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XVⅢ 記紀とホツマの蜜月

 魏志倭人伝以外に、日本の古代の姿が記録されているのは、古事記と日本書紀とホツマツタヱ等があります。こうした文献の信憑性を検証することは、日本の歴史の謎を解明するのに役にたつと思います。そこで、今回は、『天神七代』の話をケース・スタディとして、記紀やホツマツタヱに潜む、先入観や誤った思い込み、誤解、偏見、妄想、錯覚、マインド・コントロールを白日のもとに晒し、ホツマツタヱの本当の価値を知って貰いたいと思います。

1 ご両尊


1、 ホツマツタヱの疑惑

1) ホツマツタヱは、何故『偽書』だといわれるのでしょうか?

  残念ながら、ホツマツタヱは、史学学会からは偽書だと断定され、このままでは、この誤解が解ける見込みはなさそうです。
この一番大きな要因は、ホツマツタヱのオリジナル版が発見されていないからですが、更に、従来のホツマツタヱの古典的な解釈があまりにも杜撰なので、ホツマツタヱの記述は出鱈目だという疑惑を増長させる要因になってしまいました。


2) 『縄文時代に乗馬が普及していた』という説は根拠のない妄想

  『縄文時代には乗馬が普及していたので、日本の北端から南端までの長距離を短時間で移動できた』としていますが、この説は考古学会の常識に反しています
 事実は、縄文時代には乗馬の習慣はありませんでした
『乗馬が縄文時代に普及していなかった』という主な根拠は以下の通りです。

① 縄文時代に乗馬が盛んだった物的証拠(馬の骨、馬具、馬の土偶等)が一つも出土していません。
  土偶(どぐう)は縄文時代の遺物ですが、土偶の馬は発掘されていません
そして、埴輪馬は4世紀以降の古墳時代の遺物です。土埴輪馬の形状とホツマツタヱに記載された馬具の形状が一致しているため、ホツマツタヱは古墳時代の出来事だと誤解されてしまいました。
また、年代測定法で縄文時代のものとされる馬の骨の化石も、発見されていません。これは、関連文献を調査して頂ければ、分かることです。
新たに、縄文時代の馬の骨の化石が発見されるまでは『縄文時代には馬はいなかった』という説を覆すことはできません。

埴輪馬を縄文時代の証拠として持ち出したことは、致命的なミスでした。

2 埴輪馬

② 馬は短時間なら早く走ることができますが、持久力がないので、乗馬での移動距離は、中世の欧州でも1日30kmでした。
  盛岡と福岡までの距離は、1175.5Kmですので、乗馬での移動日数は、寄り道をしないで向かっても、約40日かかります。これでは、緊急事態に対応できません。
ましてや、縄文時代は道路網が未整備でしたし、馬を留め置く駅や駅馬の本格的な整備は大化の改新以降のことですので、縄文時代にヲシホミミが東北地方北部に首都をおくことなど、考えられません。
また、ヲシホミミは体が弱かったので、乗馬での遠距離の移動は無理でしたし、御幸の際には、ヲシホミミは輿に乗り、多くの臣下が随行したはずです。これでは、頻繁な遠距離の御幸ができるわけがありません

3 馬

  こうしたことより、 『縄文時代に乗馬が普及していた』とか、『乗馬での移動速度は早かったので、僻地に首都を置いても支障はなかった』という説明は、根拠のない妄想で、マインド・コントロールのための方便のように思えます。

 それでも、私は、ホツマツタヱは真実の歴史書だと信じていますホツマツタヱの古典的な解釈の誤りさえ是正できれば、ホツマツタヱは史実との整合性をとることができるはずです。そのためには、関連する書籍を読み解き、考古学的な見地から、ホツマツタヱが真実の歴史書であることを証明していかねばなりません


3) 古代の歴代天皇の寿命は軒並み100歳超えか?

  縄文時代の乗馬の話は根拠のない妄想ですが、歴代天皇の寿命については、ホツマ歴の西暦への換算方法を正しく理解していないために起きた悲劇です。

平均寿命は、縄文時代で15歳、弥生時代で20歳、奈良時代で30歳でした。子供の死亡率を除いても、弥生時代の死亡率は30歳です。

3 古代寿命

ところが、ホツマツタヱは、歴代の天皇の寿命が軒並み100歳超えとなっています。それなのに、この非現実的な疑惑には目を瞑り、寧ろ神々しいことだと歓迎しているような説明をされておられるように思えます。

そして、ホツマツタヱだけでなく、記紀も同様な問題を抱えています。

5 天皇寿命

 古事記も日本書紀も、寿命が非現実的なため、史実とは見做されず、神話として取り扱われ、考古学会から記紀は閉め出されてしまいました。

 ホツマツタヱの一番の問題点も、『人の巻』の歴代天皇の寿命ですが、この謎が解明されない限りは、ホツマツタヱも永遠に歴史書として取り扱われることはないでしょう。


4) 新しい模索

 私と同じ危惧の念を抱いている方々がおられます。
例えば、ホツマツタヱ史学研究会の吉田六雄氏 は、(コピーが禁止されているので、ウェブページは載せませんが)『スス歴 一百七十九萬二千四百七十歳の解読』というブログの中で、ホツマ歴の計算方法を開発し公開されています。

 これは完成形ではないので、その研究成果を盲目的に信じることはできませんが、真実の解明のための着実な歩みを続けられ、次代の後継者に引き継ぎ、夢を託そうとされています。その姿は、立派だと思います。こうした方々が次世代に正しいホツマツタヱを受け継いでいかれるのだと思います。
私は、この研究成果をベースに補整をしていけば、かなり完成形に近づくのではないかと期待しています。


 また、『朝倉未魁の超訳ホツマツタヱ』も奮闘しています。
超訳ホツマツタヱ

6 朝倉未魁の超訳ホツマツタヱ

 古典的な解釈をベースとして、ホツマツタヱの全文を翻訳されていますが、古典的な解釈に盲目的に服従するのではなく、ご自身の研究成果に基づき、独自の解釈を加味されています。全文の翻訳の他に、真の歴史書にするための新しい提案をされています。
ご自身が調べられた事をベースに新たな説を提起し、同士の方々と論議をながら、その説を切磋琢磨する。これは意義がある活動だと思います。
  でも、ホツマツタヱに歴史観よりも神秘性や哲学上の安らぎを求める方々が多くいて、これまで、古典的な解釈でもホツマツタヱのファンの方々が増えてきたことは、紛れもない事実です。

  それに、フトマニは神秘的ですし、ホツマツタヱは素敵な哲学をところどころで披露してくれるので、そうした面を重視した活動を続けられることは価値があると思います。しかし、それだけでは、ホツマツタヱは歴史のバックグラウンドを持つことが出来ず、神話の領域から抜け出すことができないでしょう。そして、いつの日か、廃れてしまうのではないかと、深く危惧しています。

  ホツマツタヱの再発見から半世紀過ぎ去りましたので、そろそろホツマツタヱの歴史的な価値を磨く動きが出てきても良いと思います
ホツマツタヱが真実の歴史書として評価されれば、歴史と哲学の両輪で、ホツマツタヱを興隆させることができるのではないでしょうか?



2、 古事記と日本書紀

1) 古事記と日本書紀の原書

  ご存知でしょうが、古事記には、古事記の原書は『帝紀(帝皇日継)』と『旧辞』と書かれています。
また、日本書紀には、日本書紀の原書は『天皇記』と『国記』とされています。
『古事記や日本書紀の原書は、ホツマツタヱだ』という説がありますが、記紀には、そのようには書かれていないことを、覚えておいて下さい。


2)  ホツマツタヱの歴史的価値

  本当に、古事記や日本書紀は、ホツマツタヱとは無関係なのでしょうか?
それを検証するのが歴史の世界です。一つ言えることは、ここで探求を止めたら、古代史の謎は永遠に闇の中ということです。

  ガリレオは、ローマ・ カトリック教会の異端審問裁判に屈し、地動説を放棄せざるをえませんでしたが、「それでも地球は回っている」と呟きました。
『地動説』は放棄しましたが、その代り『科学的手法』を確立し、後世に残しました。そして、地動説は今では常識となりました。
神秘のベールに包み込み、真実の探求の歩みをとめてはなりません。

 私は日本の古代史の謎を紐解くために、ホツマツタヱを有効的な手段だと考えています。ホツマツタヱを真実の歴史書にするためには、偏見や思い込み、非科学的なことはできるだけ排除して、文献や考古学の知識をフル活用せねばなりません。
そして、古事記や日本書紀の生い立ちを知ろうとするのなら、最低限の歴史的な常識と、その時代の背景を知っていなければなりません

  先ずは、天皇記、国記、帝紀、旧辞がどのようなものか調べてみましょう。そして、それらの書籍が誕生した時代的背景を紐解いていきましょう。
帝紀、旧辞、天皇家記、国記を知らずして、古事記と日本書紀を語ることなかれ』です。


3、 記紀の原書(帝紀、旧辞、天皇記、国記)

1) 帝紀と旧辞

  古事記は、帝紀と旧辞(きゅうじ)をベースに編纂された歴史書です。
帝紀とは、天皇家の家系図のことです。そして、旧辞とは、天皇家や各有力氏族に伝わる『国家や氏族の歴史書』のことです。
ただし、公式的には、『旧辞』とは、稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶していた国家の歴史を、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録したものを指しますが、各有力氏族に伝わる家系の歴史も『旧辞』と呼ぶことがあります。

【太安万侶:各氏族の歴史書は自分たちに有利な内容にしており、眉唾ものだな】
7 太安万呂

  太安万侶が『帝紀』『旧辞』を編纂して、各氏族に伝わる歴史書を一緒に、古事記の原稿を34代目元明天皇に献上すると、元明天皇よりクレームがつきました。

【元明天皇:苦労かけたな】
8 元明天皇

「元明天皇君、古事記の草案が仕上がりましたので、献上致します」
「太安万侶よ、ご苦労であった。
ところで、古事記を編纂するにあたり一番苦労したことはなんだ?」
「各氏族の歴史書は、自分たちに都合の良いように作られていて、嘘八百だらけでした。これでは、歴史書としては役に立たないので、私が編纂した『帝紀』と『旧辞』を古事記の骨格に据え、各氏族の歴史書の偏見を取り除いた後に、旧辞』に補足しながら、編纂作業を進めねばならなかったことです。
そのため、古事記の完成が大幅に遅れてしまいました。」


  これは、古事記の序文に書かれていることを、偏見を交えて私流に翻訳したものですので、信用しないで下さい。ちゃんとした古事記の原文は、後で紹介します。


2) 天皇記と国記

  実は、この帝紀と旧辞にも原書があるのです。
それは、天皇記(天皇の系図)と国記(天皇家の歴史)です。その編纂に当たり、各有力氏族に伝わる家系図と歴史書を参考にしました。
 日本書紀の原書も、この天皇記と国記です。重要な書籍ですので、これらの文献の紹介から始めさせて下さい。

  西暦620年に、聖徳太子と蘇我馬子が『天皇記』と『国記』を編纂しました
『天皇記(すみらみことのふみ)』は、皇室の系譜を示した書籍で、『国記(くにつふみ)』は天神家の歴史を記した文献です。

 天皇記と国記は、神代文字は使わず、漢字で書かれていたと推定されます。その理由は、聖徳太子と蘇我馬子は仏教を崇拝していたことと、漢字の伝来前には、各氏族ごとに異なる神代文字を使っていたと推測されるからです。
つまり、ヲシテ文字で書かれたホツマツタヱは、天皇記や国記と同じものではありませんが、そのベースとなったと推測されます。

【聖徳太子 私は漢字を用いる】
9 聖徳太子


3) 氏族ごとに伝わる家系図と旧辞(歴史書)

大和朝廷には、沢山の有力な氏族がいました。主な氏族を書き並べます。
蘇我氏:孝元天皇の孫の武内宿禰の子孫
物部氏:饒速日命【ニニキネの孫】家子孫
三輪氏・大神氏:大物主家(スサノオ・オオナムチ、エビス・高木神の娘の美穂津姫)の子孫
忌部氏・斎部氏:高皇産霊家(豊受大神、高木神)の子孫
中臣氏・藤原家:伊吹戸主(ツキヨミの嫡子)とタナコ姫(市杵島姫神、天照大御神の娘)の三男のウサツヒコの子孫

  それぞれの氏族は、氏族に伝わる家系図や氏族の歴史を引き継いでいきました

  それらの文献に使用された文字は、元来は漢字ではなかったはずです。
それは、漢字は象形文字で複雑すぎるので、日本語を記録するのに適さなかったと考えられるからです。
また、日本で統一された神代文字がなかったので、氏族毎に異なった神代文字が用いられたと推測されます。

  もし、弥生時代に神代文字が存在していたとしたら、三輪家(スサノの末裔)がヲシテ文字(ホツマツタヱ)を用い、高皇産霊家(豊受大神・高木神の末裔)が阿比留文字(甲骨文字)を使用したと推定しています。

【ホツマツタヱ:大物主家の歴史書】
10 ホツマツタヱ


4) 記紀の編纂の際に、ホツマツタヱを参考にしたのか?

  『天皇記』や『国記』は、蘇我氏を贔屓した内容にするため、主に蘇我氏に伝わる家系図や家系史をベースに編纂したと考えられます。但し、『国記』や記紀の編纂の際には、ホツマツタヱ等の有力氏族の歴史書を参考にしたはずです。一からの制作は、聖徳太子と蘇我馬子だけでは、実現するわかがありませんし、古事記の『序文』に参考にした旨の記述があります

 『日本書紀』に、以下の記載があります。
『日本書紀』推古28年の是歳条 :
皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記及び国記、巨連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す
 ここの『巨連伴造国造百八十部』は有力氏族が所有した文献のことなので、この中にホツマツタヱが含まれており、日本書紀は天皇記や国記を原書とし、ホツマツタヱ等の有力氏族の家系史を参考にしました。


  また、古事記の序文には、以下の記載があります。
天武天皇が「朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞(旧辞)は既に正実に違ひ、多に虚偽を加ふ」と言った
つまり、各氏族が自分たちに都合のいいように「帝紀・本辞」書き換えていた、あるいは「帝紀・本辞」には真実が書かれていたとしても、それが皇室にとって都合のよくない事実であった場合は、正実に違い」とか、「虚偽を加ふ」と決めつけたようです。
 この文章を客観的に検証すると。古事記の原書としてではないが、ホツマツタヱも参考されたが、三輪氏を贔屓した文章は訂正されたということになります。

  つまり、ホツマツタヱは記紀の原書ではありませんが、ホツマツタヱを参考にして記紀が作られたと考えても良さそうです。


5) 三輪氏の隆没

  ホツマツタヱの記紀の編纂への貢献度を知るために、ここで少しだけ、ホツマツタヱを編纂した大物主家(三輪氏)について少し深掘りしてみます。

① 大物主家の末裔の大三輪神は大和の三輪山に鎮座し、国土経営の神として知られています。

② 『日本書紀』に、崇神(すじん)天皇の世に疫病が流行して人民の大半が死んだとき、大田田根子を神主にして大物主神を祀ったところ、疫病は止み、国は平らかになりました。
 
③ その後、大三輪逆(さこう)は、第30代敏達(びだつ)天皇の敏達天皇に深く信任され、内外のことを悉(ことごと)く、委(ゆだ)ねられました。

【大三輪逆:亡き敏達天皇后の炊屋姫を陵辱することを阻んでやる】
11 大三輪逆

 大三輪逆は神道の祭祀に傾倒していたので、物部(もののべ)氏や中臣(なかとみ)氏らと組んで、仏法を滅ぼそうと謀り、寺塔を焼き仏像を捨てました。
縄文系の顔立ちの物部守谷と徒党を組みましたが、敏達天皇の逝去後、敏達天皇にとても可愛がられていた大三輪逆は、皇位を望む穴穂部皇子や炊屋姫(後の推古天皇)、物部守屋、蘇我馬子に妬まれ、物部守屋に殺されてしまいました。こうして、三輪氏は一時的に勢力を失います。

【物部守屋:仏教は絶対に認めない。尼は身ぐるみ剥がして鞭でたたいてやる】
12 物部守屋

④ その後、蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害すると、西暦587年に丁未の乱(ていびのらん)が起こり、仏法を崇拝する蘇我氏・聖徳太子軍と廃仏派の物部守屋軍が戦い、蘇我氏が勝利し、物部氏は滅亡します。

【蘇我馬子:物部氏を滅ぼし、今や天下は私のものだ】
13 蘇我馬子

  蘇我馬子は、敏達天皇の後、用明天皇を即位させましたが、用明天皇は在位2年で目立った業績もなく逝去します。蘇我馬子は崇峻天皇を即位させましたが、殺害します。そして、蘇我馬子の姪で、敏達天皇の妃(異母妹)の炊屋姫を天皇に据え、推古天皇にしました。

【用明天皇:表立って動かないのが賢明だ】
14 用明天皇

【推古天皇:叔父さんの蘇我馬子の指示で国造りを進めるわ】
15 推古天皇

⑤ その後、三輪 高市麻呂(みわ の たけちまろ)は、天武天皇に加担し、壬申の乱における活躍が認められ、西暦684年に11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となりました

【三輪 高市麻呂:壬申の乱で天武天皇に加担し、権力を得た】
16 三輪 高市麻呂

⑥ 日本書紀の話に戻りますが、飛鳥時代の後半期の朝廷では、三輪 高市麻呂は氏族として最高位でしたので、日本書紀の編纂の際には、三輪氏の影響力は大きかったはずです。
その半面、聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』と『国記』は、三輪氏の権勢が振るわなかった時代の書籍ですので、三輪氏の影響の温度差はあったはずです。
 何れにせよ、参考にする書籍が何もないのでは、歴史書や家系図を作成することはできないので、各氏族に伝わる歴史書を参考にして(一部を真似て)、天皇記と国記を編纂しました。このことは、古事記の序文からも明らかです。


6) 焼失した天皇記と紛失した国記

  西暦645年(皇極4年)の乙巳(いっし)の変の際に、蘇我蝦夷が邸宅に火を放って、『天皇記』は焼かれたとされています。
  しかし、『国記』は燃失する前に戦火の中から持ち出されたそうですが、その焼け残った国記の原文やその複写は、現存していないとのことです。どうなったかは、闇の中です。
以下の『日本書紀』の文章は、『国記』を焼ける前に持ち出したという下りです。

『日本書紀』皇極4年6月条 :
蘇我蝦夷等誅されむとして、悉(ふつく)に天皇記・国記・珍宝を焼く、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る

 今となっては、『天皇記』も『国記』も、どのようなものだったか分かりません。戦乱の中で焼失したとされていますが、中大兄皇子と中臣鎌足に都合の悪い書籍だったので、炎書された可能性があります。


7) 帝紀、旧辞

  『天皇記』は焼失し、『国記』も行方不明になってしまったので、天武天皇の命で、稗田阿礼が記憶していた『天皇記』と『国記』を基に、太 安万侶(おお の やすまろ)が、『帝紀』と『旧辞』を制作し、それをベースに『日本書紀』を編纂したとされています。
つまり、蘇我氏に有利な内容の『天皇記』も『国記』を、藤原氏に有利な『帝紀』と『旧辞』に書き換え、それを原書として「古事記」を編纂したことになります。


8) 古事記と日本書紀の相違点

 それにしても、古事記と日本書紀の記述内容の相違は気になりますね。

 古事記は西暦712年、日本書紀は西暦720年に世に出ましたので、この時差はたったの8年だけです。
それに、両方共、ベースとなった資料は、西暦620年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したと言われる『天皇記(すみらみことのふみ):皇室の系譜』と『国記(くにつふみ):歴史』です。
蘇我入鹿を葬った乙巳の変で、『国記』は焼け残り、『天皇記』は稗田阿礼が暗記していたので、古事記の編纂に用いられました。

【乙巳の変】
17 乙巳の変

 ここで、幾つかの疑問が出てきますね!
 ①  『国記』は焼け残り、中大兄皇子に届けられたのに、何故、残存しないのでしょうか?

 ②  『天皇記』も『国記』も漢字で書かれていたとされていますが、制作時期が8年しかずれていないのに、何故、古事記と日本書紀に使われている天神七代の神々の名前や、その漢字が異なるのでしょうか?

 ③  また、天神七代は欠史八代のように、記紀には天神のプロフィールが記載されていないのは何故でしょうか?これらの理由を、皆さんで考えてみて下さい。

  一つ言えることは、古事記か日本書紀の記述のどちらかが誤っているか、あるいは、両方共誤っているかのどちらかです。
ただ、歴代の天皇の寿命を100歳以上としていることより、寿命の謎が解けない限りは、両方の記述共、間違えているということになります。
  2倍歴(1年を2年と換算する:二期作の考え方)の採用を検討するとか、正確な西暦への換算方法を見つけ出し、記紀やホツマツタヱの暦を適切なものにすることが肝要だと思います。

  また、乙巳の変で『天皇記』も『国記』が焼けてしまったということになっていますが、秦の始皇帝のように意図的に焚書したのかもしれません。天皇家や藤原摂関家にとって都合の悪い部分を消し去ったとも考えられます

 ただ、制作の経緯を考えると、古事記には蘇我氏の記憶の片鱗が残っていて、日本書紀は藤原摂関家有利に歴史が塗り替えられていると、考えられます。そして、古事記の原文は、ホツマツタヱ同様、残されていません。

18 古事記


9)  『天皇記』も『国記』に用いられた文字?

  『日本書紀』には、『天皇記』や『国記』が、どの文字で書かれていたかが、記載されていないので、分かりません。
しかし、仏教崇拝の時代になっていたこと、また、記紀の編纂に百済からの渡来人が関わっていたことより、漢字が用いられていたのは間違いありません。


10) 纏め

  古事記の原書は『帝紀(天皇系図)』と『旧辞(天皇家の歴史)』ですが、ホツマツタヱはよく出来た歴史書だったので、それを藤原家よりの内容に書き換え、帝紀と旧辞を編纂したことが考えられます。この根拠は、古事記の序文です。

  そして、日本書紀の原書は『天皇記』と『旧辞』ですが、日本書紀の編纂時期には藤原家と三輪氏が権勢を誇っていたので、ホツマツタヱは参考にされたはずです。
天皇記と国記は蘇我氏に有利な内容でしたので、天皇記と国記をベースとして編纂された帝紀と旧辞は、藤原摂関家寄りの内容になりました。

  ホツマツタヱも古事記の編纂の際に用いられたと考えられます。しかし、蘇我氏以降、仏教が崇拝され、漢字が国字となったので、三輪氏は国書にヲシホ文字を用いるのを諦めたと思われます。

また、ホツマツタヱが日本書紀のベースとして用いられたとしても、藤原摂関家に有利な内容に書き直されていたはずです。

19 日本書紀



3、 天神七代

  『文字の裏に隠された真実を追求してみましょう。そして、これまで常識だと思っていたことが、実は錯覚だったり、故意に誘導するための催眠術だったと知ることができるでしょう。
 さて、天神七代とは、国常立からイサナギ・イサナミまでの7代に渡る天皇(天神)のことです。

1) ホツマツタヱと記紀のどちらを信じればいいの?

結論:検証をするには、ホツマツタヱを参考にするしかありません
 
  天神七代(あめかみななよ)は、神世七代(かみのよななよ)とも呼びますが、同じ意味なので、ここでは天神七代と呼ばせて頂きます。
先ずは、公正を期すために、古事記と日本書紀、ホツマツタヱの天神七代の神々を比較してみます。

20 天神七代

 3つの文献の相違は、①古事記に国狭槌(くにさっち)が入っていない点と、②ホツマツタヱでは天神五代の『つのくゐ』・『いくくい』の別名が『おおとのち』・『おおとまえ』となっていて同一の神様なのですが、記紀ではそれぞれ別の神様になっているところです。どの文献が正しいのかは、決定的な証拠がありませんので、判断することはできません。

 何れにせよ、古事記と日本書紀は、神世七代の登場人物(神)の説明が殆ど無いので、参考にできません。
 それに対して、ホツマツタヱにはそれぞれの神様に纏わる逸話が記載されています

  例えば、ホツマツタヱには、『つのくゐ』が『いくくい』を見初めてプロポーズをした逸話から、『おおとのち』と『おおとまえ』の別名(ニックネーム)が付けられたことが記載されています。つまり、『つのくゐ』が『いくくい』の件に関しては、ホツマツタヱも記紀の内容は、大同小異であることが分かります。

 そして、国狭槌に関しては、古事記だけが抜いているので、ホツマツタヱの記述をベースに検証し、仮に、国狭槌は存在しなかったという証拠が出たとしても、その部分だけ抹消すれば事足ります。
 何れにせよ、記紀には神々の逸話が記載されていないので、ホツマツタヱをベースに検証を進めるしか、選択肢がありません


2) 国常立と国狭槌

  天神一代の国常立(くにとこたち)が誰かは、いろいろな意見があります。
この国が、日本国内だとする人もいれば、中国だという人もいます。
ただ、天神二代の8人の国狭槌(くにさっち)が、北、北東、東、東南、南、南西、西、北西に国を分割して統治したとされており、その国々が更に5国ずつに分割された、あるいは拡張したと書かれています。
紀元前2000年頃の話ですので、日本は人口が少なく、特に鬼界カルデラ噴火の影響を受けた九州や近畿地方は、人口が2000名位しかいませんでした。これでは、国の規模ではありません。
 そのように考えると、国常立の国は大国の中国だと考えられます

 そこで、私は、国常立は中国を統一した黄帝であり、思想的には夏王朝の帝禹だと考えています。

【黄帝】
21 黄帝


  黄帝の子孫が、夏、商(殷)、周、秦、斉等となり、夏王朝から越が、周から呉や楚が、呉から倭が分岐しました。倭は、この流れの末流です。

22 黄帝勢力図

 ホツマツタヱの国狭槌(くにさっち)の説明から、国常立は黄帝で、国狭槌は、夏、商、周、秦、斉、越、呉、楚、倭等の国々であったと推測しています。これらの国々の王の血統が、新羅だと、聖骨と呼ばれました。倭国の奴国も、国狭槌のひとつです。


3) トヨクンヌ

 日本には、呉王夫差の末裔が倭人となり倭国に移住し、水耕栽培と青銅器の鋳造技術を伝えたと考えています倭国と呼ばれた国の中心は奴国でした。
その後、春秋の呉王の血を引く天皇家の祖先が西暦100年頃に、日本に渡来し、倭国の王の座を奴国から禅譲して貰います。この渡来した天皇家の祖先が、トヨクンヌであったと考えています。
 天皇家の祖先は、先ず、福岡県の香春で銅山の開発と金属業(鋳造業)に従事し、安曇族と協力して、大陸との鉄の道を抑えます。『鉄の道を征するものは、天下を征する』時代でした。

23 香春神社

 なお、天神家、安曇族、宗像族、住吉家の関係については、将来、論じる機会があれば、そこで、話したいと考えています。


4)  ウビチニ・スビチ

  天神四代のウビチニとスビチの都は、英彦山の北の地域にあり、福岡県の直方から宗像にかかる地域に都を構えたと推測されます。

24 ウビチニ


  今回は、ここまでとします。

  古事記と日本書紀の生い立ちと、ホツマツタヱとの関わり合いを理解して頂ければ、『記紀の原書はホツマツタヱだ』という説の解答は、ご自身で引き出すことができます。

私も仮説を立てましたが、当たらずしても、遠からずだと思っています。

  また、ここでは、倭国の建国と鉄の道に関して、頭の片隅に置いて頂ければ、十分です。


  さて、天神六代のオモタルとカシコネまでの話は、次回のブログに回します。
 

邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶

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コメント

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No title

歴史書がひとつにまとまる時がやってくるのでょうか。
意識変化は過去の失敗や反省から多くを学べるんだと思います。
栄華を知ること、誇ることだけでは、
傲慢になるばかりでホツマの道は進んでいけない気がします。

ひとつ提案なのですが、
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歴史カテゴリの中には、古代史・日本史・神話などがあります。
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これだけ内容が充実してきたら
もっといろいろな人に読んで頂けたらいいのにね~、、と思いました。
なんかもったいないです。