FC2ブログ

XVI 日本の史記

 前回のブログでは、ヒルコ姫(卑弥呼)の幼少期の話をしました。
そして、今回は神代の天神(あめかみ)家の話をしますが、その前に『ホツマツタヱ』の信憑性に関して説明させて下さい。その理由は、神代の話をする前に、『ホツマツタヱは偽書』だという誤解を解いておかねば、神代の話をしても信じて貰えないと思うからです。

1 卑弥呼


1、 歴史の闇から顔を覗かせたホツマツタヱ
(1) ホツマツタヱは日本書紀よりも古いのか?
 記紀(古事記、日本書紀)とホツマツタヱとでは、どちらが先に出来たのかを検証してみましょう。
古事記は西暦712年に、本書紀は西暦720年に世に出ました。これは、奈良時代の話です。
 それに対して、『ホツマツタヱ』は12代景行天皇の時代に編纂されたとされています。景行天皇の時代が何時かは、ホツマツタヱの『35 ヒボコ来る、相撲の綾』の中に、そのヒントが隠されています。
2 すもう

 ホツマツタヱには、『10代崇神天皇の時代にヒボコ(天之日矛・天日槍)が渡来したが、そのときに「私は新羅(しらぎ)の王子で、名前をアメヒボコと申します」と言った』と書かれています。古事記では15代応神天皇、日本書紀では11代垂仁天皇の時代に渡来したということになっており、どの記述が正しいのか分かりませんが、新羅の建国は西暦356年のことですので、12代目景行天皇の時代は、4世紀の後半(古墳時代)と言えそうです。

 つまり、ホツマツタエが偽書でないのなら、ホツマツタヱの方が記紀よりも350年くらい前に作られたことになります。江戸時代が265年間ですので、その時間差は江戸時代の期間を遥かに超えます。
しかし、三輪家(大物主家)のオオタタネコがホツマツタヱを編纂した物的証拠を見つけねば、歴史の教科書が書き直されることはありません。(古事記も原本がないし、歴史として認められていないのですが、古事記の方が優遇されているみたいです)


(2) 天日槍(あめのひぼこ)
 ヒボコの話が出たので、ここで少しだけ、ヒボコを紹介しますね。
ヒボコは、朝鮮半島・新羅の王子で、倭人のアカル姫と結婚したのですが、ついつい姫神を罵(ののし)ってしまったので、アカル姫は怒って日本の実家に帰ってしまいました。すると、アメノヒボコはアカル姫を追いかけて日本にやってきますが、結局、別の女性と再婚してしまいます。何しに日本に来たのでしょうね?
兵庫県豊岡市出石町宮内の出石神社に天日槍の霊廟があると言われています。

3 天日矛


(3)ホツマツタヱはどんな書籍?
 少し脱線してしまいましたが、ホツマツタヱに戻りましょう。
ホツマツタヱは、神代文字の『ヲシテ文字』で書かれており、五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)、10700行余、で構成されています。
全文が和歌で綴られています。なんと優雅なのでしょう。

4 ホツマツタヱ


 ホツマツタヱの前半の『天の巻』と『地の巻』は5代目大物主で神武天皇の右大臣のクシミカタマ(櫛甕玉)が、後半の『人の巻』はオオタタネコ(大田田根子 景行天皇時代)が、編纂、筆録したものとされています。

 それでは、著者の大物主とはどのような役職だったのでしょうか?
大物主とは、中央政府の物部 (公務員)を総括し、地方の政を司る役職(司法・行政・軍事長官)でもありました。大物主の職位は、八重樫の臣のソサノオの子孫たちが、代々、引き継いで行きました。


初代大物主は、国譲りで有名なクシキネ(大己貴命、大黒天)で、スサノオの跡継ぎです。妃は、天照大御神の娘(宗像三女神)のタケコ姫ですので、従兄妹同士の結婚です。大己貴命は出雲大社に、タケコ姫は宗像大社の隠岐の島に祀られています。

 大己貴命(おおなむち)は、国譲りで有名ですが、記紀には、国譲り後の消息が書かれていません。反逆容疑で捉えられたので、殺されたのではないかと言われています。
しかし、蛭子姫の磐樟船の話と一緒で、ホツマツタヱの中では、大己貴命は生き延びたのです。
 『ツガル』という場所に国替えになり、その地の開墾を大成功させ、オオナムチは、9代目天神のヲシホミミの右大臣に昇進し、幸せな余生を過ごしたとされています。Happy endです。

 これは驚くことではありません。
血脈を何よりも重んじる時世において、天照大御神の弟のスサノオの嫡子の大己貴命の命を奪うことなどできやしません。何故なら、天照大御神の息子たちに不幸があったら、天神家の男系の血筋が絶えてしまうからです。
そのような怖ろしい決断を、高皇産霊家の高木神ができるわけがありません。だから、高木神は時間を掛けて、大己貴命を説得しようとしたのです。
 それに、日本を統一するためには、天孫降臨が必要ですが、大己貴命を抹殺するよりも、大己貴命は国造りのプロなので、天孫降臨の手伝いをさせる方がずっと有意義です。
 ただ、大己貴命に独断で動かれると、天下統一の妨げになるので、クシヒコ(えびすさん)に大物主の位を譲位させ、クシヒコに高木神の娘の美穂津姫を嫁がせたのです。
現代でも同じですが、妃は家庭の実権を握るので、美穂津姫の実家が2代目大物主をコントロールすることができます。事実、そのようになり、美穂津姫が天神家の皇室の実権を握りました。これで万全です!
 このように考えると、ホツマツタヱの記述は現実的です。


 ところで、大己貴命の国替え先の『ツガル】とは一体どこでしょうか?
私は、宮崎県(延岡、都農)に国替えになったと推測しています。
延岡には沢山の大己貴命の足跡が残されています。
でも、都農神社こそが、大己貴命の国替え先だったと推定しています。 
 宮崎県の都農(つの)神社に、大己貴命(オオナムチ)が祀られています。昔は、境内が3km四方あり、宮崎県では一番立派な神社でしたが、西暦1578年の大友・島津両軍の争乱の際に、社殿を始め、社宝、古文書類を悉く焼失してしまいました。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社です。

5 都農神社



 都農神社は出雲から遠く離れているのに、大己貴命が祀られており、神社の規模が大きかったことは、ホツマツタヱの記述と適合しています。これが、国替え崎としての根拠の1つ目です。
 都農神社の周りには三輪(大物主家)の名字の家が多くありますが、神武天皇の東征に同行しなかった大物主一族がこの地に残ったと考えられます。つまり、大物主の末裔が残されていることが、2つ目の根拠です。
 また、西都原の都万(つま)神社は、木花咲耶姫と天孫降臨のニニキネの愛の巣があるところですが、都農神社は長い間、都万神社をサポートしたと伝えられています。両者の関係は良好でした。つまり、ニニキネの天祖降臨をバックアップするのに、都農神社は最適なロケーションだったのです。これが、3つ目の根拠です。
両者の仲が良好だったのは、西都原は大山祇家の領地で、都農神社は大物主家(スサノオの子孫)の領地でしたが、スサノオの妃(大己貴命の母)のクシナダ姫は大山祇家出身ですので、西都原と都農の関係が良好だったのでしょう。親族同士の繋がりが、4つ目の根拠です。
但し、大山祇家の没落に伴い、両者は疎遠になっていったようです。
 
 なお、大己貴命の国替え先(ツガル)が青森県の津軽半島だという説もあるようですが、津軽半島にはその痕跡が全くありません。どう考えても、見当違いのように思えます。

 大己貴命の話は、『邪馬台国ラプソディ〈第三巻〉』でしますので、詳しくは、そちらを御覧下さい。小説仕立てにしていますので、ワクワク・ドキドキしますよ!


 なお、都農神社は、神武天皇の東征のルートでもあります。美々津まで陸路で向かい、美々津で海軍を創設後、海路にて大和を目指しました。


 そして、二代目大物主がクシヒコ(エビスさん)ですが、クシヒコの妃が高木神の娘の美穂津姫で、宮中で絶大な権力を掌握します(春日局的な存在)
クシキネ(大黒天)とクシヒコ(エビスさん)は、七福神のメンバーとして有名です。頭巾をかぶり白い袋を担いでいるのが大黒天で、鯛を釣っているのがエビスさんです。

6 宝船


(4) ホツマツタヱの再発見
 西暦1966年、自由国民社の編集長の松本善之介(よしのすけ)氏が、神田の古本屋でホツマツタヱの一部(3巻/40巻)の写本を発見しました。
 その後、『四国宇和島の旧家小笠原家分家(小笠原長種本)や分家小笠原長恭宅で(小笠原長弘本)のホツマツタヱが相次いで発見されました。

 小笠原長武(1823-1839)は播磨安志藩の第5代藩主ですが、小笠原 長弘(西暦1489年)は、室町時代後期の武士で、島根県邑智郡川本町の温湯城を本拠とする国人・石見小笠原氏の第9代当主でした。
 小笠原家は清和源氏の流れ引いた氏族ですが、第56代清和天皇(西暦850~881年)は平安時代の人です。小笠原家にホツマつての写しが残されているということは、ホツマツタヱは平安時代にまでは遡ることができるかもしれません。

7 ヲシテ文字


 松本善之介氏は、ホツマツタヱに、『天照大御神は男神』 『ホツマツタヱは縄文時代』というキャッチフレーズを掲げ、精力的に普及活動に務められてこられました。その苦労が実り、無名だったホツマツタヱが、今ではテレビでも紹介されるようになりました。
 また、ホツマツタヱは単なる歴史書ではなく、乗馬方法や宮殿の造営等の実用書、仕来りや言葉の由来、夫婦のあり方等の哲学的な部分まで網羅した書籍です。記紀のような乾燥した神話ではなく、歴史に即した百科事典のような存在で、とても面白い仕上がりになっています。
 更に、フトマニの神秘性に魅せられた方々が増えていき、ホツマツタヱの知名度はかなり高まってきました。
これは、先人たちの苦労の賜物です。我々日本人に、とても貴重な文化遺産を残して頂きました。
これまでの先人たちのご努力に対し、深謝申し上げます



(5) 時代錯誤
 その半面、考古学学会は『ホツマツタヱは偽書』だと断定しています。そのため、歴史好きの方々は『ホツマツタヱ』の名を出すだけで、胡散臭そうに顔をしかめ、中身を読もうとする人がいません。まるでカルト集団扱いです。
 この主な原因の一つは、時代設定を縄文時代としたことです。その理由を箇条書きに述べていきます。

① 埴輪馬
 ホツマツタヱに埴輪馬のような馬具の紹介がありますが、埴輪馬は古墳時代中期を代表する遺物です。縄文時代の遺跡からは馬具が一つも発見されていないので、縄文時代に乗馬の習慣があったと主張しても、誰にも認められません。埴輪馬を縄文時代の参考例として紹介するのはタブーだと思います。
 また、埴輪馬に彫られているような馬具は、木を、磨製石器で削って製造したのか、大陸からの輸入品なのか、出目を明確にする必要があります。もし大陸からの輸入品でしたら、秦の始皇帝くらいの時代までにしか遡れませんので、弥生時代の話となります。
8 埴輪馬

② 馬の骨の化石
 馬の骨の化が、縄文時代だけの遺跡から発掘されたという誤った情報が流れているようですが、これまで縄文時代の馬の化石と言われていたものを、最新の測定器で調べたところ、馬以外の動物の骨であったり、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡が合体したもので、年代測定法での検査結果は古墳時代の馬の骨でした。
ただ、宮崎県の都井岬の野生馬は、死期が近づくと、群れを離れて人知れず死期を迎えるそうなので、野生馬が縄文時代に生息していたとして、骨が発見されることはないかもしれません。
なお、魏志倭人伝に『倭国には馬はいない』と書かれていまので、この説明を考える必要があります。
9 御崎馬


③ 馬の走行距離
 競走馬の場合、3000m~4000mの全力疾走がMAXです。馬は、短距離走は得意でも持久力がないので、最長記録は1日で90Kmというのがありますが、この移動を連日で続けることは不可能です。
実際には、普通馬の場合、1日に進める距離は、無負荷で並足なら20~40キロ程の走行距離だと考えれば無難です。これなら、飛脚のほうが早いですね。
 サッカーの試合を見れば分かりますが、前半45分、後半45分を動き回れば、体力の限界ギリギリです。
また、マラソンの距離は42.195kmで、世界記録は2時間2分57秒です。フル・マラソンの後にどのくらいの距離を走れるでしょうか?
10 マラソン

 馬車の場合、時速10キロ程の速度で40キロ(4時間)の連続走行で馬を交換して、一日90キロ程走行していたことがあるそうです。しかし、縄文時代に換馬が沢山いれば、馬の骨の化石が残っているはずです。また、縄文時代の乗換所の遺跡が見つかっていないのは何故でしょうか?
 もし、例え、1日90km進めたとしても、縄文時代の通信網がない時代に、宿泊、食事、護衛はどうしたのでしょうか?ヲシホミミの時代に、日高見(北上川の流域?)に首都を設けたとしたら、政治が機能するのでしょうか?


④ 貴人の移動手段
 ホツマツタヱによると、高貴な方々の移動手段は、一般的には輿でした。トヨケが天照大御を日高見に連れて行く時には輿を使いました。天孫降臨でも、クシタマ・ホノアカリやニニキネは乗馬ではありませんでした。
 また、高貴な方には沢山のお供が随行するので、大行列になります。
私には、豊受大神、天照大御神、体の弱いヲシホミミが、夜通し馬に乗り続ける姿が想像できません。
11 輿


⑤ 青銅器
 ホツマツタヱには、田畑の開拓や青銅器の話が時々出てきます。しかし、農耕も青銅器製造は弥生時代に始まりました。水稲栽培や青銅器製造は、縄文時代の話ではありません。

⑥ 船
 ホツマツタヱで紹介された船の形状が、縄文時代の丸太船や葦船では無く、弥生時代以降の仕様の船です。

⑦ 筆記用具
 紙が中国で発明されたのは、弥生時代です。石や陶器、甲羅では大きすぎて、ホツマツタヱのような膨大な書籍を保存管理することは不可能です。ただ、竹や木なら保管できるかもしれません。

⑧ 富士山の噴火史
 縄文時代の晩期には富士山の噴火や大規模な崩落がありましたが、それだけ大きなトピックスなのに、ホツマツタヱには書かれていません。


(6)神武天皇の東征
 現在、紀元前660年に神武東征があったと信じている学者はいないと思います。なぜなら、邪馬台国畿内説派は、神武天皇脳東征は無かったと主張し、邪馬台国九州説派は、卑弥呼と天照大御神は同一人物だと推定しているからです。ホツマツタヱ派だけが梯子を外され、孤立無援の状態にあります。

 神武天皇の東征時期を、日本書紀に迎合し、ホツマツタヱで紀元前660年前後だとしてしまったのが、この思い違いの原因だと思われます。

 縄文時代の九州の人口は2000名しかいなかったのに、神武天皇が、九州から大和に東征をすることなど不可能です。神武天皇の東征は痕跡が沢山残されているので、史実だと信じていますが、それが紀元前660年の辛亥(革命)の年の出来事のわけがありません

12神武天皇の東征ルート

 色々申しましたが、ホツマツタヱは面白い書籍ですので、記紀同様に、空想上の神様が織りなすフィクション(神話)や哲学書として、後世に残すやり方があっても良いと思います。でも、それと同時に、真実の歴史書としての価値を追求するやり方もあっても良いのではないでしょうか。
そこで、私流のやり方で、『ホツマツタヱは真実の書』として、世間に認知させるように、今後の中で、積極果敢に奮闘しようと思っています。


(7) 国史と家系図
 ホツマツタヱには沢山の魅力があるので、その全てをここで紹介することはできません。そこで、ホツマツタヱの素晴らしさの一つとして、家系図だけ紹介します。

 記紀の家系図は辻褄が合いません。例えば、スサノオとオオナムチとの関係は、日本書紀は5世孫、古事記は4世孫とされており、整合性がとれていません。
これは、日本書紀では日本の歴史を古く見せようとして、神武天皇の即位年を、最も遡れそうな辛亥革命の年(紀元前660年)に初めに決めておいてから、その辻褄合わせの為に、平均寿命30歳(弥生時代)に歴代の天皇の寿命を100歳以上にしたり、欠史八代を設けたりしました。

そのため、ホツマツタヱではスサノオの息子が大己貴命なのに、年代の辻褄を合わせるために、記紀では世代を大きく引き離すといったカラクリを施しました。このような方法で年代を誤魔化したので、古事記と日本書紀に年代の乖離が生じてしまいました。それで、歴史学者から記紀は見向きもされなくなりました
ホツマツタヱは、その点、世代はしっかり把握されていますので信頼できそうです。

 また、記紀では、役職が何だかさっぱり分かりません。例えば、スサノオ、大穴牟遅(クシキネ)、エビス様(クシヒコ)、コモリの関係が分かりません。それに対し、ホツマツタヱは一目瞭然です。
また、八重垣の臣、大物主、事代主の役職がどのようなものかが明瞭です。
 このような貴重な情報を、歴史の溝(どぶ)に捨て去ることはもったいないことです。できれば、司馬遷の史記のような存在にしたいですね。

13 史記



2、 ホツマツタヱ偽書論への反論
 ホツマツタヱは偽書であると、歴史学者から批判されています。しかし、歴史学者は、古い文献をしっかり精査せずに盲信し、歴史学者はホツマツタヱを一度も読まずに、批判を繰り返すだけです。この偽書説の反論をしていきます。

(1) 古墳時代以前には、日本には文字がなかったとされています。
 それは、平安時代に神官の斎部広成が編纂した神道資料『古語拾遺』に「上古の世、未だ文字あらず」と書かれているからです。それが学問上の定説になってしまいました。
 しかし、津田左右吉博士は、西暦1928年に『古語拾遺の研究』で、執筆当時の歴史史料としては役に立つが、記紀以前のことを知るための史料としては価値がないと断定されました。つまり、『古語拾遺』の記述は、仏教伝来の前に『文字がなかった』という決定打にはなりません。


(2) 『日本の古代に、神代文字や漢字は使われていなかった』というのが、考古学会の主張です。
 しかし、神代に漢字も含めた文字は無かったという根拠がありません。それどころが、文字が存在していたことの状況証拠が残されています。

① 弥生時代は大陸との貿易が活発に行われていました。文字で書かれた目録も無い大陸貿易が成り立つわけがありません。


② 奴国が光武帝から『漢委奴国王』の金印を西暦57年に授かりましたが、金印には漢字が書かれています。


③ 倭人は華南(呉越)の末裔たちが興した国ですので、呉越の文字が弥生時代に伝わらなかった訳がありません。


④ 福岡県糸島市教委は1日、同市の三雲・井原遺跡で、弥生時代後期(1〜2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した、と発表しました。
硯で刷った墨で文字を書くこと以外の何に硯を用いたのでしょうか?
楽浪郡で用いられた硯に類似しており、更に、三雲・井原遺跡では楽浪郡の土器が沢山発掘されています。

14 弥生硯


⑤ 福岡県の英彦山に高住神社がありますが、ここは高皇産霊の霊場です。ここには、阿比留文字(あびるもじ)の版木があります。長い間、使い続けられてきたので、ボロボロです。
この阿比留文字は商(殷)時代の甲骨文字に類似しており、甲骨文字も阿比留文字も漢字の草書体と言われています。阿比留文字は神代文字と言っても過言ではありません。
高皇産霊家が使用した文字が阿比留文字で、三輪家(大物主家)が用いたのがヲシテ文字だと言えそうです。


⑥ また、九州で弥生時代の硯の発見から、紙で記録が残されたと考えられます。
中国甘粛省天水市の古墓で発掘された地図の描かれた麻の紙が、世界最古の紙とされており、前漢文帝・景帝(在位紀元前189~141年)の時代のものです。
ホツマツタヱが弥生時代の話だとすると、紙を使用した可能性はありえます。



(3) 江戸時代以前のヲシテ文字が発見されていないので、ヲシテ文字は江戸時代に国文学者が創作した偽書であるという説がありますが、江戸時代に創作された話であるという証拠もありません。これだけの壮大な文書を、無償で書き上げる方がいるとは思えません。ましてや、著者の名前はどこにも残らないのに。編纂した動機がみつけられません。



(4) ホツマツタヱを一度も読まずに、批判される方々ばかりです。内容を吟味してから、指摘をして頂ければ有り難いのですが。
 でも、極稀にですが、ヨセフ伊勢原氏のように、ホツマツタヱを一読された上で、『ホツマツタヱのトンデモカルト説』を唱えておられる方がおられます。イラストは低俗な気がしますが、それでも、律儀に目を通して下さり、貴重なご意見を下さったことには感謝します。学説は踏まれながら、正確なものになっていけるからです。

15 トンデモカルト

 以下に、ヨセフ伊勢原氏が編集された新聞とブログを掲載します。

【ヨセフ伊勢原氏のホツマツタヱ非難新聞】
16 トンデモ新聞

【ヨセフ伊勢原氏のホツマツタヱ批判ブログ】
http://hotsumatsutae.xxxxxxxx.jp/ホツマツタヱ批判ブログ

 私は、ホツマツタヱ派のプロテスタントです。だから、ホツマツタヱの正統派の方々からは、異教徒扱いされています。
それなので、新聞の内容に関して反論していきますが、この意見は個人的なものであり、ホツマツタヱ派を代表するものではないことをご理解下さい。また、私は『ホツマツタヱは、弥生時代、古墳時代の物語』と想定していますので、反論にはならないところがあるかもしれません。


① 飛鳥時代に以降から出土した木簡の記述と日本書紀と一致する部分があるので、ホツマツタヱが日本書紀の原書ではない。
→記紀は持統天皇等に都合良くするように、嘘が鏤められたフィクションですので、個人的には原書であることのメリットは何もないと思います。例えば、神武天皇の東征を紀元前660年に設定したのは日本書紀で、これは出鱈目です。この原書がホツマツタヱだとすると、ホツマツタヱも出鱈目ということになります。ただ、原書ではないにしても、参考にはしたと推測できます。(その推定は、下段で述べます)

【持統天皇】
17 持統天皇


② 記紀の登場する神々は古代日本に実在したか?
→ホツマツタヱが弥生時代の書籍だとすると、古代日本に実在したと考えられます。
 東京帝国大学の白鳥庫吉博士(1865~1942)は、明治時代における我が国の国史学会の第一人者でしたが、明治43年に『倭女王卑弥呼考』を著し、邪馬台国九州説を唱えました。その中で、卑弥呼について言及し、神宮皇后である可能性よりは、むしろ、神話上の天照大御神に近い存在である、と述べています。

【白鳥庫吉博士】
18 白鳥博士

 ホツマツタヱでは、男神の天照大御神の姉のヒルコ姫が生き残り、若日孁(女性神官の長)になったと書かれています。ヒルコ姫の司祭の内容も書かれています。また、日孁とは、天照大御神の別名です。このことより、ヒルコ姫を卑弥呼だと仮定しますと、神話の神々ではなく、実在の人間とすることができます。少なくても、記紀では、蛭子姫が身罷ったとは書かれていません。
 古代社会は身分制度がガチガチの時代でしたので、卑弥呼になる資格は、最低でも、王女であることでした。新羅の善徳女王や伊勢神宮の斎王もそうであるように、王になる為の資格は、近親結婚のような王家の濃い血脈が流れていることです。

 だから、いくら優れた巫女であろうと、王系の血を引いていなければ、国のトップになれるわけがありません。また、魏が金印を贈る条件は、最低でも国王の血を引いていなかればなりません。つまり、卑弥呼(日孁)になるための資格をもつ王女は、ヒルコ姫しかいないのです。

【伊勢神宮の『斎王祭り』の斎王】
19 斎王


③ 時の為政者の都合で、ホツマツタヱは闇に葬られ記紀で内容を改竄した。
→為政者がホツマツタヱを闇に葬った確かな証拠はないので、推測しか出来ませんが、天智天皇、天武天皇、持統天皇、藤原摂関家が歴史を改竄したことは明白です。歴代の天皇の寿命を誤魔化して、日本の歴史を古く見せたり、卑弥呼や瀬織津姫を記紀から抹消したのが良い例です。

【瀬織津姫 瑠璃の星イラスト】
20 瀬織津姫



 ホツマツタエを闇に葬った件に関して、推測を述べます。(推測ですので、間違えているかもしれません)

1) 景行天皇の時代(4世紀後半)に、オオタタネコがホツマツタヱの後半(人の巻)を編纂します。

2) 景行天皇に仕えたオオタタネコは、スサノオの子孫で大物主家の一族ですが、後に、大物主家は三輪氏(大神氏)となります。

3) 蘇我馬子と物部守屋の間で、崇仏論争が起こりました。蘇我馬子が仏教信仰を始めると、民の間で疫病が流行し始めます。敏達天皇と物部守屋は、疫病の流行を異国の神を信仰したことに対する八百万の神の祟りだとして、排仏運動を行い、多くの仏像や仏塔を破壊しました。その後、敏達天皇が没すると、西暦587年に丁未の乱(ていびのらん)が勃発しました。

4) 当初、三輪逆(みわのさかう)は排仏派の物部守屋や穴穂部皇子(あなほべのみこ)の側についていました。ホツマツタヱを守ってきた大物主家(三輪氏)が、仏教に傾くわけがありません。

5) ところが、排仏派の穴穂部皇子(あなほべのみこ)が、炊屋姫(しきやひめ/敏達大王の后妃/後の推古天皇)を犯そうと欲して殯宮(あがりのみや)に押し入ろうとしたので、敏達前帝の寵臣の輪逆がそれを阻みました。
すると、その邪魔を怨んだ穴穂部皇子が、守屋(もりや)に命じて、三輪逆を殺しました。その時、三輪家は排仏派から抜けることになります


21 推古天皇


6) 丁未の乱が終結すると、蘇我馬子と聖徳太子は、天皇記(すめらみことのふみ)や国記(くにつふみ)を編纂しました。その際に、二人が空暗記で国史を制作することなど出来るわけがないので、ホツマツタヱを参考にしたはずです。
ただ、蘇我馬子は崇仏主義なので、仏教の導入だけでなく、漢字を今後の国字にしようと考え、ヲシテ文字の使用を認めなかったと想像されます。

22 聖徳太子


7) ホツマツタヱの写しは蘇我馬子の邸宅に保存されていましたたが、乙巳の変(大化の改新)のとき、蘇我入鹿の家が燃やされ、ホツマツタヱは焼失したのかもしれません。もしかしたら、故意に焚書されたのかもしれませんね。

8) 漢字の世となり、白村江の戦いの後に、天智天皇、天武天皇、持統天皇、藤原摂関家の意向を受け、歴史を改竄した古事記や日本書紀が漢字で出版されました。そこで、ホツマツタヱは政治的な配慮から、三輪氏の倉に封印されたと考えられます。

9) 平安時代に神官の斎部広成が編纂した神道資料『古語拾遺』に「上古の世、未だ文字あらず」と書かれています。これは何故でしょう。
 実は、斎部氏(忌部氏 いんべうじ)は、高木神(高皇産霊家)の息子のフトタマ(太玉命)の子孫です。フトタマは、クシタマ・ホノアカリの大和への天孫降臨の際に、二代目大物主のクシヒコと大喧嘩をしました。
また、フトタマの孫のナガスネヒコ(長髄彦)は、神武天皇の東征の際に、大物主を中心に編成された天神軍に殺されます。つまり、斎部氏と三輪氏は犬猿の仲なのです。
 漢字の草書体(甲骨文字)と呼ばれる阿比留文字(あびるもじ)を使用してきた高皇産霊家の斎部氏は、神代文字には未練がないので、天敵の三輪氏が用いてきたヲシテ文字等の神代文字を放棄して、漢字一筋で行こうと決意表明したのではないでしょうか?


【阿比留文字】
23 あひる文字


④ 鏡、馬、牛の肉、水田の件
→ホツマツタヱが弥生時代の話で、ニニキネの開拓した水田が九州(日田市)だとすると、矛盾しません。(私はホツマツタヱ教のプロテスタントです)
天照大御神の鏡=卑弥呼の鏡、
馬:弥生時代の九州の王族の墓から馬具が出土、
肉食:道教の影響、
水田(弥生時代の九州)


⑤ 富士五湖の名前
→オオタタネコが編纂したホツマツタヱの『人の巻』は、欠史八代の記述も含まれているので、真偽の程は定かではありません。コメントは控えます。



3、 天地創造
 それでは、お約束通り、少しだけですが、神代の話を致します。

(1) 天地創造
 先ずは、ホツマツタヱにおける未開の地であった宇宙に、太陽と大地が創造された場面から語りますね。
これは、ホツマツタヱの『天七代、床御酒の綾』の内容を基に、私流に解釈したものです。

『遥か遠い昔、天と地は混じり合い、渾然一体となっていました。それが、やがて分かれる兆しが出てきました。すると、天地創造の神であるアメミヲヤ神(天御祖)が、宇宙をメ(陰)とヲ(陽)に分けました。ヲは天となり、日輪を創りました。一方、メは大地となり、月を創りました(ホツマツタヱ)』

【天体の創造 ミケランジェロ】
24 天体の創造

 これは、『邪馬台国ラプソディ』の中で、ヲシホミミの結婚式の時、天照大御神が高木神に説明した話です。『邪馬台国ラプソディ』の中でも、豊受大神が天照大御神に帝王学を教える際に、同じことを話しています。
なお、キリスト教や仏教でも、同じ話題を取り上げているようですね。ヴァティカン美術館には、ミケランジェロの『天地創造』の壁画があります。

 さて、それでは、太陽と月の話の説明をします。
『太古の世界(日本では縄文時代、中国では石器時代)は、一族単位に纏まった母権社会でしたので、争いや身分制度がない時代でした。気候が温暖な時期は、生活が裕福でしたので、考古学者はユートピアとしています。

25 天地創造

 しかし寒冷期になると、人口を支えるだけの食料が不足し、餓死を防ぐために水稲栽培を始め、治水作業や灌漑作業を推し進めるために政治組織が出来ました。すると、身分制度がうまれ、青銅器等の武器が登場しました。
 王は天に上り太陽となり、民は太陽に照らされ反射する月となりました。また、男は太陽となり、女は男を支えて輝く月のような存在になりました。
 人々は飢えの苦しみからは逃れられましたが、身分差や戦争がうまれました。』
という意味です。

 小説『邪馬台国ラプソディ』では、トヨケ(豊受大神)がアマテル(天照大御神)に帝王学を教える下りで、トヨケがこの説明をしています。

26 トヨケ アマテル


(2) ミナカヌシ
 『その中から、アメノミナカヌシ(天御中主神)が現れて、クニトコタチに生まれ変わり、トコヨ国ができました(ホツマツタヱ)』

ミナカヌシは、一番始めに地上界に降りた神様といわれています。つまり、初めて天下統一をした皇帝ということになります。
中国の場合でいうと、三皇(女媧、伏羲、神農)の時代に、身分制度が生まれ始めました。武力で中国を統一したのは『黄帝』で、この頃から石器時代から青銅器時代に移行しましたので、『ミナカヌシ』とは『黄帝』と考えても良さそうです。 

【黄帝】
27 黄帝1

また、黄帝の末裔の帝禹は夏王朝の始祖となりますが、帝禹は民を豊かにするための政治を実践しました。この教えが、帝禹学の基礎として、今日に至っています。なお、儒教も帝禹の教えに従っているようです。『トコヨ(常世)の教え』とは、帝禹の政治理念を指し、『トコヨの国』とは、帝禹の理想が実践されている国を意味すると考えられます。つまり。『帝禹』が『クニトコタチ』だと考えてもよさそうです。

【禹王朝遺址】
28 帝禹城


(3) クニサッチ
 『クニトコタチは八方に遣わす八人の御子を生んで、それぞれにその地を治めさせました。これが国君の始めです。この世継ぎの国君はクニサツチといい、アメミヲヤの道を民が守らなければ、サツチ(分離)を以って治めました。
 八御子は各々御子を五人生みました。この八方の世継ぎはトヨクンヌといわれました』

29 黄帝

 上の文を読んでも、何のことかさっぱり分かりませんね。それでは、私流の方法で説明します。
クニトコタチは八方に遣わす8人の御子を生み、それぞれの御子に、その地を治めさせました。これが国家(封建制度)の始まりです。クニトコタチの世継ぎとして、それぞれの国を収めた黄帝の末裔たちは、『クニサツチ』と呼ばれました。このクニサッチたちは、それぞれの国で、帝禹の教絵に従って政治を実践しようとしました。この八方の世継ぎは、『トヨクンヌ』の子孫です。
『トホカミヱヒタメ』のサッチ:ト:南  ホ:東北  カ:西  ミ:東南  ヱ:北  ヒ:西南  タ:東  メ:西北 で、方角を指します。
 そして、この八御子は各々、子孫を創り、新しい国を建国していきました。

 そのうちに、三つの位の身分ができて、君・臣・民の三階級になりました。つまり、国ができ、身分制度がこのときから始まったことになります。

 クニサッチとは、クニ(国)を、サッチ(分割)する者たちの意味ですが、黄帝が統一した領土を子孫たちに分け与えたのだと考えています。それが、夏王朝であり、商(殷)、周、春秋諸国、秦等の国々です。更に、商から箕子朝鮮が、周から呉が、夏王朝から越が独立していきました。更に、その呉からは倭人が出ています。つまり、黄帝の子孫が東アジアに分散していったのです。

30 黄帝領域


 ヨセフ伊勢原氏より、他の国の伝説や伝承をホツマツタヱは真似をしたという疑惑が指摘されています。それに対して、異論を述べさせて頂きます。
日本が真似をしたのではなく、日本も、中国も、朝鮮も黄帝のところで同根なのです。従って、神話も共有します。

 ただし留意頂きたいのは、現在の天皇家のY染色体は日本人特有のものです。つまり、イサナギは日本人特有の血の持ち主だったと言えます。
天皇家は、黄帝の血も、日本人固有の王族の血の両方を、受け継いできているのです。男権社会としてみると、純日本人であり、女権社会の立場からみると、黄帝の末裔でもあるのです。

31 縄文と弥生



沢山のことをお話しましたが、話が複雑になってきましたので、今回はここで終わりにします
この続きは、来週のブログ(第17話)でやりますね。興味があれば、御覧下さい!


邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント