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XIV 日高見の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

 前回(第13話)のブログでお約束しましたが、今回は大分県日田市が『日高見』であるということを説明します。
日田古代史研究会の伊藤塾の方々(故石丸邦夫氏、佐々木祥治氏、別府武志氏他)より頂戴した、『日高見』に関する沢山の大変貴重な情報を、私なりにまとめてみました。
日田は天領水や温泉では名前が知られていますが、歴史の宝庫であることはあまり知られていません。地元の人達でも、その輝かしい歴史を理解している人はあまりいないのです。そこで、佐々木さん達は、他に誇れる歴史を持っていることを、地元の若い人たちに知ってもらい、将来子供たちが都会に出ることがあっても、故郷の歴史を誇りにして貰いたいと願い、活動を続けられています。
 こんな話をすると、フィルターがかかっているかと思われるかもしれませんが、東京生まれの東京育ちの私が公平に判断しても、日田の歴史は別格だと感じます。ご覧下さい、下の鏡を。こんな鏡が日田から出土しているのですよ!

1、卑弥呼の鏡
1 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

(1)金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
 日田で出土した金銀錯嵌珠龍文(きんぎんさくがんしゅりゅうもん)鉄鏡は、金銀や宝石が散りばめられた豪華絢爛な鉄鏡で、卑弥呼の時代(2世紀~3世紀)の宝物です。この鏡こそが、本当の意味で『卑弥呼の鏡』なのです。
卑弥呼の初めての魏への朝貢の際に賜ったのは銅鏡100面ですが、これらは卑弥呼個人に贈られたものではなく、『倭国』という国に贈られたものだと判断できます。そして、卑弥呼の2度目の朝貢の際に授かったのが、この『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』でした。

2009年11月5日付、朝日新聞、【be art】欄
2 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 朝日新聞

【これも卑弥呼の鏡か
 満天の空にひろがるきら星か。鏡に封じ込められた小宇宙に、いつしか見る者は吸い込まれていく。
 なんとも絢爛豪華。金や銀で象眼された竜が渦を巻き、金文字の吉祥句が浮かぶ。所々にちらばる宝石。白いガラスは絹の気品を漂わせ、淡いブルーはトルコ石で、はるか西域の薫り。赤は水銀朱だろうか貴石だろうか。2~3世紀に中国で造られた鉄鏡で、大分・日田のダンワラ古墳から1933年に見つかった。
 九州国立博物館がつけた展示のコピーも「卑弥呼の鏡か?」と刺激的。「魏志倭人伝」は239年、中国皇帝が彼女に百枚を贈ったと記しているが、贈られたのは「銅鏡」と書かれているので、話は直接この鉄鏡には結びつかない。でも、鉄鏡が紛れ込んでいてもいいじゃないか、後に贈られた一枚では、などと思えてくるほどの優品だ。少なくとも、相当な権力者の持ち物にふさわしい。 実はダンワラ古墳、古墳とはいうが遺構がはっきりしない。卑弥呼の墓同様、謎めいている。それがこの鏡をますます神秘の色に染める。                                    (編集委員:中村俊介)


豪華絢爛のCGの『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』をYou Tubeで御覧下さい。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

 私が、また大風呂敷を広げていると思っておられるのではないですか?
いいえ、いたって真面目ですよ。最近は血圧が上がり過ぎたため、酒を断ちましたので、酒の勢いで、ホラを吹いたわけでもありません。
 それでは、その理由を示していきます。


(2)魏の曹操の鏡
 三国志の魏が卑弥呼に鏡を贈りましたが、最も重要な同盟国に授ける鏡として相応しい鏡はいったい、どのような鏡なのでしょうか?
それは、金を散らばせて(象嵌し)、宝石を纏った鉄鏡以外にありえないのです。

 中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、「皇帝は金をあしらった鉄鏡、皇后と皇太子は銀をあしらった鉄鏡、以下の貴人たちは、金銀を用いない鉄鏡を持った」と書かれています。つまり、鉄鏡は漢の皇族が所持したお宝だったということだったのです。
最近、曹操の御陵が発見されましたが、遺体の傍らにあったのでは、銅鏡では無く、鉄鏡だったのです。

『曹操墓発掘現場:潘偉斌氏の発表』
曹操の墓
曹操の墓

『曹操墓出土の鉄鏡は、直径21cmに達し、帝王陵墓に特有のものである』そうです。
3 曹操の墓 朝日新聞

また、魏の皇族の御陵の墓に埋葬されていたのは、殆どが鉄鏡でした。
銅鏡は有力豪族や裕福な庶民の持ち物で、国家の重要な外交に使えるものではありませんでした。

魏では、曹操(西暦155~220年)クラスの皇帝しか持つことが許されなかった金錯鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)が日田で発見されたのです。日本で、Only Oneの貴重な金錯鉄鏡です。どうですか?凄いと思いませんか?

4 曹操


(3)銅鏡100面
 魏志倭人伝に、卑弥呼の初めての魏への朝貢の際に、魏の皇帝から100面の銅鏡を賜ったと書かれています。何故、鉄鏡では無く、銅鏡だったのでしょうか?それを解き明かしてみましょう。

 先ずは、銅鏡と鉄鏡の魏志倭人伝での取り扱い方の違いをみてみます。1度目の朝貢の際には、『銅鏡100面』と書かれていますが、2度目の朝貢のときには『鏡』とだけ書かれています。
この違いを説明します。
魏の慣例では、重要な同盟国との外交の際に有力豪族たちが用いた『銅鏡』だけを贈ることはなかったはずです。本来外交に用いるのは、『鉄鏡』でなければならないのに、格式が低い『銅鏡』を贈ることになったので、魏志倭人伝に『銅鏡』と明記し、1枚ではあまりに恐れお多いので、『銅鏡』を100面も贈ったと考えるのが適切だと思います。

100面も必要だったのは、もしかしたら、『豪族たちから卑弥呼が鏡を要望されていたから』からではないでしょうか。卑弥呼に服従する見返りに、鏡を授けようとしたので、数多くの鏡を魏に要望したのだと思われます。
魏では、銅鏡であっても、100面も短期間に製造できないので、入手が容易な後漢鏡や魏鏡を、卑弥呼に贈ったと考えるのが適切です。何れにせよ、『金錯鉄鏡』は皇帝クラスの為政者が用いる鏡なので在庫がなく、芸術作品の為、製造期間が長いので、このときは卑弥呼に贈ることができなかったとだと思われます。

二度目の朝貢の『鉄鏡』は、魏の面子を掛けて特製した『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』で、外交のツールとして卑弥呼に贈るに適切な(常識的な)ものだったので、『鏡』とだけ書いたのでしょう。『長宜子孫(子孫繁栄)』の文字がありますので、女性(卑弥呼)のために特注した金錯鉄鏡だったはずです。


(4)三角縁神獣鏡
 三角縁神獣鏡は倭国に贈られた100面の鏡だったのでしょうか?
その答えはNOです。
5 三角縁神獣鏡

なぜなら、
『神獣鏡』は中国では三国志の『呉』の地域で製造された鏡だからです。赤壁の戦いに呉に破れた呉が敵国の祭祀に用いる神獣鏡を大事な同盟国の倭国に贈ることはありえません
6 三国志地図

② 中国の古代鏡の大家である故王仲殊氏は、「関于日本三角縁神獣鏡的問題」(「考古」第四期)において、「三角縁神獣鏡、魏鏡説」を正面から否定しました。『当鏡は中国に一切出土せず、それゆえ中国鏡に非ず』とされたのです。『魏の天子から卑弥呼に送付した魏鏡』などではありません。
三角縁神獣鏡

③ 更に、三角縁神獣鏡に用いられている青銅も、分析結果の結果、魏で産出したものではありませんでした。

鏡の銘文に『出同徐洲』(銅は徐洲から出た) というものがありますが、魏時代は、銅の産地(南京郊外)は、除州に属しませんでした。でも次の晋時代に、鉱山が除州に属すようになりました)

⑤ 魏から授かったのは、100面の銅鏡だけなのに、日本では500面以上発掘されています。この理由は、魏製の鏡を真似て日本で製造したものが混じっているからだというものでした。ところが、輸入というものと、国産というものの鋳型傷を比較した所、同じ鋳型で製造したものだということが判明しました。全て日本製か、全て魏製かのどちらかです。中国では1面も三角縁神獣鏡は発掘されていませんので、全て日本製です。

【ヘボソ塚古墳の三角縁神獣鏡(左)と鶴山丸山古墳のもの。それぞれの鏡の矢印部分で、輸入品も国産品も、同じ鋳型の傷を示すしわが確認された(東京国立博物館蔵)=奈良県立橿原考古学研究所提供】
7 三角縁神獣鏡鋳型傷

⑥ 三角縁神獣鏡の銘文の内容は、外交に使用するにふさわしくものではありません。曹操は詩人で銘文には必ず韻をふませていたのに、三角縁神獣鏡の銘文は詩的センスがありません。また、年号が入っている鏡がありますが、実在しない年号のものもあります。

⑦ 卑弥呼の時代の古墳に埋葬された三角縁神獣鏡は無く、全て後世の古墳時代のものばかりです。また、卑弥呼の鏡は、とても貴重な鏡であるはずなのに、三角縁神獣鏡は被葬者の近くには置かれず、被葬者から遠くに置かれていたり、壊されているものばかりです。つまり、重要視されなかった鏡だということが分かります。

『地図を楽しむ』より抜粋
地図を楽しむ

 『黒塚古墳は三角縁神獣鏡が33面出土した古墳でした。33面は棺外に置かれていましたね。戦後には「卑弥呼の鏡」として話題を呼びましたが、大量に見つかってしまった上に棺外に置かれていたので、これら三角縁神獣鏡が中国からの下賜品とは考えにくくなり、今では「三角縁神獣鏡」に考古学者でもふれない人が多いということです。が、今でも三角縁神獣鏡の中でも出来のいいものは「舶載品」出来の悪いものは「国産品」と分けられて論じられてもいるのです。
最近、ちまたでは三角縁神獣鏡の代わりに、「画文帯神獣鏡こそ卑弥呼の鏡だ」と主張されているようです』


 三角縁神獣鏡は『卑弥呼の鏡』ではありません。この論議が一段落したと思ったら、今度は『画文帯神獣鏡』に乗り換えようとしているようです。
何故このようなことが起こるかと言うと、現在、大和大国畿内説派が考古学会を牛耳っており、『邪馬台国畿内派にあらずんば、人にあらず』の世界です。皆が協力して真実を追求せずに、つまらない争いごとに終止していると、いつか平家のように没落してしまうと思います。


(5)日田の鉄鏡
 日田から出土した鉄鏡は、勿論『卑弥呼の銅鏡100枚』ではありませんが、それ以上に貴重な『卑弥呼の鏡』なのです。
それでは、何故、日田で『卑弥呼の鉄鏡』が出土したのでしょうか?
ここからは、一緒に推測をしてみましょう。先ず、ヒントを出します。

① ヒルコ姫(若日孁)が卑弥呼だと仮定すると、『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』はヒルコ姫に贈られたことになります。

② ハタレの反乱が起こると、ヒルコ姫は引退し、ヤスカワの宮で、ヲシホミミの養育をしながら、大陸との外交(ネの国)に専念するようになります。

8 ヒルコ姫

そして、ヒルコ姫(若日孁)の弟の天照大御神が政権を掌握し、軍事を中心とした政を執るようになりました。有事の際の権限移譲(女権制度→男権制度)でした。

③ 天照大御神は天岩戸で、岩戸が開いた後に『八尺鏡』という鉄鏡を譲り受けます。天照大御神が授かった鉄鏡『八尺鏡』は『金錯鉄鏡』だったのかもしれません。
日本列島では20面近くの鉄鏡がありますが、確実な出土事例は5遺跡10面のみです。この中で、天照大御神の所有物と考えられるのは『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』だけのように思えます。


④ もしも日高見が日田だと仮定すると、男神の天照大御神が葬られたのは、日田だということになります。『八尺鏡』も一緒に埋葬されたとしたら?
9 ダンワラ古墳

 なお、『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』は、漢代の書体で、『長宜子孫』の4文字が金で刻まれています。
『長宜子孫』は魏鏡によく使用される文字ですが、『子孫繁栄』の意味で、女性に授ける言葉
です。つまり、『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』は女性に贈られた『金錯鉄鏡』なのです。女性とは、卑弥呼でありヒルコ姫(若日孁)のことなのでしょう。

 当時の日本では、これだけの高度な芸術工芸品を製作することができませんでした。もし製造することが出来たとしても、魏皇室に憚かり、製造出来なかったと思われます。『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』は魏で製造された特注の魏鏡で、魏より皇帝クラスの倭国の王(卑弥呼)に与えられたOnly Oneだと考えられます。

 ここからは、皆様方で、このストーリーをつなげて下さいね。
これで、『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』が出土した『日田』は、ただ者ではないことがお分かりいただけたと思います。

 しかし、残念なことに、日田はあまりに無名です。
九州国立博物館の赤司善彦氏と苅谷俊介氏が語る『卑弥呼の鏡に相応しい鉄鏡』に関わる対談を紹介します。
【金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と卑弥呼の鏡の可能性の話をしている。決めってはいないが、それだけの重要な鏡なのである。明日、奈良の纒向でこの鏡が出土したら、全国ニュースのトップで紹介されるだろう。残念ながら日田で出土したために、この鏡は眠りつづけているのである。考古学のお偉い先生はとはそういうものだ】
考古学の偉い先生


 また、古代文化研究所のYanさんのコメントは以下の通りです。
【金銀錯嵌珠龍文鉄鏡があれほど喧伝されているのに、発見者である渡辺音吉氏が全く顕彰されないのも、不思議な話である。寄贈したとは言え、本来、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は渡辺音吉氏のものである。もう少し、渡辺音吉氏のことを紹介し、その功績を顕彰する必要性を痛感した。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は日田の至宝であり、日本の宝である。それを発見したのが渡辺音吉氏であることは間違いない】
渡辺音吉

 なお、一番始めに紹介した故石丸邦夫氏は、同士たちと共に折半して、高額な自費を投じて、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のレプリカを作られました。そのレプリカは、天領日田資料館に大事に展示されています。
また、佐々木祥治氏たちは金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の知名度アップの為に日夜精力を投じられています。こうした方々の尽力を無駄にしないために、日田の豊かな歴史を世に広めねばならないと切実に感じています。



2、小迫辻原遺跡
 九州は地名の呼び方が困難な場所が多いのですが、ここ小迫辻原遺跡(おざこつじばるいせき)もその一つです。日田盆地北部の通称辻原と呼ばれる標高約120メートルの台地上にこの遺跡が存在します。
この遺跡とホツマツタヱ(日高見)の関係を解き明かしていきます。
10 小迫辻原遺跡

 この遺跡の凄いところは、日本最古(3世紀後半~4世紀初頭)の大型豪族居館跡が3基出土し、その周りに集落跡があることです。(上から、右端の四角の枠、1号環濠居館、1号環濠居館、少し下に離れて1号環濠居館で、左側は小さな居館や倉庫、住居跡等です。)
11 国会議事堂跡

① 1号環濠居館は、一辺約47メートルの堀を有し、その内側に3間×2間以上の大きさを有する総柱建物1棟が確認されています。これが、豊受大神やヲシホミミの宮殿だったのかもしれません。

② 2号環濠居館は、東西約37メートル、南北約36メートルの方形の堀を有しており、その内側に3間×2間の総柱建物が南北に2棟並んで確認されています。ここが、高木神の宮殿でしょうか?

 1号と2号の2つの環濠居館は並んでいますが、環壕居館跡が2基並んで発掘された例は日本ではほかにはありません。
12 小迫辻原遺跡 広さ

3号環濠居館は、1、2号環濠居館から少し離れた場所にあり、一辺約20メートルの堀の内側に3間×2間の建物1棟が確認されています。
3-4世紀の環壕居館跡の遺跡は他では類をみません。
13 小迫辻原遺跡地図

 もし、ヒルコ姫(若日孁)が卑弥呼であると仮定すると、3世紀後半はヲシホミミや台与(美穂津姫)の時代です。また、もしこの地が日高見だとすると、トヨケ(豊受大神)、天照大御神、ヲシホミミが政を執った場所で、イサナミ、神皇産霊尊、高木神、タクハタチチヒメ、三穂津姫(台与)、クシタマ・ホノアカリ、ニニキネが生まれ育った場所です。

 政を執るためのお屋敷もありますし、高皇産霊一族が暮らすのに十分過ぎるくらいの土地と家屋がありました。ここは、日高見での政治の中心地だったと推定できます。
そして、農作地(田畑)や庶民の住宅地(環壕集落)が、小迫辻原遺跡の周囲を囲んでいます。都を食料供給面で支える体制も整っていました。

 小迫辻原遺跡には、弥生時代の国会議事堂があり、天神家が国造りを推し進める為の原動力になった水稲栽培の跡や環濠集落の痕跡が残されています。ここから、祭祀の為の霊山である英彦山を見上げることができる地でもあります。
 どうですか?日田は、『日高見』の候補地として、無視できない場所だと思いませんか?


 小迫辻原遺跡は日本の歴史において、とても貴重な文化遺跡であるにも関わらず、市役所や観光協会は邪馬台国畿内説の方々が多く、日田の歴史の重さを理解されていないように思えます。
この貴重な遺跡に関する広告宣伝は殆ど無く、アクセスする道が曲がりくねって細い上、道案内版もないので、自家用車で辿り着くのは至難の技です。大型バスでは辿り着けません。この状況はとても嘆かわしいことです。
六甲のサラ・シャンティの清水正博氏が「三内丸山遺跡のように、建物を立てたりして、遺跡をもっと分かりやすく見せるように工夫して、アピール度を高めればいいのに」と助言されていましたが、その通りだと思います。
この遺跡に関しては、同行された瑠璃の星さんがブログに載せていますので、参考にして下さい。
ヲシホミミの館



3、日高見の立地条件
(1) 日田の盆地は、玖珠川に、北から阿蘇川(大山川)が合流して、日田川(三隈川)となる地です。そのため、陸路、河川路の要所で、この地を治めることは、倭国の経済の中心であった九州北部に強い影響力を持つことができました。それに、高皇産霊家が目をつけ、日高見として領地にしたとされています。風水的に、都としても恵まれた土地です。
15 日田の鵜飼い


(2) 日田の地名由来のひとつは、盆地が湖水であった頃、大鷹が東から飛来して湖水に羽を浸し、再び、羽ばたきて、旭日の中を北へ去るや、湖水は轟々と流れて干潟となり、日隈、月隈、星隈という三隈の小高い山が現れたというものです。
「日」と「鷹」に纏わるし神話があるので、それより、この地は『日高』と呼ばれるようになったそうです。そして、西側の浮羽から、日田(日高)を眺め見て、『日高見』と呼んだそうです。高皇産霊家は『鷹』がトーテムのようですね。
16 日田 鷲 地図


(3) 九州北半域において、英彦山などに纏わる根強い高木神(高皇産霊神)信仰がありました。英彦山山頂域は高木神祭祀の旧地とされ、英彦山神領の48の大行事社は高木神社とされていました。
高木神の「タカ」に由来するのか、「鷹羽」の神紋を掲げる神社群が、豊前域に密集し、鷹の巣や鷹取など多くの鷹地名を散在させ、「鷹」の神祇が九州北半域を縦断しています。
高皇産霊家の領域であることが、『日高見』であることの一つの根拠です。


【豊前坊高住神社】 本殿は、なんと巨大な磐座に沿う様にして建てられています。
17 高住神社 本殿

【豊前坊高住神社では、神代文字(アヒルクサ文字)が使われています】
18 アヒルクサ文字

【大分県日田市友田 片山磨崖仏 梵字】
19 日田の梵字

 日田市では、梵字や神代文字が使われて来ました。
高皇産霊家は『阿比留草(あひるくさ)文字』(梵字)を使用し、大物主家(三輪家)はヲシテ文字を用いていたことが分かります。尚、阿比留草文字は、商(殷)時代に用いた甲骨文字がベースになっているようです。甲骨文字は漢字の草書体と言われていますので、梵字と通じるものがあります。


(4) 日田とよばれる前は、日高郡とされて、本来は日高見国であったとも。現在も日高町の地名を残します
地名としては、豊受大神の神名は朝日神ですが、日田には朝日、天神の地名が、小迫辻原遺跡の近くにあり、朝日天神山(古墳・神社)もあります。神社の祭神は、豊受大神から菅原道真に変わってしまったようですが、実は祭神が明確になっていないところが日田らしいです。この地帯は、天神家の縁の地でもあります。
更に、ニニキネが天孫降臨をする前に開拓工事をしたヤマダと同名の地もあります。この地は今でも田園地帯となっています。
歴史の痕跡は、地名に残ります。
20 朝日天神神社


(5)日高見は高皇産霊家の領地ですので、ハラミ山から近い場所にあります。
 英彦山は、もともとは高皇産霊家の霊山ですので、高住神社には高皇産霊家と藤原恒夫が祀られています。それを高木神がその霊山をヲシホミミに譲ると、霊山の名前は『日子山』となりました。
その後、『英彦山神宮』が開山されると、ヲシホミミがそこの主祭神となりました。『ハラミ山』が英彦山だとすると、英彦山の麓にある日田市が日高見の候補であることは間違いありません。
21 ヲシホミミ



4、ホツマツタヱの話
(1) 水耕栽培
天照大御神がツキヨミに命じて、保食神(うけもち)のところに、強い籾を分けてもらうように命じました。つまり、天照大御神の時代に水稲栽培が普及し始めていたので、アマテルは、弥生時代の人で、九州北部に住んでいたことが分かります。
勿論、日田市の小迫辻原遺跡の近くには環濠集落があり、水稲栽培が行われていましたので、日田市は日高見である条件を満たしています。

(2) 山田野
『ニニキネは、ここに仮住まいしました、山田の野は高いところにありますが、宮川の上流より井堰で水を引き、堤を築いて、遂に高知の野原を田にして、五年もたたずに稲が実った』とあります。
何故、山田の野で灌漑工事をしたのかを推測すると、豊受大神の御陵があり、高皇産霊家の領地である日高見で功績を出せば、 天照大御神に評価して貰えると考えたからではないでしょうか。それに、ニニキネは次男なので家来は少なかったはずです。そこで、ニニキネの故郷である日高見ならば、父のヲシホミミがいるので、灌漑工事を手伝って貰ったのでしょう。そして、工事に成功したので、ヲシホミミは自分の代わりにニニキネを南九州に降臨させる推挙を天照大御神にしたと考えられます。
 そのようなストーリーが成立するならば、『山田の野』とは、小迫辻原遺跡の近くにある『山田』の地ではないでしょうか?小高い丘の上の『山田原』では主に野菜が育てられていますが、そこを少し下ったところに田があり、千倉ダムからの川が流れています。
22 日田 山田


(3) 金属器
 ホツマツタヱの中には、金属製の鏡や剣の話がたびたび出てきます。しすて、金属器の鋳造は北九州(須玖岡本遺跡)から始まっています。このことよりも、ホツマツタヱの記述が正しければ、天照大御神は弥生時代の九州の人だということが明らかです。
 日田からも、金属器が出土しています。


(4) 馬具
 ホツマツタヱには乗馬の話がでてきます。乗馬や馬具というと古墳時代以降の話ですが、北九州の王族の墓に大陸から輸入した馬具が埋葬されていました。従って、日本での乗馬の開始時期は例外的には弥生時代からとなります。

 実は、日田でも金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が発見された場所の近くで馬具(金錯鉄帯鉤 3つ)が発掘されています。世界中どこにもない代物が日田から出土したことは驚くべきことです。奈良にもありません。
24 日田の鉄鏡 馬具

 豊受大神の家系(高皇産霊家)は乗馬の達人が多かったので、馬具の出土があれば、出土地が日高見である可能性が高いといえます。
 しかし、残念ながら、これは日田で出土した馬具であったために、6世紀のものだとされてしまいました。日田の馬具は日田で出土した為に6世紀のものとされてしまったので、邪馬台国や豊受大神の時代のものとは言えませんが、これが大和で発見されたとしたら、大スクープになっていたはずです。とても残念に思えます。

 ところが、箸墓古墳は、本当は4世紀の墓なのに、箸墓古墳で見つかった馬具を、箸墓古墳が3世紀中期の古墳だという前提で、馬具も3世紀中期のものだとしてしまっています。
箸墓古墳の国立歴史民俗博物館によるC14年代測定(西暦240~260年)は、箸墓古墳を卑弥呼のものとする見せかけるための捏造だという意見が大多数で、その代表を参考に幾つか載せますので、参考にして下さい。
箸墓古墳年代間違い1
箸墓古墳年代間違い


(5) 胞衣
 天照大御神は卵型の胞衣から生まれました。胞衣(えな)とは、胎児を包んでいた胎盤のことです。この箇所を抜き出してみます。
『イソラの障りを除くための禊ぎであり、胞衣に囲まれ、自ら丸まって卵の形になったということなので、めでたいことなのである。玉の岩戸を開け』と言われ、一位の木の先で作った笏を持って、『今こそ開く 天の戸や』と、胞衣を切り開くと、皇子がお出ましになり、初日が光り輝きました』
 豊受大神がその場に立ち会ったので、天照大御神の胞衣は日高見に埋められた可能性が高いと思います。なお、日田市には、日田の発祥の地と追われる会所(よそ)山がありますが、会所山の昔の名前は『えそ』でした。日田伊藤塾の佐々木氏いわく、「『えな』が『えそ』に変化したのかもしれませんね」
25 会所山

 さて、ここまで日田市が日高見であることを、ホツマツタヱの記述から証明してきましたが、これは他の候補地も同様なことが言えます。日高見である為の条件は、①弥生時代水耕栽培をしていた跡が残されていること、②弥生時代金属器が出土していること、③山田という地名が残されていること、④弥生時代の馬具が出土していること、です。

 こうした条件から判断すると、私は、日高見は日田市である可能性が高いように思えるのですが、皆様はいかがでしょうか?



5、その他の分野での検証
(1)狗邪韓国
 魏志に『狗邪韓国』という名の国が出てきますが、朝鮮半島の南岸にある『狗邪韓国』は、『倭国』の北岸の領土で、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)に接していました。
26 狗邪韓国地図

 卑弥呼の時代、この狗邪韓国も倭国の一部だったわけです。狗邪韓国とは、「韓国に接している狗邪の地」という意味で、韓国とは三韓(馬韓、辰韓、弁韓)のことです。そして「狗邪」は、恐らく「伽耶(かや)・駕洛(からく)・加羅(から)」などと呼ばれていた地に、中国的な卑字を当てたものと考えられます。

つまり、倭国は朝鮮海峡を狭間にした海峡国家だったのです。
ここに、対馬、一支国、未魯国、伊都国、奴国、不弥国までの魏志倭人伝のルートを示します。奴国は福岡県春日市(須玖岡本遺跡)から北の地域で、不弥国はおおよそ福岡市の香椎宮、粕屋近辺だったのでしょう。
27 魏志倭人伝経路

 そして、魏志倭人伝の記述と現地調査の結果、卑弥呼の国の(南の)境界が尽きる所は、ド国(阿蘇近辺)から人吉近辺だと推定されます。
つまり、倭国の領域は、朝鮮半島南岸、日本海、対馬、壱岐、そして九州北部(面土国)が、倭国の主な領域でした。
そうすると、邪馬台国や日高見も倭国の一部でしたので、日高見も九州北部にあったはずです。

 倭国は朝鮮半島南部から日本海も含む九州北部までの広大な地域で、九州北部は面土国と呼ばれたのでしょう。

なお、『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』にて、イサナギとイサナミが初めに暮らしたイサ宮の場所を特定しました。そして、卑弥呼は何度も引っ越しをしましたが、魏の使節団が向かった卑弥呼の都に関しては、『邪馬台国ラプソディ〈第二巻〉』にて、場所の比定をします。


【魏志の関係する箇所を抜き出しましたので、興味があれば、御覧下さい。興味がなければ、飛ばし読みして下さい】
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魏志倭人伝:
『(帯方)郡より倭に至るは、海岸にしたがいて遂行し、韓国を経て、それから南下し、その後、東に向かい、その北岸の『狗邪韓国』に至る七千余里』

魏志東夷伝の韓伝:
『韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接する』

魏志韓伝:
「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

ちくま学芸文庫の三国志の東夷伝地図は、朝鮮半島の南端に「倭」と書かれています。


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(2)鉄の道
 弥生時代は、水耕栽培の導入から幕を開けました。佐賀県唐津市の『菜畑遺跡』や福岡県福岡市の『板付遺跡』に水田の跡が残されています。つまり、水耕栽培は九州北部から始まり、九州北部から全国に普及していったのです。

その後、『鉄の道を制するものは、倭国を制する』時代に変わりました。紀元前2世紀に奴国(福岡県春日市須玖岡本遺跡)にて、青銅器の鋳造が始まりました。倭国が倭国一の工業国になりました。そして、西暦元年ころから、奴国で鉄製の剣が製造されるようになりました。先ず、初めに『鉄の道』を制したものは奴国だったのです。
28 奴国 鋳造ジオラマ

 この当時は大陸から砂鉄を輸入し、奴国で鋳造し、それを大陸で売りさばき、莫大な富と権力を握りました。それが後漢の孝武帝から、倭国の王として認められ、西暦57年に『漢委奴國王』の金印を授けられました。

29 金印つまみ

30 金印 印鑑

 ところが、西暦100年ころになると、邪馬台国の直轄地である伊都国が突如隆興し、奴国から『鉄の道』を奪い取りました。それで、奴国は衰退してしまいました。
これは、邪馬台国の天皇家の祖先が、鉱業や鉄鋼業、貿易、軍事に長けていて、奴国を打ち破ったのだと考えられます。(天皇の祖先が何者なのかは、『邪馬台国ラプソディ〈第四巻〉』で披露します。)

 邪馬台国の最初の王は、福岡県の香春?で鉱業(銅山)や鋳造に従事したと考えられます。つまり、水耕栽培にしても、鉄の道にしても。大陸との交通の便が良い九州北部から始まったのです。
 三代目天神のトヨクンヌは、西暦100年以降に、福岡県(香春?)で邪馬台国をスタートさせたと推測されます。つまり、トヨクンヌから9代目天神のヲシホミミの時代までは、九州北部の歴史だと考えられます。そして、10代目天神のニニキネから神武天皇の東征前までが、舞台は九州南部に移ります。
31 天神陵墓推定地

 こうして考えると、『日高見』も、九州北部にあったはずです。そして、『豊受大神(トヨケ)』は『東の君』と呼ばれたので、『日高見』は昔の倭国の中心であった奴国の東側に位置することになります。
そうすると、立地上では『日田』が『日高見』である可能性が高くなってきました。


(3)方角的な検証
 下の地図をご覧頂ければお分かりだと思いますが、日田の開所山・英彦山は、古代の神話の世界の重要な場所と密接な関係にあることがわかります。この図には、書かれていませんが、熊本県の幣立神社や伊勢神宮との方角的な関連性があります。そして、日田は英彦山、香春神社、行橋、高良山、宇佐神宮、中津に、輿で行ける距離にあります。
 イサナギの都から天照大御神を日高見に載せていったのは輿ですし、ニニキネが天孫降臨の際に白山姫より授かったのは山輿です。従って、これらの位置関係は、輿で行ける距離でなければなりません。
32 日田 地図 方向



6、纏め
 日本書紀の『日高見』の場所は、最有力候補は北上川流域で、その他に関東だとか、都があったので大和だという説もあります。そして、九州説は聞いたことがありませんでした。
 しかし、ホツマツタヱには、水耕栽培の普及や金属器、馬具まで登場するので、弥生時代以降の話ですが、弥生時代は東北地方は域内を失い、九州や近畿に反映の座を奪われます。また、弥生時代に、水耕栽培や金属器は、東北地方ではまだ普及していませんでした。また、大陸に近い九州北部が産業や農業の中心でしたので、通信網や交通網が未発達の弥生時代では、北上川流域の『日高見』にヲシホミミが都を置くことはできなかったことでしょう。そのように考えると、北上川流域は、『日高見』とはイメージが異なるように思えます。
【北上川の位置】
14 北上川地図
【北上川の景色】
33 北上川

 『関東の北東説』の場合、関東・東北が圏外に入りますが、日高見の兵力でその地域を統制することは難しいと思われます。

 九州(地元)では、日田市は古くから『日高見』とされており、霊験あらたかな場所とされてきました。また、12代目景行天皇が御幸された土地でもあり、古代から続く由緒ある土地で、卑弥呼の鉄鏡が出土していますし、古代の宮殿跡が残されています。
その他の色々な要素を考慮した結果、日田が日高見の最有力候補だと私は考えています。


 さて、今回は『日高見』の候補地の話をしましたが、もし日田を立ち寄る機会があれば、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のレプリカが陳列されている天領日田資料館と小迫辻原遺跡、そして、英彦山、三隈(日隈、月隈、星隈)をぜひ立ち寄って下さい。これも、瑠璃の星さんのブログに掲載されています。
 それでは、次回のブログでは、ヒルコ姫(若日孁・卑弥呼)の話をしますね。


邪馬台国ラプソディ著者
川鍋 光慶


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コメント

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No title

金銀錯嵌珠龍文は
九州国立博物館で常設展示されるべきと思います。

近畿のあちこちの鏡に関する史跡や博物館、
鏡作神社にも訪ねて見てきましたが
現代人が見ても価値の違いは歴然と思います。

金銀錯嵌珠龍文は話題上ることがなく
この鏡のことを知った時は、
私自身が「何も知らなかった」と思い知らされました。

レプリカに込められた想いは伝わります。
出土した本物の鏡は朽ちていても
古代の氣を纏っています。

多くの人の目に触れて、
気づいていく人が増ていくことを願います。