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XIX 天神七世のお嫁さん

 今回のブログでは、『独り神』の説明と、天神四代のウビチニ・スビチから、天神六代のオモタル・カシコネまでの話をします。
ウビチニ・スビチの雛祭りの話はホツマツタエにしか書かれておらず、特に雛祭りの起源の話は、スクナヒコが世に広めていきました。

スビチ1 ウビチニ 

 さて、前回のブログで、『ホツマツタエは、記紀の原書ではないが、大物主家に伝わる優れた歴史書で、記紀の編纂の際に用いられた』ということを話しました。
 また、天神一代の国常立は黄帝のことで、天神二代のクニサッチは皇帝の子孫で、夏、商(殷)、周、秦、呉、越、倭等の王のことで、天神三代の倭王のトヨクンヌは天皇家の始祖だと話しました。

 今回は、その続きの天神四代のウビチニとスビチの話をします。
先ずは、ウビチニとスビチの時代から始まった皇室の婚姻制度の説明をします。
また、倭国と新羅の皇室の婚姻制度の類似性から、朝鮮半島における倭国と朝鮮諸国との関わり合いの話をします。



1、 独り神と夫婦神
1) ウビチニとスビチ

 天神四代のウビチニとスビチ后の前の世代までの天神は、『独り神』と呼ばれ、妻を持たない独身男神でした。この独身神を、古事記では『独り神』、日本書紀では『純男』と呼びます。

 『独り神』という文字を初めて目にしたとき、妻がいないのに、どうやって世継ぎを儲けたのだろう?と奇異に感じ、また、当時の天神家の婚姻制度がどうなっているのか理解できませんでした。
 そこで、色々調べてみましたが、謎は益々深まるばかりです。解答はどこにも書かれていなかったので、自分で謎解きをしてみました。

それでは、先ずは、ホツマツタエの関連する場所を抜き出してみましょう!

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『Ⅱ アメナナヨ トコミコノアヤ』
第二の綾 天七世 床神酒の綾

『カミハモフソノ ミコアリテ アメナルミチハ メモアラス ミツヨヲサマル』
君には沢山の御子がいますが、世の中に妻を娶るという婚姻制度が無く、天神三代までは、『独りの君』が治めていた。

『ヨツギノヲカミ ウビチニノ スビチオイルル サヒアイノ ソノモトオリハ』
世継ぎの男君のスビチニ尊がスビチ尊を、妻として迎い入れたおめでたい話の経緯は次のとおりだ。

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 ホツマツタエでは、『独り神』のことを、『妻がいない男神』と表現しています。ちょっと素っ気ないですね。


 また、夫婦のコンビで、天神となっている場合の呼び方は『夫婦神』というのですが、古事記では、イサナギとイサナミを夫婦神の例としてあげています。



2) 聖徳太子の時代の婚姻制度

 ウビチニ・スビチに関しては、割と詳しく書かれているホツマツタエでも、后のスビチの家系図は記載されていません。
また、男神の天照大御神には妃が13人いますが、彼女らの実家の家系図も、数人を除き、分かりません。どうやら、天神七世の頃の天神家の婚姻制度を調べる資料がないようです。

 そこで、時代は新しくなりますが、聖徳太子の頃の皇室の婚姻制度を調べてみます。もしかしたら、天神七世の婚姻制度の片鱗が残されているかもしれません。

 これは、聖徳太子の頃の皇室の系図です。この婚姻関係を説明していきます。

系図2 天神七世 



3) 摂関家から姉妹でお輿入れ

 蘇我稲目は、娘の堅塩姫(姉)と小姉姫(妹)を欽明天皇に嫁がせました。
蘇我稲目の子どもが、推古天皇の時代に権勢を掌握した蘇我馬子で、堅塩姫と小姉姫は蘇我馬子の兄妹です。

 このように、摂関家が、自分の娘を姉妹で王に嫁がせる慣行は、太古の中国からありました。
例えば、夏王朝の帝少康は、夏王朝の復興の立役者となった有力豪族の娘姉妹を后にしました。
この制度は、古代の中国では、一般的な婚姻慣行でした。


 また、日本でも、ホツマツタエによると、男神の天照大御神が皇室を設立したとき、12人の妃を娶りました。そして、妃たちを東西南北の四つの局に3人ずつ配しましたが、各局には、有力豪族から2人ずつの姉妹を迎え入れています。

 こうしたことより、天皇・天神は、皇族、皇国の創建や天皇の擁立の立役者となった有力豪族の娘を、姉妹で妃として娶ったことが分かります。

 これは、姉が夭折したり、嫡男が授からなかった場合に、実家の有力豪族の血流を天皇家の血脈から絶やさないための措置です。
この古来から引き継がれてきた婚姻の慣習が、大和政権にも引き継がれたようです。



4) 近親相姦

 それでは、もう一度、『聖徳太子の系図』をご覧ください。

系図2 天神七世 

 蘇我稲目の娘の堅塩姫(姉)と小姉姫(妹)は、欽明天皇の妃になりました。
姉の堅塩姫は用明天皇と炊屋姫(推古天皇)を生み、妹の小姉姫は穴穂部皇女と穴穂部皇子を生みました
 そして、欽明天皇の子どもの用明天皇と炊屋姫が、兄妹で結婚しました
別腹とはいえ、二人の母親は実の姉妹です。

 そして、用明天皇と穴穂部皇女の兄妹が儲けたのが、あの聖徳太子です。

系図3 聖徳太子 

 話は変わりますが、欽明天皇の后は石姫皇女といいますが、石姫天皇の父は宣化天皇で、母は橘仲皇女(第24代仁賢天皇の皇女)です。父も母も天皇家の血脈ですので、の天皇の純粋の天皇家の血脈です。

 この石姫皇女と欽明天皇の皇子が敏達天皇ですが、敏達天皇は後に推古天皇となる炊屋姫を后とします。
炊屋姫も欽明天皇の娘なので、敏達天皇と炊屋姫は、異母兄妹です。
これは近親相姦ですね。
 これから分かるように、古代天皇家では、異母兄妹の婚姻は一般的で、それが天皇になるための必要不可欠な資格だったようです。


 それでは、天皇が逝去した場合の、皇后(皇女)はどうなるのでしょうか?

 この場合、天皇の父、兄弟、母親が異なる子どもと再婚するのが、慣例だったようです。


第九代天神のヲシホミミが逝去すると、后の栲機千々(たくはたちち)姫は義理の父の天照大御神に仕え、夫婦の道を学びます。


 話は変わりますが、敏達天皇が逝去すると、穴穂部皇子が、敏達天皇の后だった炊屋姫を犯し、自分が天皇になろうとしました
穴穂部皇子と炊屋姫は異母兄妹ですが、穴穂部皇子は天皇の座を得ようとして、近親相姦の略奪愛を試みたのです。

7 炊屋姫

 この時、敏達天皇に可愛がられた三輪逆(大物主家)が、この近親相姦を未然に防ぎました。
すると、穴穂部皇子は三輪逆を恨み、物部守屋(饒速日命の子孫)に殺させました。
 貞操観念で一杯の三輪逆は、レイプを阻止した罪を問われ、命を落としました。

 この当時は、天皇になるための必要不可欠条件として、自分も天皇家の血脈で、やはり天皇家の血脈の女性を妻にせねばならなかったことが分かります。
また、炊屋姫は蘇我氏の血を引いているので、物部氏派の穴穂部皇子としては、炊屋姫を自分のものにできれば、蘇我氏を牛耳ることができると考えたのでしょう。

 それにしても、皇后の貞操よりも、跡目争いの方を重視するなんて、とんでもないことですね。
この炊屋姫は再婚をせずに、後に即位し、推古天皇となりました。

8 三輪逆


 その後、蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害し、物部守屋を滅ぼしました。
こうして、物部氏の時代から、蘇我氏に推移しました。

 聖徳太子の時代には、天皇になる資格があるのは、天皇家と蘇我家(摂関家)の血筋を引いている皇族だけになりました。
摂関家が力を持ったのは、この婚姻制度によるものです。
その後、摂関家の座は、乙巳(いっし)の変(大化の改新)以降、蘇我氏から藤原家に移っていきます。



5) 新羅の歴史

 次に、隣国の新羅の善徳女王の王宮と聖徳太子の皇宮の婚姻制度を比較してみます。
これは、時代がほぼ同じであり、倭国が朝鮮大陸に拠点をもっていた時代のことですので、参考になると思うからです。

 朝鮮の歴史ですが、檀君朝鮮(神話)、箕子朝鮮(きしちょうせん)の後に、三韓時代になりました。
三韓とは、馬韓国、辰韓国、弁韓国です。

9 三韓地図

 先ずは、新羅にスポットライトを当ててみます。

馬韓が、三韓の中で、最初に建国しました。
そして、秦の始皇帝の時代に、万里の長城の建設に労役に駆り出された王族や民衆が、朝鮮に亡命しました。
すると、馬韓は東方の地を亡命者たちに割譲し、譲り受けた地が辰韓となりました。
それで、辰韓の民たちは、秦語を話しました。


 当初、辰韓は6ヶ国でしたが、更に難民を受け入れ、斯蘆(しろ)国等の新たな小国が増え、12ヶ国になりました。
その中で、『朴赫居世(ぱく かくきょせい)』が建国した斯蘆国が、西暦356年に辰韓を統一しました。そして、斯蘆国が国名を新羅に公式に改めたのは、西暦504年のことです。
 新羅の前身の斯蘆(しろ)国の建国は、紀元前57年としていますが、この時代の史書の信憑性は低く信用できないので、当時の歴代王の平均在位年数(約12年強)で計算すると、『赫居世』の即位(斯蘆国の建国)は西暦200年前後だと推測されます。

10 新羅初代王

 古代の朝鮮の歴史を綴った史書に、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した朝鮮半島最古の『三国史記』(さんごくしき 西暦1145年完成)と、12世紀に完成した眉唾物の『三国遺事』があります。
記紀が8世紀初頭に変遷されましたので、朝鮮の国史が世に出たのは、記紀の4世紀後のことでした。
 
 『三国遺事』の記載内容で信用できるのは、新羅17代王(在位:356年 - 402年)の奈勿尼師今(なこつ にしきん)からの話で、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実ではないとされています。

 この『三国遺事』や『三国遺事』によると、
『中国の帝室の娘 娑蘇(しゃそ)夫人が、中国から辰韓にたどり着き、朴 赫居世居西干(かく きょせい)と閼英(あつえい)を生んだ。そして、赫居世と閼英は兄妹で結婚し、斯蘆国(徐羅伐 そらぼる)を建国した』
と、書かれています。

 
 この故事より、以下のことが分かります。

『後漢の最後の献帝の皇女の娑蘇皇女が、慶州に渡来し、赫居世と閼英を生み赫居世と閼英を儲けました。
そして、兄妹は結婚して、赫居世を生みました。
赫居世が、西暦200年前後に徐羅伐(そらぼ)を建国すると、『朴』氏が王になりました。
徐羅伐は斯蘆国とことです』


 この関連故事を下に掲載しましたので、興味があれば、ご覧下さい。

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『三国遺事』巻五「感通第七」条には以下の記述があります。
神母本中國帝室之女。名娑蘇。父皇寄書繫足云。隨鳶所止為家。蘇得書放鳶。飛到此山而止。遂來宅為地仙。故名西鳶山。

〈神母の名は娑蘇とよばれ、彼女は中国の帝室の娘である。
父の皇帝が鳶の足に手紙をむすびつけて「鳶が止まるところに家を作って住みなさい」と伝えた。
娑蘇が手紙を読んでから鳶を放ったところ、仙桃山(慶州の西岳)に飛んでいってそこに止まった。〉

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『三国遺事』巻五「感通第七」条には以下の記述があります。

其始到辰韓也。生聖子為東國始君。蓋赫居 閼英二聖之所自也。

〈(娑蘇は)はじめ辰韓にきて、聖子を生み、東国の最初の王となった。
たぶん、赫居世と閼英の二聖を生んだことであろう。〉

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 この時期は、後漢の末期の献帝の時代で、皇帝の権威が弱小化していましたが、朝鮮諸国は後漢の血脈を国の頭に据えようと望んだと考えられます。



 それで、二代の南解王の娘婿の『昔脫解』を王族として迎え入れ、第四代王に据えました
ここで、『昔』氏が王族に加わりました
。昔氏は丹後生まれという説があり、当時は朝鮮列島で倭族が幅を利かせていたので、昔氏は倭国の出身かもしれません。


 丁度その頃、倭人の瓢公は『金閼智(きん あっち)』を育てましたが、『昔脫解』が、その金閼智を評価し、『斯蘆国』の王族に向かえ入れましたとされています

 こうして、朴氏、昔氏、金氏が新羅の王族となり、新羅の骨品制度(身分制度)を形作りました。
そして、斯蘆国の奈勿尼師今が、辰韓を統一し、西暦503年に公式な国名を新羅としました。



6) 新羅の骨品制度(身分制度)

 新羅の身分制度と結婚制度を説明します。

 新羅には『骨品制度』があり、両親が共に、純粋な王族(朴・昔・金)の場合のみ『聖骨(そんごる)』と呼ばれる身分になり、王になる資格を得ました。そして、両親のどちらか片方が王族の場合には『真骨(ちんごる)』といい、王にはなれませんが、聖骨に次ぐ地位につくことができました。



 三族は交代で斯蘆王になりましたが、『金閼智』の6代孫の『味鄒泥師今(第13代)』は斯蘆王となり、西暦356年に弁韓を統一しました。

 また、金氏が新羅王を継ぐようになりました。
 『味鄒泥師今』の母は『朴伊柒』の娘朴氏で、妃は『光明夫人昔氏』です。先代の沾解王が息子に恵まれず逝去したので、貴族会議で、大臣たちの推戴により『味鄒泥師今』が王になりました。


 新羅の骨品制度は、聖徳太子の時代の天皇家の婚姻制度と類似していますので、新羅王の系図は日本の婚姻制度を理解するのに役立ちそうです。



7) 新羅27代 善徳女王

 韓流大河ドラマの『善徳女王』は、韓国で瞬間最高視聴率49.9%の視聴率をたたき出した大ヒット作品で、非常に面白いので、一度ご覧ください。

12善徳女王 表紙 


新羅の身分制度や婚姻制度が良く理解できます。

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 善徳(そんどく)女王の名は『金 徳曼』で、第26代の『金 真平』王の娘です。
聖骨の男子が全ていなくなったので、新羅初の女王になりました。善徳女王は賢く、優れた政治家でしたので、善徳女王の後継も女王がなりました。

13 トンマン

 そして、第29代の王は『金 春秋』で、善徳女王の姉の息子です。
父が聖骨ではなかったため、身分は『真骨』でしたが、『聖骨』の血が途絶えてしまったので、新羅で初めての『真骨』の新羅王となりました。

14 金春秋



 それでは、善徳女王の系図を示します。

15 善徳女王 系図


 このグチャグチャした婚姻関係を説明するのは難しいのですが、頑張って、説明します。

 一番上の写真の『チヌン大帝』には、長男のトンニュン(写真無し)と次男のクンニュンがいました。
トンニュンは聖骨でしたが、クンニュンは真骨でしたので、どうやら、母が真骨だったのかもしれません。

  そして、チヌン大帝の長男のトンニュンが夭折したので、トンニュンの子のチンピョンが第26代王になり、聖骨のマヤ王妃と結婚しました

 これも血族結婚ですね。倭国も新羅も親近相姦の宝庫です。


 その後、チンピョンとマヤ王妃には、3人の息子と2人の娘(二子)ができましたが、3人の息子は夭折してしまい、聖骨の子どもはチョンミョンとトンマン(善徳女王)だけとなりました。

17 両親と二子



 チャンミョンは真骨のヨンスとの間に金春秋(チュンチュ)を儲けました。その後、ヨンスが戦死すると、黄帝の末裔のキム・ユシンとの政略結婚を進めましたが、殺害されてしまいます。
それで、聖骨で、生き残ったトンマンが善徳女王になりました



 ややっこしいのは、トンマンの政敵で権力者の『ミシル』の存在です。

18 ミシル

 ミシルは真骨で、チヌン大帝の側室でしたが、チヌン大帝が逝去すると、チヌン大帝の次男のクンニュンと再婚しました。

19 クンニョン ミシル

 ところが、クンニュンはミシルを后ではなく側室にしようとした為、ミシルは怒り心頭で、クンニュンを王座につけることに反対し、クンクニョンとの子どもを捨ててしまいました。
こうして、チヌン大帝の孫のチョンピョンが王座につきました。


 その後、ミシルは、『将来、王室に聖骨が絶え、真骨が王になる』ことを見越し、真骨のセジョンを夫にし、また、軍事を掌握するため、大将軍のソジョンを情夫にしました。
ミシルは、チヌン大帝、クンニョン、セジョン、ソジョンを、次々と夫にしていきました。


 そして、ミシルが皇后の座につくのに支障となる聖骨のチャンミョンとトンマン姉妹を、失脚させようとします。

20 トンマン姉妹

姉のチョンミョンは毒矢で殺害されましたが、トンマンはミシルに打ち勝ち、女王となりました。


 聖徳太子の系図と善徳女王の系図は、相通じるところがありそうです。
共通するところは、以下の通り。

① 王家の正統な血脈同士、あるいは摂関家との血脈でなければ、王になることはできない(純血主義)

② 姉妹で輿入れ

③ 王の妃は王が逝去すると、妃は、王の兄弟か、息子と再婚する

④ 男子が王になるが、男子が途切れた場合には、女性が王になることができる


 それにしても、どこの皇室も、江戸城の大奥のみたいに、ドロドロしていますね。



7) 倭国と三韓との関係

 馬韓は城壁が無く、馬がいないので、奴国と似ています。これは、春秋時代の呉が滅びて海に逃れて倭人となり、呉の亡国の王族が馬韓や日本に来たと考えられます。

 そして、漢が勢力を拡大する際に、馬韓の倭人勢力が押し出され南下し、日本の倭人と合流したと考えられます。合併した国が、倭国となりました。そして、九州の倭人と徐福の末裔が合併した国が倭国の諸国の奴国だと考えられます。

 つまり、
倭国は、朝鮮半島南岸から、海を挟んだ九州北部に至るまでの壮大な国で、朝鮮半島側を狗耶韓国と呼び、九州北部を面土国と呼んだ
のだと推測されます。



 次に、弁韓の話をします。

 朝鮮南部にある弁韓(紀元前2世紀~4世紀頃)は12ヶ国で構成されており、その中に『弁韓狗耶国』があります。
そして、魏志倭人伝には、朝鮮半島南岸に『狗耶韓国』(慶尚南道金海市)という名の倭国の領土があると書かれており、この地域から弥生式土器が出土しています。
『狗耶韓国』は後に『金官国』とも呼ばれます。

 弁韓の中で倭国の支配地域が任那で、加羅(伽耶)諸国は倭に従属した国家でした。

 その後、弁韓の西側諸国は倭から百済へ割譲或いは武力併合され、東側諸国は新羅により滅ぼされました。このころは、倭国の勢力は絶大でした。
高句麗の広開土王碑によると、西暦391年に、倭国は新羅や百済や加羅を臣民としたと書かれています。

そして、倭軍は393年に新羅の王都を包囲しました。364年に神功皇后の遠征もありました。

 しかし、西暦512年に4県を倭国が百済へ割譲し、西暦532年には新羅に申請し、南部を服属させました。
そして、金官国が新羅に滅ぼされると、また562年には洛東江流域の任那諸国を新羅が滅ぼした。

この時代までは、朝鮮半島南部における倭国の存在感は絶大でしたが、西暦663年の白村江の戦いで、倭軍・高句麗・新羅連合が、唐・新羅連合に大敗した以降は、朝鮮から倭国は撤退し、また、倭国は遣唐使を遣るようになりました。

21 白村江


 最後に、辰韓の創始者のプロフィールを簡単に話します。
既に、上段で説明しましたように、新羅の建国者の『朴赫居世』の母は後漢出身です。

朴22 新羅初代王 


そして、4代王の『昔脫解』は倭国の出身だと考えられます。それは、倭国が兵を頻繁にこの地域を攻めていたので、倭国との連携が必要不可欠でした。昔脫解を王室に入れることにより、倭国との連携強化を図ったと考えられます。

23 昔 新羅


 また、『金閼智(きん あっち)』は、漢の武帝の功臣の金 日磾(きん じつてい)の子孫だという説があります。漢が朝鮮を支配しており、また、朝鮮には匈奴の侵略がありました。そこで、匈奴出身の漢の将軍の金 日磾の子孫を迎え入れることにより、匈奴と漢との友好関係を樹立しようとしたと思われます。
ただし、金閼智は倭人の瓢公に育てられたと伝えられているので、もしかしたら、日本で育った可能性があります。

24  新羅 宝


 新羅13代の味鄒泥師今は、慶州金氏の始祖金閼智6代孫です。母は朴伊柒の娘朴氏。妃は光明夫人昔氏ですが、沾解王が息子無しに死んだため、大臣たちの推戴で王になりました。金氏としては2番目の王ですが、以降に金氏の子孫が王位を引き続きます。
 なお、新羅第17代の奈勿王(在位 356~402)は、倭国との戦いを有利に進めました。


 ところで、ホツマツタエではアマテル(天照大御神)が卵から生まれますが、『朴赫居世』も卵から生まれており、卵誕生伝説が共通しているので、同じ文化圏に属すと考えてもよさそうです。

 このように考えると、天照大御神の時代の婚姻制度は、聖徳太子の時代や新羅の婚姻制度と類似していると考えても間違いないと思います。



8) 独り神・夫婦神とは

 聖徳太子の時代、新羅の善徳女王の時代の婚姻制度を調べた限りでは、
『夫婦神』とは天神(天皇)も后も、天皇家と摂関家の純粋な血を引いていることで、新羅では『聖骨』と呼ばれる身分の王(天皇)夫婦
に相当します。

 それに対して、『独り神』とは、天神家の婚姻制度が確立する前に、天皇家の血脈でない妃を娶った天神のことをいいます。


 これが、『独り神』と『夫婦神』に関する私の推理です。この仮定にたち、話を進めていきます。



2、第四代ウビチニ・スビチ

 ウビチニ・スビチといえば、夫婦神の始まりとされる天神4代です。
この時から、夫婦一体で、天神と呼ばれるようになりました。

 ホツマツタエの出だしの部分は、以下の通りです。

『世継ぎの男君のウビチニがスビチを妻として迎え入れた。
コシの国のヒナル岳の神功に木の実を持って御子がお生まれになったので、その木の実を庭に植えておくと、三年後の三月三日に花も実も、百についたので、桃の花と名付けた。この二尊の名はモモヒナギとモモヒナミである』


24 ウビチニ

その後、結婚すると、ウビチニ・スビチと名を改めます。

 そして、『床御酒』『床入れ』『桃の節句』『宮中の装束』の話が展開されます。これは、『結婚の儀』・『婚姻制度』
を説明したものですが、聖徳太子の時代の婚姻制度と同じだとすると、ウビチニとスビチは兄妹だったことが考えられます。

 この話は、小説『邪馬台国ラプソディ』の書きましたので、そちらをご覧いただければ、とても興味深く感じると思います。
ホツマツタエの良さの一つはは、言葉や習慣・仕来りの起源を、説明してあることです。


3、オオトノチ・オオトマエ

 五代目の君は、オオトノチとオオトマエですが、二人の名前は、ツノクヰとイククイ尊です。

≪ツノクヰ尊は大殿にいて、イククイ尊を大殿の前に招き、見合いをして、妻にした。
故に、男君は『トノ』と、女君を『マエ』と、末永く呼ばれるようになった≫

と、ホツマツタエに書かれています。

 これだけの話しか書かれていませんが、天皇の女性の趣向も考慮されるようになったみたいですね。




4、オモタル・カシコネ

≪六代目オモタル尊は、妻のカシコネ尊と多くの地を巡って、民を治め、ヲウミアツミを国の中心として定めた。東はヤマトヒタカミ、西はツキスミも、南はアワ・ソサ、北はネのシラヤマモト、ヤマトホソホコ・チタル国まで治世が及んだが、長い間、オモタル尊には世継ぎもなく、決まりも守られなくなり、秩序がなくなりました≫
と、ホツマツタエに書かれています。

 オモタルとカシコネは都をヲウミのアツミに都をおきました。
それでは、ヲウミのアツミとは何処でしょうか?

 『ヲウミ』は、縄文海進のように海面が上がり、汽水域(海水と淡水が混じった水域)のことで、『アツミ』は安曇族の支配地だとすると、ヲウミアツミの候補地の一つは、
福岡県福岡市東区粕谷近辺です。

 そして、『ツキスミ』は福岡県福岡市月隅、『ヒタカミ』は大分県日田市、
シラヤマモトは福岡県宗像市シラヤマ(宗像族の山城がある場所)、
ホソホコ・チタルは山陰地方

かな、
と推測しています。
アワ・ソサの場所の比定もできていますが、確証がないので、ここには記載しません。

 この時代は、通信網も交通網も発達していませんでしたので、日本全国をオモタル・カシコネの時代の領土とするのは不合理です。
都は大陸との貿易に適切な場所だったと思いますので、九州が有力候補地で、大和や東北地方と考えるのは、整合性がとれません。

こうした前提で、場所の比定をしてみました。

そして、オモタルとカシコネは嫡子に恵まれなかったので、世が乱れたとされているので、これは、倭国大乱のことだと思います。この時代は不作で、多くの倭人が朝鮮に避難しましたし、中国では黄巾の乱が勃発したころの話です。


 小説『邪馬台国ラプソディ』では、、興味深く、この経緯を書いています。



 さて、イサナギ・イサナミの前の世代までの話をしました。
次回は、イサナギとイサナミの話をします。



『邪馬台国ラプソディ』 著者
川鍋 光慶

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