FC2ブログ

XV ヒルコ姫(卑弥呼)の宮

 前回は、ヲシホミミが、都をおいた『日高見』について話しました。今回は、卑弥呼と目される『ヒルコ姫』に関して語ります。
 ホツマツタヱの『天の巻』と『地の巻』は真実の歴史書だと信じていますが、私は歴史書としてよりも、小説の素材としての魅力に嵌ってしまいました

このヒルコ姫(若日孁 わかひるめ)は波乱万丈の生涯を送りましたが、様々な苦難を乗り越え、至上の愛を得て、幸福に包まれながら空へと旅立ちました。人間味溢れるヒルコ姫の魅力を伝えようと思います。


1ワカ姫


1、『邪馬台国ラプソディ』のタイトル
 この素晴らしい蛭子姫の人生を小説にしようと思い、『若日孁ラプソディ』という名の小説を書き上げました。『若日孁』とは、イサナギとイサナミの長女の『ヒルコ姫』のことで、古事記や日本書紀では『蛭子』と呼ばれています
 しかし、『若日孁(わかひるめ)』では知名度が低く、誰にも読んでもらえないで、出版社の要請で『若日孁』から『邪馬台国』にタイトルを変えてしまいました。それでも、『ヒルコ姫』を際立たせた小説にしています。

 上のイラストは、とても素敵なイラストレータの『瑠璃の星』嬢が描かれた『ヒルコ姫』の乙女の時代の姿です。ヒルコ姫のとても素敵な話は『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』に載せましたので、ここでは小説の背景を説明して参ります。


2、ヒルコ(蛭子)姫、磐樟船に乗せられ流される
 イサナギとイサナミの長女の『ヒルコ姫』は古事記や日本書紀では『蛭子姫』とされていますが、数えで三歳になっても立つことができなかったので、『天の石樟船(いわくすふね)』(頑固な楠の木で作った船)に乗せられ川に流されました。

 しかしホツマツタヱでは捨てられる事情が異なります。
男親の厄年に娘に悪霊が宿ると、男親が祟られる』とされており、ご両尊にとても大事に育てられていましたが、イサナギの厄年にかかるときに、ヒルコ姫が発育不全だった為、厄年の期間だけ里子に出されるという設定となっています。
ただ、里子に出す儀式として、日本書紀と同じように、磐樟船に乗せられて川に流されました。

 尚、蛭子姫が乗せられた船が、磐樟船という説と、葦(あし)船という説があります。日本書紀では『天磐樟船』で、西宮の伝承では『葦船』です。私は、ヒルコ姫が乗ったのは、頑強な楠で作った磐樟船で、未熟児で死産した匕ヨルコが乗せられた船が葦船だったと推定しています。

 さて、船に乗せられ捨てられたヒルコ姫は、その後、どうなったのでしょうか?

2 磐樟船


3、磐樟船の行き着く先(古事記、日本書紀)
 古事記と日本書紀では行き先が書かれておらず、行方不明です。しかし赤子一人で、漂流したので、命を落としたと推測されています。

ところが、蛭子姫が辿り着いたとされる場所が日本各地にあります。蛭子姫が辿り着いた先として最も有名なのは西宮神社で、廣田神社の摂社です。
その御祭神は、第一殿(東)が『えびす大神』&『蛭子姫』、第二殿が『天照大御神、大国主大神』、第三殿が『素盞嗚命』です。
『えびす大神』=『蛭子』と、同じ神様として、一番左側の社に祀られています。

3 西宮神社

 西宮神社のことを詳しくお知りになりたい場合には、『吉井良隆』氏の『えびす信仰事典(戎光祥出版)』を読まれると良いです。以下に、その紹介(大筋の内容)を添付致します。
えびす信仰事典
4 えびす信仰事典

 ホツマツタヱと『えびす信仰事典』、そして島根県の美保神社伝承を知ると、出雲神話(えびす様)の真実がみえてきます。この要約は、物語風に『邪馬台国ラプソディ〈第二巻〉』に書く予定です。

 それでは、西宮神社の社伝を調べてみましょう。
西宮神社の社伝によると、
鳴尾に住んでいた漁師が沖で網漁をしていると、御神像が網にかかりました。漁師がその御神像を家に持ち帰ると、夢枕に御神像が現れ、『吾は蛭児の神である。日頃丁寧に祀ってもらって有り難いが、ここより西の方に良き宮地がある。そこに遷し、宮居を建て、改めて祀ってもらいたい』との御神託があった】、
その後、【御神像を輿に乗せ乗せて西宮に向かうと、蛭子姫の御神像はえびす様に変身していた】とのことです。

【国宝 木造玉依姫像坐像 吉野水分神社】
5 玉依姫御神像

 この社伝から分かることは以下の通りです。
① 『御神像』とは神話の世界の神の像のことですが、御神像を祀るようになったのは仏教の伝来以降のことです。それ以前は、神の依り代(よりしろ)である鏡、玉、剣が崇敬されてきました。つまり、西宮神社に蛭子(蛭児)の御霊(みたま)が鎮座するようになったのは、仏教の伝来以降のことということになりますので、年代を考慮すると、兵庫県の鳴尾に蛭子姫の玉体が、生きたまま流されてきたことはありえません

 また、御神像を海から引き上げたのは漁師で、夢枕でお告げを受けたのも、徳を積んだ神官ではなく、殺生を生業とする漁師でしたので、そのお告げにご利益があるかどうかは分かりません。しかし、西宮神社の蛭児が、これだけ長い期間、人々から尊重され、慕われ、祀られてきたことを考慮すると、ヒルコ姫の御霊が長い期間ずっと鎮座してきたのでしょう。
6 えびす様御神像


② 鳴尾の海で網にかかったのが、玉体や壊れた磐樟船の一部ではなく、御神像であったことは、蛭子姫は海で逝去し、天に召され、仏教伝来以降に、蛭子姫の御神像が作られ、何らかの理由で海に流されたことになります。つまり、蛭子姫の御神像が西宮に辿り着いたときには、この世の人ではありませんでした。
それに対して、ホツマツタヱでは、カナサキ(住吉大神)がヒルコ姫を助け、ヒロタで育てたことになっています。従って、ヒルコ姫が幼少期を過ごした『ヒルタ』は西宮神社ではありません

【西宮神社の絵の御神像】
7 えびす様 御神像 絵

 ところで、御神像とは神話の世界の神様の木造・石像・金属像や紙に描かれた絵のことですが、西宮神社の御神像は『えびす様』のものばかりですし、年代物は紙の絵ばかりです。だた、西宮神社と関連する神社では、ヒルコ姫(歳徳神)の御神像の絵がありますが、紙ですので、網でキャッチすることはできません。
8 歳徳神 御神像 絵

 なお、廣田神社の社宝は『剣珠』と呼ばれる水晶の珠です。(神功皇后が、西宮の海で拾い、朝鮮成敗に持参した所、大勝利をおさめた縁起物とされています)
  廣田神社の摂社が西宮神社なのに、社宝が一致しません。
つまり、蛭子姫の御神像は西宮神社に存在しないようです
 
③ 西宮の名前の由来は、都(大和)の西にある重要なお宮だったからです。しかし廣田神社も含め西宮と呼ぶようになったのは、大和に遷都されてからです。
ホツマツタヱによると、大和が首都になったのは、神武天皇の東征の時からです。従って、『西宮』と呼ばれるようになったのは、ヒルコ姫が逝去したずっと後の神武天皇の東征の後だということになります。こうしたことからも、西宮で蛭子姫が暮らしていたとは考えられません
9 西宮神社 境内図

④ 『蛭子』と書いて、『エビス』と読みます。エビスは、恵比寿、戎とも書きます。そう考えると、漁師が引き上げた御神像が、ヒルコ姫だったのか、恵比寿(クシヒコ)だったのかがハッキリしません
西宮神社はえびす様をおまつりする神社の総本社で、西宮神社のお祭りでは、戎船に恵比寿を含めた七福神が乗っています。西宮神社は、えびす様のシンボルの商売繁盛祈願する神社です。蛭子姫と、商売繁盛は似合わないような気がします。
西宮神社では、『恵比寿さん』と『蛭子姫』を同一神としていますが、蛭子姫(蛭児)は楽器の演奏が得意な女神で、えびす様はヒルコ姫の弟のスサノウの孫で酒好き男神ですので、辻褄が合いません

【恵比寿さんの御神像(絵) “ラッキーヱビス”。魚籠(びく)にも鯛が入っています】
10 エビスビール

⑤ 西暦1663年に四代将軍家綱が寄進した西宮神社の本殿は、昭和20年の空襲で崩壊していましたが、それ以前は国宝でした。また、同系の廣田神社は、兵庫県唯一最高位である『官弊大社(天皇家からお供えが届く神社)』に列せられているので、皇室から重要視されていることが分かります。
これは、2代目大物主のえびす神(クシヒコ)を祀る神社だから崇拝されているからなのです。特に鎌倉時代以降にこの傾向が強くなりました。

結論としては、西宮神社は、三歳のヒルコ姫が辿り着いた『ヒロタ』ではありません。また、廣田神社の方にはヒルコ姫の伝承がありませんので、晩年期を過ごした『ヒロタ』である可能性も低いように思えます。


4、日本書紀の捏造
 古事記や日本書紀は、蛭子姫を闇に葬ってしまいました。また、蛭子姫同様、瀬織津姫もその存在を消し去ってしまいました。この目的は、卑弥呼の存在を抹消するために、男神の天照大御神を女神に脚色し、いかにも天照大御神と卑弥呼が同一人物であったように装ったからだと推定されます
瀬織津姫は天照大御神の中宮でしたが、それでは天照大御神を女神に装わせることができなくなるので、瀬織津姫も歴史の舞台から消し去ったのです。

 日本書紀は、天武天皇の妻(天智天皇の娘)の持統天皇が世に出したものです。
天智天皇は百済よりの援軍要請を受け、高句麗と組み、西暦663年に新羅と唐の連合軍(18万人)に『白村江の戦い』で大敗を喫しました。特に海戦で、唐軍の火計に破れたと言われています。
11 朝鮮三国 地図

 この歴史は、韓国ドラマの『ケベク』や『善徳女王』と重なってきます。
12 ケベク

13 善徳女王


 卑弥呼は、憎き敵国の新羅の『善徳女王』とイメージが被っており、また、倭国を破った中国に朝貢していたので、持統天皇は卑弥呼が許せなかったのではないでしょうか?
(自分も女性天皇なので、同じような境遇なのですが・・・・)
14 持統天皇

 そこで、そんな嘘だらけの古事記や日本書紀から離れて、ホツマツタヱをベースに話を進めることにします。


5、ホツマツタヱのヒルコ姫の行き先
 ホツマツタヱでは、ヒルコ姫はカナサキに拾われ、大事に育てられたとされています。ホツマツタヱでは、愛らしいヒルコ姫を生き延びさせたのですね。
 ヒルコ姫の育て親のカナサキとは住吉大神のことで、宗像族と安曇族を傘下におさめました。どちらかというと、武将肌の有力貴族です。
 
 ホツマツタヱでは、ヒルコ姫が育ったのは『ヒロタ』の屋敷ということになっています。従って、『ヒロタ』がどこだか突き止めれば、この謎は解けます。

 また、ホツマツタヱにおける、天照大御神が神上がるときの瀬織津姫への遺言は、
『また后(瀬織津姫) 『ヒロタ』に行きて ワカ姫と 共に妹心 守るべし 我はトヨケと 背を守る 妹背の道なり』とありますので、ここにもヒントが隠されているようです。つまり、既にヒルコ姫は他界しており、天照大御神が瀬織津姫にヒルコ姫と同じ場所に葬られるよう指示したのです。その場所の名前が『ヒロタ』でした。

 しかしながら、ヒルコ姫が育った『ヒルタ』と、ワカ姫(ヒルコ姫)がいる『ヒルタ』とは別の場所かもしれないので、その点を留意する必要があります。
何故ならば、元々、九州にあった地名を近畿地方でコピーしたケースが多々あるからです。
15 写し地図

 ホツマツタヱでは、ハタレ(悪魔)の乱の沈静化の恩賞として、カナサキ(住吉大神)は春日の地を授かりました。
その後、天照大御神がアマノコヤネの父のヰチヂ(市千魂命)に、クシタマ・ホノアカリの大和への天孫降臨の為の前段取りをするよう命じました。ヰチヂは大和に赴任すると、その居住地につけた地名が『春日』だったため、春日殿と呼ばれました。
つまり、ヰチヂは、九州の地名の『春日』を、大和の領地の名にしたのです。
ホツマツタヱでも、、元々、九州にあった地名を近畿地方でコピペしました。

 それでは、『ヒロタ』の場所の比定をしましょう。
私が選んだ候補としては、種子島の広田遺跡、西宮の廣田神社、そして福岡市粕屋の広田地区です。他にもあると思いますが、ホツマツタヱの『ヒロタ』の条件を満たさないと思われます。


6、種子島広田遺跡
種子島の広田遺跡は、種子島スペースセンターの近くにある弥生時代末期から7世紀にかけての集団墓地の遺跡です。お墓と言っても、ヒルコ姫や瀬織津姫の御陵としては、あまりに貧素なので、ここではありません。
16 広田遺跡


7、 西宮市の廣田神社
  『ヒロタ』の次の候補は、兵庫県西宮市の廣田神社です。西宮神社のところでも書きましたが、廣田神社は兵庫県唯一最高位である『官弊大社(天皇家からお供えが届く神社)』に列せられています。このことより、皇室から重要視されていることが分かります。廣田神社では、瀬織津姫を祀っています
17 廣田神社

 蛭子姫を祀っている西宮神社は、廣田神社の摂社です。そして、六甲山も廣田神社のかつての社領でした。つまり、廣田神社と西宮神社で、ヒルコ姫と瀬織津姫を同時に祀っているので、瀬織津姫晩年の『ヒロタ』であり資格がありそうです

 先ずは、廣田神社の西井 璋宮司が書かれた説明を載せますので、御覧下さい。
廣田神社 宮司
18 廣田神社 宮司

 それでは、この説の信憑性を確かめるために、私が調べた廣田神社の伝承をお伝えします。
廣田神社の御主神の御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と言いますが、向津媛(むかつひめ)命とは、天照大神の中宮の瀬織津姫のことです。

**********

神功皇后が神託を受け、夫の14代目仲哀(ちゅうあい)天皇に朝鮮出兵を嘆願します。しかし、その嘆願を仲哀天皇が拒絶すると、何かに祟られて、仲哀天皇は悶絶して逝去しました。そこで、神功皇后が荒海に向かい、「誰が仲哀天皇を呪い殺したのだ?」と問うと、荒霊が出現し、『我の名前は『ムカツ』だ』と名乗りました。

神功皇后が朝鮮征伐を成功させ、大和に帰還するとき、忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていたことを知り、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指しました。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまいました。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と、天照大御神の御託宣がありました。
そこで神功皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀らせました。これが廣田神社の創建です。

このとき、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも御託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われました。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができました。


**********

ムカツ姫(瀬織津姫)は、ハタレ(悪魔)や大蛇の反乱を引き起こした張本人ですので、天照大御神の荒霊と呼ばれたり、神功皇后の荒霊とも呼ばれます。

【神功皇后】
19 神功皇后図

 廣田神社の伝承を纏めてみます。

瀬織津姫が廣田神社に初めて鎮座したのは神功皇后の時代で、そのときから瀬織津姫(天照大御神の荒霊)が祀られるようになりました。

 それでは、神宮皇后は、何時くらいの皇后なのでしょうか?
神功皇后は、新羅王子のアメノヒボコの子孫の菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)の娘です。そして、アメノヒボコが渡来するのは『日本書紀』によると、11代目垂仁天皇3年です。

 アメノヒボコの母国の新羅の建国は西暦356年ですが、新羅の前身の辰韓の「斯蘆」(しろ)が権勢を握り、辰韓を統一をする時期も含めて考えると、神功皇后(15代目応神天皇の母)は4世紀後半の人だと考えられます。
そして、倭国が朝鮮への出兵が激しくなるのが、神功皇后以降の5世紀の倭の五王の時代からですので、神功皇后の時代が4世紀後半という推測は妥当だと考えられます。
従って、瀬織津姫が廣田神社に初めて鎮座したのは、4世紀後半です。

② 次に、瀬織津姫の年代を推定してみましょう。
 ホツマツタヱによると、天照大御神が12代目天神のウガヤの即位の勅命を出したとされており、その後に天照大御神が崩御されたようです。神武天皇の東征が西暦300年前後ですので、天照大御神の逝去は3世紀後半だと推測されます。
天照大御神の神上がる際の瀬織津姫への遺言が、「『ヒロタ』に行って、ヒルコ姫と女の道を全うせよ」でしたので、ホツマツタヱを考慮すると、瀬織津姫が逝去した時期は西暦300年頃だと推定されます。

③ また、宮崎県の言い伝えでは、瀬織津姫はニニキネの天孫降臨の後に西都原(速川神社)で暮らしていましたが、その後、神武天皇の東征に付き添い『おきよ丸』に乗り込みました。しかし、病にかかり、宮崎県延岡で下船し、御霊神社ある場所に葬られたとされています。その言い伝えが正しいとすると、やはり西暦300年頃のことです。
20 御霊神社
http://goryouzinja.web.fc2.com/

④ 瀬織津姫の逝去時期が西暦300年頃で、神功皇后が4世紀後半の人だとすると、神功皇后が創建した廣田神社がホツマツタヱに書かれた『ヒロタ』であったとは思えません。

⑤ それでも、廣田神社が官弊大社となっているのは、それなりの理由があります。それは、廣田神社に瀬織津姫の御霊(みたま)、つまり、天照大御神の荒霊が廣田神社に鎮座しているからです。
どこで暮らし、どこに葬られたかより、今での御霊が鎮座しているかの方がずっと重要だと考えます。
なぜなら、ヒルコ姫の場合には、ツクバ(イサ宮)、ヒロタ、ソサ、イサワ、ソサ、ヤスカワと引っ越し人生だったので、特定の1箇所に固執することはあまり重要ではないからです。誕生、青春時代、新婚時代、崩御の地も、ヒルコ姫にとって、どれも同じくらい重要な場所だと思います。以下に、その理由を話します。

 宮崎県の高千穂に『天岩戸神社』がありますが、宮司さんの説明は、「天照大御神は生前は人であった。そして、逝去後に神となった。徳川家康も生前は人だった。そして、逝去後に神となり日光東照宮に祀られた。権力者が神になる」とのことでした。
この徳川家康の例をとると、誕生は愛知県岡崎、武田信玄に破れたのが静岡県浜松、江戸城を築き、静岡市の駿河城で晩年を過ごしました。それでも、徳川家康のイメージは関が原や江戸城で、お祈りを捧げるのは日光東照宮ではないでしょうか?
しかも、徳川家康の墓の場所が定かではありません。日光だと思われる方が多いのですが、久能山が墓で、日光は仏壇のような存在だとも言われています。
こうして考えると、天照大御神や豊受大神にとっての伊勢神宮、徳川家康にとっての日光東照宮、そして瀬織津姫にとっての廣田神社は、生前住んだことがなく、墓がなかったとしても、とても崇高な宮社だと言えるのではないでしょうか?

 なお、天照大御神は、豊受大神と同じところに埋葬されることを遺言しましたが、伊勢神宮には、二神の玉体はないと思われます。でも、二神の御霊(みたま)は日本全国を御幸(みゆき)し、人々の願いを叶えておられますが、必ず、伊勢神宮に戻って来られます。それ故に、伊勢神宮は崇高な社とされているのです。
21 伊勢神宮


8、伊勢
 前節で、少しだけ伊勢神宮の話をしましたので、この説では『伊勢』についてもう少し詳しく話します。
多くの人が、天照大御神は三重県の伊勢で暮らしたと誤解されているようですが、天照大御神と豊受大神は伊勢志摩と縁がありませんでした。何故なら、天照大御神の時代の三重県の伊勢は、倭姫命が御神託を受けるまでは無名の地だったからです。その経緯を話します。

 ホツマツタヱでも、神武天皇の東征前は、歴代の天神は九州に住んでいました。天孫降臨のニニキネ以降の御陵墓推定地は全て九州南部にあり、ニニキネが生まれた日高見が九州北部にあることより、天照大御神の宮は主に九州だったと考えられます。
22 天孫降臨

 天孫のクシタマ・ホノアカリは飛鳥に大和政権を築いたので、天照大御神が大和に御幸したことがあるかもしれませんが、辺鄙な伊勢志摩にまで足を伸ばしたとは考えられません。

 伊勢志摩の地が脚光を浴びるようになるのが、11代目垂仁(すいにん)天皇の皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、伊勢神宮に天照大御神(アマテル)と祖父の豊受大神(トヨケ)の御霊(みたま)を祀るようになったからです。
倭姫命は天照大神の御杖代(天照大御神の宮社探しの役)として、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を巡り、実に14の地域を26回の遷宮した後に、最後に伊勢に辿り着きました。そして、占いの結果、伊勢神宮の場所を決めました。
23 御杖代

 もし、伊勢志摩が天照大御神の生前の住居地だったのなら、宮社探しにこのような苦労するや、占いをする必要はなかったはずです。やはり、伊勢志摩が知られるようになったのは、11代目垂仁天皇の時代からです。
このように考えると、天照大御神は生前、三重県の伊勢に居住していた可能性はとても低いと考えられます。
24 倭姫宮

 それでは、天照大御神の時代に『伊勢』と呼ばれていた場所は、どこなのでしょうか?
『伊勢』とは、三重県の伊勢ではなく、『妹背(いもせ 夫婦)の道』を意味し、夫婦で力を合わせて築き上げる桃源郷のことだと言われますが、具体的な場所の比定をしてみます。
 しかし場所を特定してみると、神武天皇の東征前なので、九州内の話であることは確かです。

 九州内で、(元)伊勢として名乗りを上げているのは、宮崎県日向市の『大御(おおみ)神社』です。地方の民は『日向のお伊勢さま』と呼んで崇敬しており、『さざれ石』がある『伊勢ケ浜』に面した神社です。ニニキネ尊が天孫降臨の際に、この神社から西都原に向かって船出し、木花咲耶姫と巡り合うことになります。
 なお、『大御神社』は霊験あらたかなようで、『大御神社』で、必勝祈願をして君が代を歌った日本ラグビーチームが2015ワールドカップで競合南アフリカを撃破しました。
25 大御神社


その他に、熊本県上益城郡山都町の『幣立神宮』も名乗りを上げています。
『幣立神宮』は日本最古の神宮と言われており、『カムロギ』を祀っています。『カムロギ』の名は大祝詞に出てきますが、『イサナギ』の名前も『カムロギ』といいました。
『幣立神宮』は、ニニキネ尊の高千穂からの天孫降臨のルートでもあります。
26 幣立神社


 伊勢神宮には天照大御神と豊受大神の玉体はなく、御霊が祀られているのです。同じところに鎮座している玉体と異なり、御霊(みたま)ならば日本全国に行幸できるので、人々の願いを聞き届けてくれることができます。御霊の方が有り難いと思います。
また、度々御霊が御幸をされるので、式年遷宮の儀式が必要になります。


9、九州の『ヒロタ』
 個人的には、ホツマツタヱでヒルコ姫が幼少期に暮らした『ヒロタ』は、福岡県福岡市の粕屋にある広田地区ではないかと思っています。
 カナサキは安曇族と宗像族を掌握したとホツマツタヱに書かれています。安曇族は海人で大陸との貿易を営んでいたので、対馬、志賀島、粕屋近辺は勢力県内であり、宗像も粕屋から近い距離にあります。また、住吉神社やカナサキの所領となった福岡県春日市も粕屋から近い距離にあります。粕屋でないとしても、カナサキは福岡市の西方に拠点を有したとマクロ的には考えられます。宇美八幡宮、筥崎神宮、志賀海神社、香椎宮、住吉神社、宮地岳神社、宗像大社は、粕屋の広田地区から近距離にあります。

粕屋の戸原麦尾(とばらむぎお)遺跡は、粕屋町の戸原から広田地区にかけて広がる遺跡で、多々良川の左岸の沖積微高地に立地しています。調査の成果から、古代末から近世までの集落遺跡であることがわかりました。建物の周囲に溝を巡らせた屋敷地があり、時期による変遷や、当時の開発の実態をつかむことが出来ています。
27 粕屋広田地区

 ホツマツタヱによると、ヒルコ姫は様々な土地に住んでいたので、幼年期に住んだ『ヒロタ』の場所はあまり重要ではないかもしれません。だから、一つの場所に固執する必要はなく、物語としては、夢を追いかけて、様々な説があっても良いと思っています。
私が『ヒロタ』が九州北部だとするのは、マクロ的な歴史的視点から、当時の大陸との貿易を考慮したからです。(カナサキは住吉大神ですが、大陸貿易を手掛けていた安曇族(海人)や宗像族を配下にしていました)


10、ヒルコ姫の幼少期
 下の図は、瑠璃の星さんが描いたカナサキ家の肖像画ですが、左上より、エシナズ(カナサキの妻)、カナサキ、左下より、ハヤアキツ姫(カナサキの娘、後に天照大御神の西の局)、ヒルコ姫です。速秋津姫とヒルコ姫は姉妹のように育ちました。
28 カナサキ一家

 エシズナが行儀作法を教えました
『カナサキ家では、子どもが生まれた日には炊いた御神饌を神に供え、 親族に加わる儀式を行いました。
三年目の冬は「髪置き」の儀式をしました。
30 髪置き

元日には餅を供え、天地の神を祭り、桃の花の季節に雛の祭りをし、菖蒲の季節にちまきを備え、 夏は棚機の儀式をし、秋は菊や栗を供えて祝います。
そして、五年目の冬に、男の子は袴を着け、 女の子は衣被(きにかずき)の儀式をします』

そして、カナサキが学問を授けました。
『読み書きや和歌を教えました。そして、東西南北の名前の由来や、長生きの秘訣を教えました』


 しかし、天神家に従わない輩が沢山おり、天神家打倒の旗印を上げていたはずです。大物主(三輪)家の編纂したホツマツタヱは男権社会としています。これは儒教の影響を受けたからだと考えられます。
実際は、弥生時代の卑弥呼の時代は、まだ女権社会の影響が色濃く残っていたと思われます。
そこで、天神家の勢力の結集を恐れた対抗勢力から、ヒルコ姫は命を狙われたはずです。(天照大御神の生誕の前でしたので、尚更のことです)

 しかし、こうした話をすると暗くなってしまうし、退屈なので、小説『邪馬台国ラプソディ』は、韓国歴史ドラマ風に仕上げました。とても面白いので、一読下さい。
 なお、ワカ姫(ヒルコ姫・卑弥呼)の恋バナ以降の話は、『邪馬台国ラプソディ』〈第二巻〉以降でお話しますので、楽しみにして下さいね。


11、若日孁即位
 イサナギは後厄が終わると、ヒルコ姫を呼び戻しました。そして、ヒルコ姫はワカ姫と名を変えました。『ヒルコ』と『ヒルメ』は、魏の言葉では音が類似しているので、『ヒルメ』は『ヒルコ』から派生して作られた役職だと考えられます。
 実はワカ姫とは『若日孁(わかひるめ)』の事で、若い日(太陽)の女性神官の役職だったと考えられます。但し、『ワカ』は、『若い』の他に、大恋愛をしたので『沸』とか、祭祀で虫払いをして稲を『若返らした』ので『若』と名付けられたという説もあります。
29 ワカヒメの衣装


 天照大御神の別名は『大日孁貴(おおひるめのむち)』、『天照大日孁(あまてらすおおひるめ)尊)』といいますが、『日孁』の文字が使われています。記紀では、天照大御神も女性神官の長とされています。
 そして、邪馬台国の卑弥呼も女性神官の長でした。そうしたことから、卑弥呼と天照大御神やヒルコ姫は、同一人物である可能性が高いのです。
 東京帝国大学の白鳥庫吉(1865~1942)は,明治時代における我が国史学界の第一人者でしたが、卑弥呼についても言及し、神功皇后である可能性よりは、天照大御神に近い存在だとしています。
 また、安本 美典氏は『卑弥呼と天照大御神の活躍した年代は重なる』とされていますが、卑弥呼と天照大御神が同世代だとすると、ヒルコ姫と卑弥呼も同世代となります。
http://best-times.jp/articles/-/1170

 また、ヒルコ姫は皇女ですが、この時代には皇女でなければ、女王になることは出来ませんでした。そして、卑弥呼の時代に、ヒルコ姫以外に生粋の皇女は存在しませんでした。
 随分後の韓国ドラマの『善徳女王』をご覧頂ければ分かりますが、聖骨(そんごる)でなければ、王座につくことはできませんでした。聖骨は、純血の王族を意味しますが、新羅王朝は、朴(パク)、昔(ソク)、金(キム)の3氏の王朝で、その3氏のみで、両親とも(途切れる事なく)続いて来た血族のみをと言いました
 かなり近親相姦的で、遺伝学的には芳しくなさそう ですが、これは日本でも同じだったはずです。ホツマツタヱで、『ヒトリガミ』という言葉が出てきますが、これは聖骨の同族結婚ではない場合の言い方で、4代目天神のウビチニ・スビチ以降から、「聖骨」の制度が取り入れられました。天照大御神の皇室も、東西南北の局の筆頭の妃たちも聖骨でした。

28 ソンドク女王

 善徳女王のように、ヒルコ姫には卑弥呼(日孁)になる資質を兼ね備えていました。言い方を変えると、卑弥呼になれる資格を兼ね備えていたのは、日本国にはヒルコ姫以外にはいなかったのです。


 つまり、ホツマツタヱが真実の歴史書だとすると、卑弥呼は、ワカ姫(ヒルコ姫)以外には考えられません。

 なお、京都大学の邪馬台国畿内説では、日本神話は単なる創作で、神武天皇の東征はなかったとしています。そして、日本神話は、歴史にはなりえないとする立ち位置にいるので、古事記、日本書紀、ホツマツタヱは全部出鱈目で、歴史書として取り上げる価値がないことになります。この邪馬台国畿内説派が現在の考古学会の実権を握っています。それで、歴史の教科書から『神武天皇の東征』が消されてしまいました。
 なお、『西宮』にヒルコ姫が住んでいたという説があるようですが、これは邪馬台国畿内説派の意見に賛同したことになります。ところが、邪馬台国畿内説派は、神武天皇の東征が書かれた古事記や、日本書紀、ホツマツタヱは歴史書として価値がないとして、無視しているのが実態なのです。古事記や日本書紀は嘘で塗り固められた神話ですが、ホツマツタヱは、記紀の嘘を解明できる真実の歴史書だと考えると、『廣田神社説』を主張されるのは良いのですが、廣田神社や西宮神社が『西宮』にあることを強調する必要はないように思えます。『廣田神社説』までも、否定される結果になりそうで心配です。

 下の図は、瑠璃の星さんのイラストですが、左の女性が天照大御神の中宮の『瀬織津姫』で、右の女性が『若日孁』で、二神の祭祀の場面を表しています。二人は、祭祀を行い、有力豪族や民から慕わられたと、ホツマツタヱには書かれています。
29 ワカ姫 虫払い


 今回のブログのヒルコ姫物語は、これで一旦筆をおろします。『邪馬台国ラプソディ〈第二巻〉』を発刊できた暁には、『ヒルコ姫』ブログの続きを発刊後に公開する予定です。
 次回のブログは、6代目天神のオモタル・カシコネ以前の世界の話をしますね。これで、中国神話と日本神話の関連性が理解できるようになります。



邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶



スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

No title

私は韓流ドラマとか見たことなくて、
そのストーリーや歴史には
今のところ、ぜんぜんチンプンカンプンです。(^_^;)

王の純粋な血族のことを聖骨というのですか。
これも初めて知りました。

なんとなく「善徳女王」が気になってググってみました。

善徳女王の母の名は摩耶夫人
御陵は忉利天・・・?

六甲には摩耶山天上寺があります。
この寺院の風景が浮かんできてしまいました。
http://www.mayasan-tenjoji.jp/

近くにある六甲山頂上付近の巨大磐座は
六甲比命大善神と名付けられています。
善徳女王を知っている人が名付けたのかな。
確かに、ヒルコ姫のイメージと被りますね。
いままで想像もしなかったことが沸々と出てきました。

ヒルコ姫も瀬織津姫も、川鍋さんが仰るように
生まれや育ちは九州地方なのかもしれませんね。
その縁の土地には、いろいろな伝承がありましたね。

対して六甲は、私にとっては愛着のある土地で
いまの自分の居住地でもあるので
どうしても贔屓目に見てしまう部分があるのかもしれません。

ここにいるからこそ、
インスピレーションがパチパチっ★と湧いてきて
壮大な「邪馬台国ラプソディ」に繋がっています。

ほかの土地にいたら、
まったく違うことをしていたと思います。

土地や人の縁って不思議ですね。