霊家の代々の領地
② 5代目高皇産霊尊の豊受大神(トヨケ)が、6代目天神のオモタル尊の逝去後、跡継ぎがいなかった為、代理として政治を執った所。トヨケが誕生し、育ち、朝日神として葬られた所

【豊受大神】
24 トヨケ

③ 豊受大神の娘のイサコ(イサナミ)が生まれ育った所
④ 豊受大神の嫡子の神皇産霊尊(6代目高皇産霊尊)が生まれ育った所
⑤ 高皇産霊家のアチヒコ(思兼)が生まれ育った所。(思兼は後に、ヒルコ姫(若日孁)の婿となり、手力男を生む)


【ヒルコ姫と思兼夫婦】
25 ヒルコ姫とオモイカネ

⑥ 天照大御神が豊受大神から帝王学をタマネキ(高木神)と一緒に学んだ所
⑦ 豊受大神が逝去した後、天照大御神が少しの間、日高見の政を執った
⑧ 7代目高皇産霊のタマネキ(高木神)の生まれ育った所

【高木神】
26 高木神

⑨ 高木神の子供のフトタマ、ヨロマロ(8代目高皇産霊)、タクハタチチ姫、三穂津姫(大物主・クシヒコの妃、宮中で絶大な権力を握る)が生まれ育った所
私は、三穂津姫が台与で、箸墓古墳の主だと推定しています。

【卑弥呼のイラストですが、台与のイラストとしています】
27 台与(卑弥呼)

⑩ 天照大御神の嫡子ヲシホミミが高木神の公女のタクハタチチ姫と結婚し、ヨロマロの提案で遷都した先。二人の子のクシタマ・ホノアカリとニニキネが生まれ育った所
⑪ クシタマホノアカリとニニキネは、二人共、日高見から天孫降臨を開始した
⑫ スサノオがハヤスウ姫と巡り合った所
⑬ 天照大御神が逝去し、葬られた所


 どうですか?他にもまだあるかもしれませんが、上述のごとく、『日高見』は歴史上とても重要な場所なのです。『ハラミ山』の場所にはあまり拘る必要はありませんが、『日高見』の場所の比定は、日本の真実の歴史を紐解いていくのに、なくてはなりません。


(2)神武天皇の前の天神はどこにいたの?
 まず、神武天皇の東征ですが、宮崎神宮から出発し、都農神社等を陸路で通り抜けて美々津まで向かい、そこから軍船に乗って船出し、大和を目指しました。
つまり、東征前は、神武天皇、ウガヤ、ホホテミ、ニニキネは九州(主に南九州)にいました。そのため、青島神社、鵜戸神宮、宮崎神宮、霧島神宮、鹿児島神宮等に、これらの天神のゆかりの地が残されています。

 木花咲耶姫も宮崎県の西都原(都萬神社)に痕跡を残しています。この時代の舞台は主に南九州でした。磐長姫の神社(白鏡神社)と詳しい伝説も西都原にあります。
【木花咲耶姫】
29 木花咲耶姫

28 御陵墓参考地

 御陵墓参考地は数箇所ごとありますが、天神の縁の神社や御陵墓参考地は全て南九州にあります。つまり、ニニキネが天孫降臨して木花咲耶姫と出会ったのは宮城県西都原を基点として、ニニキネは狗奴国がある南九州を開梱しながら、平定していったのです。その様子は、ホツマツタヱに書かれています。
ニニキネが3公子を呼び、ニニキネ自らが、「兵ではなく、水耕栽培の普及で反乱を平定する」と告げました。


(3)天孫降臨のルート
 それでは、もっと前に遡りましょう。ニニキネは天孫降臨で高千穂から延岡『大御(オオミ)神社』経由で西都原まで来ました。高千穂から延岡の間に、ニニキネや猿田彦が立ち寄ったとされる神社が数多く残されているので、このルートが天孫降臨のルートであることが分かります。熊本県の幣立(へ いたて)神宮もその一つです。
 高千穂の前の天孫降臨のルートを私の勝手な推定で入れてみます。推定ですので、間違いがあると思いますが、ご容赦下さい。

日高見 → 飛鳥(大和にいる兄のクシタマホノアカリに挨拶) → ミツ(大分 光吉)→ カンサキ(大分 神崎)→ マナイ(英彦山) → コエネ(宗像・白山、白山は宗像族の山城がある場所)

【宗像大社】ニニキネが白山姫より山輿を授かる
30 宗像大社礼拝

 → クマノ・マンキノ(福岡) → オトタマ川(嘉麻川:御田川上流) → ミオ(福岡城南?) → タガ(直方?) → ミノ(香春) → ハラミ山 → 高千穂 → 立岩神宮 → 延岡 → 大御神社 -(船)→ 西都原

天孫降臨のルートの地名の特定理由は、『邪馬台国ラプソディ〈第三巻〉』で詳しく説明しますので、ここでは省略させていただきますが、天孫降臨のルートは、兄のクシタマ・ホノアカリへの挨拶を除くと、北九州から高千穂を通り抜け、南九州へ抜けるルートです。


(4)『日高見の』最有力候補地
 私は日高見の最有力候補地は、大分県日田市だと考えています。この理由は次回のブログで述べます。日田はあまり有名ではありませんが、神話や歴史の宝庫なのです。また、九州の交通の要所で、日高見としての立地条件の全てを満足します。

 それでは何故、北上川流域が日高見ではないと考えた理由を述べさせて頂きます。
① 豊受大神(トヨケ)や天照大御神、ヲシホミミが『日高見』を首都としましたが、情報網(飛脚・狼煙?)も交通網(徒歩、輿、船)が未発達の弥生時代では、北上川のような辺鄙な地に首都を置いても、国の政治が円滑に回るわけがありません。弥生時代は、九州のごく一部の王族しか、乗馬はしませんでした。縄文時代では乗馬はしませんでした。これは、考古学から断言することができます。

31 弥生時代船

② 日高見は高皇産霊家の領土であり、豊受大神や天照大御神が政を執りました。また、ヲシホミミが都を置いたので、高皇産霊尊とヲシホミミが政を執った館が残されていなければなりません。豊受大神、イサナミ、神皇産霊(ヤソキネ)、カンサヒ、ツワモノヌシ、タカキネ、オモイカネ、スクナヒコ兄弟、ミチコ・コタエ(天照大御神の妃姉妹)、フトタマ、クシタマ、ヨロマロ兄弟、タクハタチチヒメ、美穂津姫、クシタマ・ホノアカリ、ニニキネが生まれ育った場所です。北上川の流域で、吉野ケ里のような国会議事堂のような場所や高皇産霊家の親族を収容できる施設の跡や水耕栽培跡が見つかりません。(天神一族は水耕栽培を広めて民から信を得ました)
なお、青森県の三内丸山遺跡は『蒙古系』の血脈の部落ですので、高皇産霊家の血筋ではありません。また、太古にこの地を日高見と読んだという証が何もありません。仙台近郊も同様です。
32 吉野ケ里

③ 豊受大神が日高見で逝去されたので、日高見には、神名の『朝日』や『天神』の名前が残されているはずですが、見当たりません。豊受大神と天照大御神はどこに祀られたのかが分かりません。伊勢神宮には、神武天皇の東征以降に祀られるようになりましたので、逝去当初は日高見に御陵が無くてはなりません。
また、豊受大神と天照大御神の痕跡として、鏡のような宝物が残されていると思いますが、そのような証は発見されていません。
トヨケの朝日神に祈祷するために、スサノオが日高見に参拝に出向き、ハヤスウ姫と出会い、ハヤスウ姫の父のアカツチに結婚の許しを請いますが、アカツチは北九州、スサノオは九州・中国・紀伊の人です。この二人が北上川まで出向いて、九州まで飛脚を飛ばすことは考えられません。
32 ソサノヲ

④ 弥生時代の産業・経済・貿易の中心は北九州でした。首都を置くのに、経済の中心から遠く離れた北上川流域に首都を置くわけはありません。それに、ニニキネ以降の天神たちのホームグラウンドは南九州です。そのニニキネが北上川流域から天孫降臨したとはとても信じられません。イサナミ、美穂津姫に関しても同様です。
ニニキネの兄のクシタマ・ホノアカリに至っては、日高見から900人くらいの家臣を伴って、大和に天孫降臨しました。そのうちの大多数が、2代目大物主のクシヒコの一族ですが、出雲から一族を引き連れて北上川までやってきて、そこから船で斑鳩を目指すということはありえません。
33 ホノアカリ ニニキネ

 日高見の候補地は、北上川流域以外にも色々ありますが、日田市以外はどれも『帯に短し 襷に長し』だと思います。
そこで、次回のブログでは、何故、大分県日田市が『日高見』なのかを説明します。
34 日田

なお、先週までは金曜日にブログを公開していきましたが、今週からは水曜日にブログを公開するよう頑張ります


邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶

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各地の伝説や伝承が
歴史上の人物に上書きされて神話になる。

それを丁寧に剥がしていくことで
真実の歴史が見えてくるんでしょうね。

苦しくもあり、切なくもあり
楽しくもある探求ですね。

その時代の人々の生きざまに
心を重ねていくことで
自分も一緒に成長できる
そういうものが
歴史教科書になっていけば良いですね。