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XVII  歴史の闇

 前回のブログで、ホツマツタヱ批判の新聞に対する反論を試みました。今回は、新聞より詳細な説明がされているブログでの指摘事項に対するコメントを書かせて頂きます。前回の内容と重複するところがありますが、その点はご容赦下さい。

1 瀬織津姫 龍

 ただ、ご了承頂きたいのは、私自身は、ホツマツタヱの前半の大物主クシミカタマが編纂した『天の巻』と『地の巻』の記述内容を史実に近いと思っていますが、ホツマツタヱ派の錚々たる面々による年代設定と場所の比定に関しては、検証不足であり、非現実的だと判断しています。
従って、私の意見はホツマツタヱ派の主流の方々の見解とは異なるもので、ホツマツタヱ派を代表するものではありません。

 また、後半のオオタタネコが編纂した『人の巻』は、史実を改竄した古事記や日本書紀と同様、歴代天皇の寿命を意図的に長くし、日本の歴史を古く見せようとした形跡がうかがわれます。また、『人の巻』は、記紀同様、瀬織津姫の存在を消し去っているので、歴史書として信用してよいかどうかが判断できません。
そのため、小説『邪馬台国ラプソディ』は、ホツマツタヱの前半と、後半の初めの『神武天皇の東征』のところまでの範囲にしています。そこで、『人の巻』に関係するヨセフ伊勢崎氏のご指摘に対しては、コメントを控えさせて頂きます。

 それでは、『神話学』的なアプローチの得意なヨセフ伊勢原氏よりの指摘に対する意見を述べていきます。下のWEBページを御覧下さい。

【ヨセフ伊勢原氏のホツマツタヱ批判ブログ】
http://hotsumatsutae.xxxxxxxx.jp/


1、 全近代的思考のホツマツタヱ信者
(1)エウヘメリズムに支配されるホツマツタヱ亡者
①  御指摘内容の理解
 初めの文章はエクセントリック的な文章ですので、私のような愚鈍な凡人には、論旨を理解するのが大変です。
要するに、『記紀の原書はホツマツタヱである。時の為政者が、自分たちに都合の良いように、ホツマツタヱの内容を改竄、エウヘメリズム化(死後の神格化)して、荒唐無稽な内容の記紀を作った』と、ホツマツタヱ派の重鎮たちが主張しているが、この論理は神話論から評価すると成り立たない』と言われているのだと理解しました。


②  ホツマツタヱは神話化していない
 史実を神話化することについて、「ホツマツタヱ信者コミュニティという狭い世界に限ったものではない」とのコメントですが、ホツマツタヱは神話化されていませんので、不適切な表現です。
神話化されたのは記紀の方で、記紀の編纂者は、神話化にあたり、全世界の神話を調査したかもしれません。しかし、それはホツマツタヱとは関係ありません。

【トンデモナイ表紙】
2 ホツマツタヱは気持ちいい


③  神話比較学の功罪
ⅰ) ヨセフ・伊勢崎さんは、神話学にこだわり過ぎだと思います。ヨセフさんが示された例は、ホツマツタヱが神話化されていない証拠ばかりです。どうも、無理やり、ホツマツタヱが外国神話を模倣したと見せたいように思えます。

 ホツマツタヱ派の方々と因縁でもあるような非難をなされていますが、もう少し歩み寄っても良いのではないですか?
また、見下したような表現は使わず、もっと冷静に、「ヨーロッパ等の諸国では、史実を神話化することは一般的なので、記紀が神話化されたことを非難するのは適切ではない」、または、「ホツマツタヱの内容の一部に、ギリシャ神話の影響が見受けられる」位の指摘が丁度良いと思います。喧嘩する意義がないと思います。

ⅱ) 外国神話と比較する神話学的なアプローチは、闇に閉ざされた歴史の謎を紐解くためのヒントにはなりますが、神話化は史実の改竄、または、創作を意味します。史実の追求の為には、神話比較学的なアプローチはフィットしないと思います。

ⅲ) 記紀はホツマツタヱを真似したものではない証拠として、外国神話との類似性を見出し、記紀もホツマツタヱも外国神話を模倣したものだとされています。しかし、これでは、8世紀に作られた日本の国史(古事記、日本書紀)は外国神話を模倣した創作であり、記紀には史実が全く含まれていないということをアピールしていることになります。もう少し、日本の国史に誇りを持たれても良いのではないでしょうか?

ⅳ) 日本神話は全て出鱈目だという仮定に立つと、記紀やホツマツタヱを用いて史実の追求をすることは無意味だということになります。このように考えると、神話比較的なアプローチは、寧ろ、史実を明らかにする妨げになるように思えます。

ⅴ) 中国では、妖怪の話が載せられている『山海経(せんがいきょう)』というまた、書籍があり、神話のネタ本となっています。山海経の解釈に、神話比較的なアプローチは役立ちそうですが、前漢の司馬遷が書いた史記のような書籍を解明した方が有用だと思います。

3 山海経

ⅵ) 記紀やホツマツタヱは、外国神話を模倣したと言われますが、世界は繋がっているのですから、行動パターンの類似があっても不思議ではありません。なお、外国神話とのごく一部の共通性に視点を当てているため、全体像が見えなくなっているように思えます

 ペリセウス・アンドロメダ型やアタランテ型の神話を意識していたとしても、それだけで、記紀やホツマツタヱの全文を創作することができるとは思えません。木を見て森を見ず、です。

 また、歴史書と呼ばれる司馬遷の史記や三国志の中にもペリセウス・アンドロメダ型やアタランテ型の逸話はありますので、史記や三国志も外国神話の模倣ということになります。
どうやら、ヨセフさんのご意見では、『ホツマツタヱと史記は共に外国神話の模倣』ということになりそうですね。

ⅶ) 記紀の粗筋はどのようにして作ったのでしょうか?私は、外国神話をコピペしたのではなく、風土記、墓誌、神社の由緒書やそれ以前に編纂された古文書を参考にしたと考えます。
 そして、もしホツマツタヱが7世紀以前に制作されていたとすると、当然、ホツマツタヱも参考にしたはずです。

4 ホツマツタヱ

 つまり、記紀がホツマツタヱを模倣したかどうかは、ホツマツタヱの編纂日に関わる証拠が出てこないと、判断することができません。
 そこで、その対策の一つとして、私はホツマツタヱの内容を検証し、史実と整合性があるかを調査しました。その結果、前半部分は大きな矛盾がないことが分かり、更に慎重な捜査を進めているところです。
 しかし、神話比較の調査結果は、この捜査に役に立ちそうにないので、調査範囲から外します。
今回も、神話論に関して、2~3例程度、御指摘内容を検証してみますが、あまり重要視していません。


④  史実を神話化することだけでは、エウへリズムとは言いません。
 エウへリズムは、『生前は人だが、死ぬと生前の遺徳を讃えて、神格化する』ことで、史実の神話化の一部にしか過ぎません。用語の使い方の誤りです。エウへリズムを理解する人は少ないので、ミスリーディングさせるような表現は避けて下さい。
 また、エウへリズムの例として、『射日神話』『大羿射日』をあげられていますが、これは史実の神話化であって、エウへリズムではありません
(ただ、帝夋(嚳)や后羿(こうげい)という登場人文つに関しては、エウへリズムだと考えられます。)

 でも、記紀やホツマツタヱとは関係のない物語を参考例として出された目的が理解できません。無関係な例を出すと、論旨が分かりに難くなります。
また、この話は中国戦国時代の『 楚辞』天問篇に書かれている逸話ですが、秦の始皇帝の時代の少し前のことですので、時代を考慮すると、日本神話が外国神話の模倣であるという論旨からは外れているような気がします。

【10の太陽を生んだ両親 帝夋と羲和】
5 10の太陽


⑤  民俗学、比較神話学の大家の大林太良氏の『日本神話の起源』を参考にされているようですが、大林太良氏の意図は、「『古事記』『日本書紀』『風土記』などに含まれている神話伝承を、朝鮮、中国、東南アジア、モンゴル、オセアニア、シベリアに伝わる神話と比較することによって、日本人のルーツをたどる巨大な手がかりを得る」ことであり、「記紀は外国神話を模倣し、史実を改竄した」とは言われていません

6 日本神話の源


⑥  『ヤマタノオロチはスサノオの恋路を邪魔する女達の事だ』と解釈している』と述べられていますが、ホツマツタヱの全体に目を通すと、この解釈は上辺しか見ていないことが分かります。
 八岐大蛇の反乱は天照大御神の跡目相続の争いです。
スサノオの恋路(ハヤスウ姫)を邪魔したのは天照大御神です。
櫛稲田姫を救ったのは、妻にしたいからだけでなく、ハヤスウ姫の敵討ちでもあります。

 色恋沙汰としては、スサノオ、天照大御神(男神)、瀬織津姫、モチコ姫、ハヤコ姫、ハヤスウ姫を巡る六角関係で、この殆どが、近親相姦的(従兄妹同士)な関係です。
 そして、スサノオは女装し、八岐大蛇の将軍に強い酒を飲ませて退治します。その時、天叢雲剣を手に入れます。
その後、スサノオはツキヨミの嫡子と共に、天照大御神の妃で、スサノオの不倫の相手だったモチコ姫率いる大蛇軍を破ります。

7 スサノオ

 それに対してペルセウス伝説では、ペルセウスの母に横恋慕したセリーポス島の領主であるポリュデクテースが、邪魔なペルセウスを殺すために、魔女のメドゥーサの首をとるように命じます。メドゥーサに睨まれると石になってしまいます。そこで、情報を司るギリシャ神話の青年神『ヘリウス』から『ハルパー(鎌状の剣)』を得て、メドゥーサの元に向かいました。そして、盾でメドゥーサの目を見ないようにしながら、剣でメドゥーサの首をとりました。

8 ハイパー

 その帰路、生贄にされかけていたエチオピアの王女アンドロメダを発見したので、妻にしようと望み、海の怪獣と戦って倒し救いました。

9 アンドロメダ

 しかし、アンドロメダの婚約者だったピーネウスが嫉妬し、二人の婚礼の宴に現れ、ペルセウスを亡き者にしようとしました。そこで、ペルセウスはピーネウスら一党と戦い、メドゥーサの首を使って、彼らを石にしました(目を見ると石になる)。


 この2つの物語を比較すると、どこの部分が類似しているのかが理解できません
『ヤマタノオロチはスサノオの恋路を邪魔する女達の事』とのことですが、殺したのは八岐大蛇(男)で、得たのは剣です。女達は跡目相続争いで、反乱を起こしました。
それに対して、メドゥーサの首取りの話は恋沙汰とは無縁で、母を救うためにペルセウスはメドゥーサを殺害しました。そして、剣は持参しました。
 八岐大蛇伝説と似ているところは、女性を救い結婚したことだけです。つまり、戦って恋人を手に入れたことだけが共通点ですが、それだけでは、記紀がギリシャ神話を模倣似したという根拠にはなりません。史記や三国志にも同じような逸話はあるので、女の奪い合いを証拠として、記紀やホツマツタヱが外国神話を模倣したことを主張するのは難しいと思います。

10 稲田姫


 この物語に関しては、前回のブログで指摘しましたので、そちらを参考にして下さい。


2、 ホツマツタヱの正しい読み方
(1)ホツマツタヱは漢字仮名交じり文で読めばいい
①   個人的な意見としては、先ずは漢字仮名交じり文で全文を読み流し、地名の場所を比定するときには、ヲシテ文字を見るのが良いと思います。
 この理由は、現在のホツマツタヱ派の方々の日高見、ハラミ山、伊勢等の場所の比定が間違っているからです。
考古学の常識やホツマツタヱ全体を網羅して読めば、伊勢が三重県、ハラミ山が富士山、日高見が岩手・宮城であるわけがないことに気づきます。

11 ホツマツタヱ

 例えば、『ヲシホミミの時代に日高見に首都をおきました。日高見と大和では距離が離れていますが、縄文時代には乗馬が普及しており、王族は乗馬の名手だったので、この遠距離の移動は短時間で出来ました。そこで、政を円滑に機能させることができました』というのが、ホツマツタヱ派の公式見解ですが、どう考えても非現実的です。

 また、9代目天神のヲシホミミは、体が弱くて禊ができませんでした。このオシホミミが、1週間位掛けて、夜通しの乗馬を頻繁にしたということは考えられません

12 ヲシホミミ

 『ヒタカミ』のところを、ホツマツタヱの原文で読んでも、日高見が東北地方北部だとは、どこにも書かれていません。記紀での見解(場所比定)に追従してしまったのでしょう。これでは、正しい場所を特定することなどできません。
 誤った場所の特定をしてしまったので、乗馬という非現実的な移動手段を持ち出さなくてはならなくなったのだと思います。
ヲシホミミの時代は天孫降臨の前で、日本の領土は狭かったはずです。ですから、狭い領土内では馬や飛脚が機能したかもしれませんが、北上川の流域に首都があったとすると、縄文時代の通信網は未発達で、縄文時代には乗馬が普及していなかったので、日本の中心から日高見までの距離が長すぎて、政が機能するわけがありません

 また、地名は西から東に遷っていっているのに、同じ地名なら1箇所だけしかないと誤解しているようです。
地図を開いてみて、ホツマツタヱ派の主流の方々が比定した場所を、移動ルートに沿って地図を確認して下さい。飛行機がなければ実現できそうもない移動経路があります。この説明も、馬か船で空を飛ぶのでしょうか?

13 空飛ぶ船


 漢字読みだと、地名を検索する時、限定的になってしまいますので、原文のほうが良いと思います。
ただし、ホツマツタヱを縄文時代の文献だとすると、文献歴史学的にも考古学的にも矛盾だらけです。誤った偏見や思い込みのせいで、ホツマツタヱを史実から遠ざけているように思えます。

 話を元に戻しますが、ヨセフさん、史実を追求するのに、外国神話比較結果を参考にする必要はありません。外国の神話を参考にするよりも、風土記や墓誌を参考にした方が役に立ちます。神社周りをするのも良いと思います。宮司さんが色々なことを教えてくれるからです。

14 由緒書


 纏めますと、史実を突き詰めようとするときには、全体像を把握するために漢字仮名混じり文で読み流し、地名等は原文で読んだ方が良いと思います。
また、参考にするのは外国の神話ではなく、日本に残されている風土記、墓誌、神社の由緒書等で、一つの仮説が思い浮かんだら、現地調査に行くのが良い
と思います。必ず、新しい発見があります。頭でっかちではいけません。



3、 記紀はホツマツタヱと無関係
(1)記紀を知っているホツマツタヱとホツマツタヱを知らない記紀 1
①  ホツマツタヱ、日本書紀、中国の天地開闢の文献比較を丁寧にまとめて頂き、敬服致しております。
しかし、私は、中国と日本の天地開闢神話は同根なので、似ていて当たり前だと思っています。

②  中国の春秋時代の江蘇省や浙江省の人々と日本人は、骨格、DNA等、様々な面で類似していますので、華南の地から日本に移り住んだ人たちが、水稲栽培や金属器の鋳造を日本に伝来したのは間違いありません
 日本古来の日本人がいましたが、渡来人と混血し、新生日本人が誕生したと考えられます
そのように考えると、太古の知り難い天地開闢神話の時代の話は、中国神話が発祥だと考えれば辻褄があいます。

③  私が申し上げたいのは、記紀がホツマツタヱを真似たかどうかを判断するのには、ホツマツタヱが本当に古墳時代に編纂されたものかどうかを突き止めねばならないということです。開闢神話比較はなんの役にもたちません



(2)記紀を知っているホツマツタヱとホツマツタヱを知らない記紀 2
①  記紀でも、神武天皇の東征の前に、古代天皇がいましたので、何を言われているのか理解できません。ただ、記載内容がホツマツタエの方が現実的であり、詳細だと言うことが出来ます。

②  ここでポリネシアの神話を持ち出しても意味がありません

15 ポリネシア


 中国や朝鮮の歴史を読んだほうが、ずっと役に立ちます
独り神・夫婦神に関しては、時代はずっと下りますが、白村江の戦いの少し前の新羅の『善徳女王』を見て頂ければ、その内容が分かります。
聖骨(そんごる)と呼ばれるのが夫婦神です。これは朝鮮の話ですが、金官伽倻(加羅)や任那の前身は三韓の弁韓ですが、倭国の領土または支配地でした。領主は倭国から覇権されました。
この伽倻を新羅が吸収した時代が善徳女王の頃です。

17 善徳女王


 つまり、日本流の朝廷の婚姻制度が新羅に導入されていると思われますので、日本でも4代目天神オモタルの時代から、朝鮮では聖骨(そんごる)と呼ばれる近親相姦制度の前身が誕生したと考えられます。この制度は、飛鳥時代も継続されていたと考えられます。神話を持ち出すより、史実を調査したほうが確実だし早いです。

③  記紀とホツマツタヱ、両文献の優劣を比較するのは、愚かなことです。何故なら、文献を編纂した目的が異なるからです。



(3) 記紀を知っているホツマツタヱとホツマツタヱを知らない記紀 2
①  国造りのときに用いる祭器を、記紀では『ヌホコ』と呼び、ホツマツタヱと江戸時代の呼び方は『トホコ』だったので、ホツマツタヱは江戸時代に作られたという指摘に関しては、呼び方が異なるだけで同じものです
あまり目くじらを立てねばならないような項目ではありません。呼び方の違いに関する説明をします。

日本書紀の『ヌホコ』は『玉で美しく飾った矛』です。神話化するために、宝玉風の呼び方にしたのでしょう。

 ホツマツタヱの『トホコ』は、『トの教え』を実現させるための矛で、『トの教え』とは『万民のために尽くす』という意味ですが、矛が付くと、矛がつくと、『法と警察力・治安』を意味します。私は、矛と言うよりは、軍隊を意味すると思っています。機能を考慮した呼び方だと考えれば良いです。

 江戸時代の神学者が、『トホコ』としたのは、『独股金剛杵(とつここんごうしよ)』の『と』の字をとったから『トホコ』に変化したのだと言われています。
しかし、中国語のピンインではDuで、トではありません。
また、日本の神学者が訳もなく、日本神話の呼び方を、仏教(密教)用語の呼び方に、勝手に変えようとするわけがありません。独股金剛杵の発音を真似ただけではなく、史実を調査した結果『トホコ』とした方が適切だと判断したのでしょう。

 なお、独股金剛杵は、両側に1本(独)の剣がついている金剛杵のことで、下のイラストの一番上の図です。
18 トホコ

 このように考えると、形状、飾り付け、機能により呼び方が異なりますが、同じ祭祀の道具あるいは阻止でだったと考えるのが適切だと思います。


②   オノコロ島の話や御柱巡りの話の為に、スペースをとることは無駄ですので、この話は飛ばします。
『どれらがオリジナルか?』の『呪的逃走』『ヤマタノオロチ』『海幸彦・山幸彦』も同様です。卒業論文のようにていねいにまとめられてはいますが、史実を突き詰めるという目的では、全く役に立たない指摘ですので、意見は述べません。

 水鏡の件に関しては、記紀がホツマツタヱの模倣をしたことの否定するのには全く役にたちませんし、ホツマツタヱは江戸時代の文学だという説の根拠にもなりません。この話を持ち出された目的が分かりません。あまり、意味もないところで、スペースを取るのは無駄なように思えます。

19 水鏡

 ヨセフさんが纏められた神話学の資料は、史実を明らかにするためには役にたちませんが、民俗学の勉学にはとても良い教材だと感心しています。神話学の論文を発表されるのが目的でしたら、別の場所でやられることをお勧めします。

③  論点の一つは、『記紀はホツマツタヱに書かれた史実を改竄したものではない』という点ですが、記紀の記述内容は、現実離れしています。
 例えば、歴代天皇の寿命が何故、古事記と日本書紀と異なるのでしょうか?また、平均寿命30歳の時代に、何故100歳超えの天皇が続出しているのですか?この寿命をご覧になっても、記紀は史実を改竄していないと断言できますか?
2倍歴だとしても、長過ぎるような感じがします。神話比較学をするより、この問題の解くことの方が先決だと思います。

20 天皇寿命



4、 ホツマツタヱは竪穴式住居を知っていたか?
①  ホツマツタヱの兄弟文献のミカサフミに記述があっても、ホツマツタヱには、ニニキネのニハリの宮の造営方法に関しては記載されていますが、竪穴式住居に関して記載されていません。

②  この場合、先ずは現地調査をして、ミカサフミが史実に沿った内容であるかの調査をするのが先決で、コメントをするのはそれからです。
それにしても、この案件もつまらない議論のように思えます。

③  中国では新石器時代の黄河文明の時代から竪穴式住居はあります。この文化は母系社会でした。三皇の女媧の頃の遺跡です。

【黄河文明仰韶文化 仰韶遺跡 紀元前5000年~紀元前3000年】
21 仰韶文化


④  日本でも青森県の三内丸山遺跡や他の縄文時代遺跡にも竪穴式住居があります

23 竪穴式住居 草創期 (2)


⑤  こうした状況を鑑みると、竪穴式住居を誰が紹介したかは、あまり重要なことではありません世界は一つなのですから、様々なルートで衣食住に関わる情報が流れてきたはずです。このような議論に時間を費やすのは無意味だと思います。それよりも、史実上では、何時頃の話なのかを検証してみた方が有意義だと思います。

 それでは、時代の特定をしてみましょう。縄文時代・弥生時代の住居に関しては、玉川学園の縄文時代を纏めた資料が分かりやすいで、それを使って紹介します。

⑥  旧石器時代は狩猟生活で住居を転々としていたので、テントのような簡単な構造の住居でした。

22 テント型住居


⑦  それが縄文時代になると、狩猟生活だけでなく、農業や漁業を始めるようになり、定住する人々が出てきました。
下の写真は縄文時代の草創期の住居です。(9500百年前 主に丸系)

23 竪穴式住居 草創期 (1)


⑧  次は、縄文時代の早期の住居です。(5000年前、主に四角)

24 竪穴式住居 早期


⑨  縄文時代の中期の住居です。

25 竪穴式住居 中期


⑩  弥生時代中期の住居です。縄文時代中期と大きな変化はありません。

26 竪穴式住居 弥生


⑪  時代により、竪穴式住宅の形状は変わりますが、テント時代からの脱出という意味では縄文時代の草創期ということになりますので、9500年前の話です。
私は、クニタチトコは中国の三皇五帝の頃の話だと考えていますが、それにしても9500年前は先史時代ですね。もっと新しい時代の話のような気がします。

⑫  「『日本の古代文字が語る縄文時代』という驚愕の副題が付いているが、実際はこの通り、ホツマツタヱには縄文時代との関連が明確に認められるような記述など存在しないのである」の指摘に関しては、賛同します。
半世紀の間、『縄文時代』という御旗を掲げてきたので、翻すことができずにいるのでしょう。変化に対応する柔軟姓に欠けているように見えます。
私のような反逆者が、こうした既成概念を打ち破っていくしかないと考えています。



5、ホツマツタヱが記す水田稲作は江戸時代そのもの?
 ①  この指摘は、『ホツマツタヱには魚粕の肥料を田に撒いたと書かれているが、魚粕の肥料は江戸時代から始まったので、ホツマツタヱは江戸時代に書かれたものだ』です。
このような意見は有意義です。ただ、この意見には、2つの見落としがあります。

 先ずはホツマツタヱの『15 諸々の食べ物の始まりの綾』を御覧下さい。
農作量が落ちた時、ウケモチ(保食神)が糞を肥料として使い始めたことが書かれています。
その時代には肥料は一般的ではなかったので、糞で育てた野菜を振る舞われて、侮辱されたと憤り、ツキヨミがウケモチを叩き斬ります。

 この糞の話の方が魚粕の肥料の話よりも前になっています。古代より放牧により糞を肥料にしてきたので、糞を肥料にしたとしても不思議ではありません。また、焼き畑が行われていたので、植物を肥料にすることも太古の時代から実施されていました

 また、確かに商品として魚粕の肥料が流通するようになったのは江戸時代で、九十九里のイワシが用いられていましたが、奈良時代にも魚粕の肥料はありました。
奈良時代の文献をみると、イワシは『ほしいお』『ほしか』などの素乾にしたり、『たたみいわし』や煮乾品や魚醤油などの食料品/兵糧として貯蔵品していましたが、一部は肥料にも用いていたとのことです。つまり、奈良時代にも魚粕の肥料がありました。

27 九十九里 大量


 弥生時代に関しては、ホツマツタヱ以外の記録がないので、魚の肥料が存在したかどうかは定かではありませんが、奈良時代にはあったのですから、皆無だったと断言することはできません。

 長江文明の城山遺跡や河栂渡文化(華南)は、稲作漁撈文明で、弥生時代はそれを引き継ぎました。そこで、河栂渡文化で用いた肥料を調べてみようと考えています。


6、灌漑を伴う水田耕作は最初から存在していた!
   ①  ご指摘の通りです。全面的にご指摘事項に賛同します。
但し、弥生時代の開始時期は、紀元前1000年頃では無く、紀元前500年ころです。国立歴史民族博物館のC14年代測定法の結果は誤りです。

28 菜畑遺跡


尚、河姆渡遺跡は陸稲と水稲の両方の稲作を同時期にやっていましたので、その点は考慮する必要があります。

29 河姆渡遺跡


 ここでのホツマツタヱの方々の誤解は、『伊勢』』を三重県の伊勢・志摩に比定したことです。
『伊勢』とは、(元)伊勢で、九州にはその候補地が幾つかあります。三重県の伊勢は、垂仁天皇の皇女の倭姫が見出した場所ですので、ニニキネの時代の伊勢はここではありません。私は、ニニキネが田畑を開梱した場所は、日高見(大分県日田市)の山田だと考えています。


7、縄文時代に牛馬は存在していたか?
①   『ホツマツタヱ派の方々は、縄文時代に乗馬が普及していたと主張しているが、考古学上の常識では、乗馬は古墳時代の中期から普及した』という指摘です。

それでは、東京国立博物館の馬具に関する見解を添付します。
『日本列島の馬具は、弥生時代中・後期の西北九州地方で(“王墓”とも呼ばれる)多数の副葬品をもつ有力な甕棺墓などから出土する稀少な輸入品の馬鐸や車馬具を除けば、古墳時代の4世紀末頃から古墳の副葬品として現われ、5~6世紀に広く普及しました。
このように、馬は古墳時代の途中から、新来の“最先端の乗り物”として登場したことが判ります』

30 埴輪馬


つまり、縄文時代に乗馬の習慣はありませんでしたが、弥生時代になると、王族等の特権階級は輸入した馬具を使用していた。そして埴輪馬は、古墳時代の4世紀より古墳の副葬品として用いられるようになり、埴輪馬が一般に普及したのは5~6世紀でした。

【古墳時代の埴輪馬】
古墳時代中期の埴輪馬




8、近世アイヌの様なヱミシ
①  これは、欠史八代が盛り込まれた『人の巻』の記述なので、コメントを控えさせて頂きます。


9、纏め
 ホツマツタヱに関して詳細なところまで読んで頂いた上での指摘事項は、大変有意義なものです。また、神話比較もよく纏められており、感心しました。ここまで丁寧に纏められたことに感謝申します。

31 ゼウス


 また、史学的なアプローチもしっかりしていますし、神話比較以外の指摘も適切なものが多いと思います。水田の全国へ普及していった経緯が適切に捉えられていますし、ホツマツタヱ派の本流の方々が唱えている説の弱点も見抜かれています。
このようなアプローチで、ホツマツタヱを見直すことは、有意義だと思います。

 しかしその反面、神話比較論的なアプローチを前面に押し出したため、全体の論旨が支離滅裂になり、説得力に欠ける理論展開になってしまっています。特に、日本の国史の記紀を冒涜するような理論展開になってしまったことは残念です。
 私は、記紀は持統天皇、聖武天皇、天智天皇、藤原摂関家の意向により改竄された史実を、ホツマツタヱを用いて検出して、是正をすることで、闇に包まれた真実の歴史を浮かび上がらせることができると考えています。これは、風土記でも墓誌や神社の由緒書でも検出の手段として、代用できます。そして、何故、記述が異なるかを追求することにより、歴史の真実の姿が見えてくると信じています。

 ホツマツタヱ批判も結構なのですが、ポジティブに記紀に隠された嘘の真実を追求するためのアプローチも考慮して頂ければ幸甚です。博学ですので、色々なサジェスチョンを賜りたく。


 さて、今回のブログはこれで終わりにします。改めて、ホツマツタヱを見直すと、まだまだ勉強せねばならない点が沢山残されていると実感しました。今回知り得た知識を次回からのブログに反映させていきたいと考えています。
次回こそは、天神7代の続きを話します。


邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶
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