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XXⅡ ご両尊のご先祖様

  第19話で、天神6代のオモタル・カシコネが武力で制圧した領土の話をしましたが、今回22話では、天神7代のイサナギ・イサナミの祖先の話をします。ご両尊の先祖は実は一緒だったのです。

1 イサナギとイサナミの旅


1、  プロローグ

1)  倭国大乱

 天神6代のオモタル・カシコネには世継ぎがいなかった為、正当な天神家の血脈が途絶えてしまい、豪族たちは覇権を争い、国中で戦乱が生じていました。
豊受大神が天神代行(東の君)となり、天の高天を仕切りましたが、生粋の天神家の血脈を引いておらず、天神になる資格を兼ね備えていませんでしたので、倭国を騒がした大乱を鎮めることができませんでした



2)  イサナギとイサナミの婚姻

 そこで、天神4代のウビチニの養子となったアメヨロズ尊の孫のタカヒト(幼名:カムロギ)と、高皇産霊尊のタマネキ(豊受大神、トヨケ)の娘のイサコ姫を婚姻させ、天神7代としました
二人はイサ川の辺りにイサ宮を建立し、名を、イサナギとイサナミに改めました

でも、実は、イサナギとイサナミは、二人共、高皇産霊家の血を引いているので、親族同士の婚姻といえます。そこで、先ずは、その経緯から話していきます。



2、  天神1代 クニトコタチ(国常立)

1)  天神七代とは

  記紀やホツマツタヱによると、天神1代は、クニトコタチ(国常立)です。天下の中心の存在でしたので、ミナカヌシ尊(天御中主神)とも呼ばれます。

2 天神七代系図



2)  クニトコタチの正体とは?

   『クニトコタチ(国常立)』とは、中国を初めて統一した『黄帝』だと推定しています。

【黄帝】
3 龍に乗った黄帝

  黄帝は、三皇五帝の五帝の初帝で、中国全土を初めて統一しました。紀元前2510年に生まれて、紀元前2448年に亡くなったとされています。
  黄帝が活躍した時期は、中国では黄河文明の龍山文化(紀元前3000~2000年頃)の時代で、遼河文明の紅山文化の思想を取り込み、金色の龍が皇帝のシンボルになりました。

『クニトコタチが黄帝だ』とする根拠は、黄帝は東洋の重心の中国の中原(洛陽近辺)に政治の基盤を設け、中国に沢山存在した小国を属国としていき、中国を初めて統一したからです。
また、黄帝の血脈が、夏王朝、商(殷)、周、秦、呉だけでなく、倭国にも面々と引き継がれてきています
黄帝は、東洋に流れる王族の血脈の始祖
なのです。

  中国の歴史書である司馬遷の『史記』は五帝本紀から始まりますが、五帝本紀はこの黄帝から始まっており、春秋時代の呉越の滅亡の話も書かれています。春秋の呉の亡国の王族が倭人となり、越の亡国の王族が百越や安曇族となりました
  事実、弥生時代の渡来人のY染色体遺伝子(男性に受け継がれる遺伝子)や骨格等は、春秋時代の華南(江蘇省、浙江省)の民族と同じものです。

日本神話は、東洋の開闢(かいびゃく)神話を真似したという指摘がありますが、両方共、同根ですし、黄帝の血脈は日本人にも流れているので、似ているのは当たり前です。

太古の昔(300百年前)は、日本列島はユーラシア大陸の一部でしたし、最後の氷期が終わり、マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没したのは、約1万3,000年から1万2,000年前(縄文時代の幕開け頃)のことです

その後も、大陸から日本列島へ、日本列島から大陸に、頻繁に人や物が行き交いました。日本人の祖先は丸太船を用いて、貿易や文化交流を行いましたが、流石に丸木舟では牛馬は輸送できなかったようです。



3) 一番初めの三国志

  中国は、沢山の小国が小競り合い(こぜりあい)の戦いをしていましたが、やがて、炎帝(榆罔)と蚩尤、黄帝(姫軒轅 き・けんえん)の3強の時代へと突入します。

【炎帝、蚩尤、黄帝】
4 黄帝三国志

8代目炎帝の榆罔(ゆもう)は神農氏族の直系の子孫であり、神農氏が農業や医薬を発明したことによる偉大な功績のため神農氏の直系は代々部落連盟の首領となり、代々炎帝を称していました。

【炎帝】
4 炎帝

   蚩尤と炎帝、黄帝は、共通の先祖が枝分かれした関係です。
《路史・蚩尤伝》では、”蚩尤は姜姓で炎帝の子孫である”とあります。
炎帝と蚩尤も、共に神農氏族の流れを汲んでおり、農耕部落連盟に属していました。


蚩尤(しゆう)は金属製の武器を所有し、軍事力で他を圧倒していました。蚩尤のホームグラウンドは黄河文明の山東龍山文化圏ですが、その北方の遼河文明にも力が及んでいたようです。

5 蚩尤



遼河文明の紅山文化では、青銅の武器を使用しており、その民族はメソポタミア(欧州系)や匈奴・ツングース系の遺伝子の主で、目が青かったようです。

【牛河梁遺跡の女神頭像】
6 青い目の女神頭像

【頭像のモンタージュ写真】
7 女神像のモンタージュ

この民族が、蚩尤や黄帝に追われて、その一部が青森県の三内丸山遺跡に辿り着いたのではないかと推測されています〈遺伝子が一緒〉。
青森県人がメソポタミア人の後裔だとすると、もしかしたら、東北弁とメソポタミア語には共通点があるかもしれませんね。

【紅山文化の伝来】
8 紅山文化の伝来

 但し、紅山文化の後期の牛河梁( ぎゅうがりょう)遺跡の神殿や龍のトーテムは、その後の中華文明に大きな影響を及ぼし、中華の皇帝は黄色い(黄帝の)龍をあしらった衣装を身につけるようになりました。



4) 黄帝の勝因

  黄帝は神農の正統な血脈ではなく、軍事力も弱かったのですが、法律と政治力には卓越した手腕を発揮しました
つまり、正統な血脈の炎帝、軍事力に勝る蚩尤(しゆう)、そして、政治手腕を発揮した黄帝の三つ巴の戦いとなり、最後に黄帝が中国を統一します

  炎帝榆罔は、軍事力で力をつけてきた蚩尤を征伐しようとしましたが、逆に大敗を喫してしまい、黄帝の元に逃げ込みます。
黄帝は蚩尤に挑みますが、蚩尤は卓越した軍事力を有していたので、黄帝は敗戦続きでした。
そこで、気象学に造詣が深い女神の旱魃(かんばつ)を配下に加えると、今の北京郊外の涿鹿(たくろく)の戦いで、水没していた戦地から水を引かせ、蚩尤(しゆう)率いる九黎族を破ることができました。


【旱魃(かんばつ):涿鹿(たくろく)の戦いで黄帝に加勢する。キョンシーの始祖】
9 旱魃


  その後、黄帝は、蚩尤の居城を襲い、蚩尤が収集した武器を全て手に入れました
こうして、黄帝の国は中華一の軍事大国に伸し上がり、三皇の神農の末裔(炎帝)の榆罔(ゆもう)を倒し、古(いにしえ)の華夏部族連盟の首領に上り詰めました。
黄帝は、中国を初めて統一し、五帝の筆頭となりました。皆さんの顔が、どこか黄帝の顔の面影があれば、黄帝は貴女の祖先です。

【黄帝】
10 黄帝




3、  クニトコタチやクニサッチの時代の古代遺跡

1)  日本の縄文時代の人口

  クニトコタチが、日本の縄文時代の神様ではないと、自信を持って否定することはできませんが、日本の縄文時代の神様ではなさそうです。
それでは、これを、歴史人口学の視点でみていきます。

  日本全体の人口は、以下の通りです。

【上智大学元教授 歴史人口学者の鬼頭宏氏】
11 鬼頭宏


縄文時代の日本全土の人口の推移
縄文早期(紀元前6100年頃)  :  2万人
縄文前期(紀元前3200年頃)  : 11万人
縄文中期(紀元前2300年頃)  : 26万人
縄文後期(紀元前1300年頃)  : 16万人
縄文晩期(紀元前1300年頃)  :  8万人
弥生時代(西暦200年頃)    : 59万人

12 縄文時代の人口


  縄文時代の晩期の日本全土の人口は8万人にすぎませんでした。
そして、歴史学者の鬼頭宏氏の研究成果では、上記の表のように、縄文時代晩期の
畿内の人口は1000人で、
九州北部全域と九州南部全域でも、それぞれ人口は3000人程度でした。

  現在では、市は5万人以上、町は大凡5千人以上とされていますので、縄文時代の『畿内』の人口1000人では小規模な村のレベルです。これでは、『国』と呼ぶことなど、恐れ多くてできません。
日本神話の世界は、世界に誇れる、もっと壮大なスケールだと信じています。




2) 日本の遺跡

  ホツマツタヱでは、クニトコタチの国は8つの国に分断され、更に、それぞれ5つずつの小国が建国されたとされているので、これが日本列島の話だとすると、それらの小国は、家族単位の集落の規模に過ぎないことになります。
しかし、日本にも素晴らしい遺跡が残されています。

①  三内丸山遺跡

紀元前2200年頃に消滅した三内丸山遺跡の面積は38haと、とても広いのですが、集落の最盛期(紀元前2500年頃)の人口は500人位(通常は200人位)です。丁度、黄帝が活躍していた時代の遺跡です。

【三内丸山遺跡 最大500人】
13 三内丸山遺跡地図


国だと主張できるのは、少なくても弥生時代の吉野ケ里の規模だと思われますが、それでも、天下を統一したというレベルには至っていないように思えます。


②  吉野ケ里遺跡

  佐賀県の吉野ケ里は、広さは三内丸山遺跡と同じくらいの40haですが、人口は、外環壕の内部におよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とする国全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたと推定されています。

【吉野ヶ里遺跡 1200人】
14 吉野ケ里遺跡地図



2)  中国の遺跡

  さて、日本の遺跡に対して、中国の遺跡として比較できるものは、夏王朝の都の二里頭遺跡と、商(殷)時代の殷墟です。

①  二里頭遺跡(夏王朝)

  二里頭遺跡は、紀元前1800~1500年頃の遺跡で、面積は10万平方メートル(1000ha)に及ぶ整然とした都市で、宮殿跡は東西300m、南北370mあり、遺跡内だけで2万人以上の人々が暮らしていました。当時の世界有数の大規模集落でした

15 二里頭遺跡地図

【二里頭遺跡の宮殿:中国の皇居の原型になった】
16 二里頭遺跡宮殿

【北京の故宮 紫禁城】
17 紫禁城




②  殷墟

 殷墟は症の〈殷〉の中期の都ですが、殷墟の面積は24K㎡(2400ha)で、東西6km、東西4Kmです。人口は2万人位だったそうです。

【殷墟】
18 殷墟地図




3) 中国の遺跡と日本の遺跡

①  遺跡を比較する狙い

  夏王朝の二里頭遺跡や商〈殷〉王朝の殷墟と三内丸山遺跡や吉野ケ里遺跡を比較したのは、『井の中の蛙、大海を知らず』の状態で『自画自賛』して満足するのではなく、日本の遺跡の本当の良さに気づいて欲しかったからです。

  例えば、三内丸山遺跡の素晴らしいところは、規模は小さくても、紀元前2500年頃の大昔に、日本列島に理想郷があったことです。

19 三内丸山遺跡 遠望


  大規模な建物があり、栗や雑穀の栽培(農業)を行い、文化レベルが高い集落でした。
大陸では、戦争や人殺し、虐待に明け暮れていた時代に、三内丸山遺跡では争いのない平和な社会を築き上げ、理想郷としました
彼らは、集落の規模の拡大を図るよりも、明るく楽しく暮らせるユートピアを目指したようです。おそらく、母系社会だったのでしょう。


②  中国裴李崗 文化

 中国では、黄河文明の裴李崗 (はいりこう) 文化(河南省)が、紀元前7000~5000年頃に栄えました

【裴李崗文化の場所】
20 裴李崗文化地図

  円形・方形の竪穴式住居に住み、栗やアワの栽培を主とした農耕文化が発達していました。また、豚を飼育する畜産も営んでいました。

平等主義で政治組織は殆どありませんでしたが、古代の骨笛や賈湖契刻文字などが発見されており、文化レベルが高かった為、中国のユートピアとされています。

【骨笛】
21 裴李崗文化 骨笛


【賈湖契刻文字】
22 裴李崗文化 文字


  遺跡の規模や古さで、他国の遺跡と競っても、意味がないことです。
生活スタイルは、裴李崗文化は三内丸山遺跡と類似していますが、紀元前5000年で裴李崗 文化は途切れており、三内丸山遺跡は、黄帝が武力で中華統一を成し遂げた時代に、平和主義を貫いていました。これが、三内丸山遺跡の凄いところです。



4、 天神2代 クニサッチ(8人の跡継ぎ)

1)  クニトコタチの領土

  もし、クニトコタチのホームグラウンドが日本だとすると、疑問が生じます。
ずっと後のことになりますが、オモタルトカシコネが中国地方に進出し、続いて、イサナギとイサナミが、西日本の島々や四国で国造りを進めます。
水稲栽培や青銅器の日本の発祥の地は佐賀県や福岡県ですので、九州から東方に進出して行ったことになりそうです。


  そうすると、クニトコタチの領土はどこでしょうか?

  天界だと答える方は、ホツマツタヱを歴史書ではなく、偽書だと断定されているのと思われますので、このブログの先を読んでもしょうがないと思います。

  日本だとした場合、天神6代のオモタルとカシコネの時代の前は、クニの中心は福岡県でしたので、クニサッチの国々は、魏志倭人伝に登場する小国くらいの大きさです。

  しかし、縄文時代の中期の九州北部の人口は1000人位です。
これが8ヶ国に分かれるので、クニサッチの1国当りの平均人口は125人位となります。
更に、5ヶ国に分離されるので、小国の一ヶ国当りの人数は25人です。
これでは、偉大なる日本の開闢神話だとは思えません。

  そこで、やはり『クニトコタチは黄帝』だという前提で話を進めさせて頂きます。



2)  クニサッチの時代の政治の重心

 ホツマツタヱによると、クニトコタチの跡を引き継ぐのは、クニサッチ(国狭槌)です。
『サッチ』とは『分割すること』で、クニトコタチ尊が建国した統一国家は、ト(南)・ホ(東北)・カ〈西〉・ミ(東南)・ヱ(北)・ヒ(西南)・タ(東)・メ (西北)の8つの方角の国々に分割されました。


  邪馬台国も含む東洋の古代王朝の始祖は、『黄帝』であり、黄帝こそが『クニトコタチ』という前提では、このクニトコタチが建国した国の都は、夏王朝や殷王朝が都をおいた河南省の洛陽近辺だと推測されます。そして、クニサッチの時代には、洛陽の四方八方に黄帝の血脈の王が封土されました。従って、クニサッチの時代の政治の重心は洛陽です。

洛陽には、世界遺産の龍門洞窟や、

【龍門石窟】
23 龍門石窟


西暦68年に中国に仏教が伝来した『白馬寺』があり、

【白馬寺】
24 白馬寺

歴代王朝が都を構えた由緒ある土地柄です。中原の中心です。
高速道路を走ると、周りは古墳だらけなので吃驚しますよ。



3)  夏王朝

  それらの国々の中で一番初めに、天下を引き継いだのは、帝禹が興した夏王朝です。
『クニトコタチ』は『黄帝』のことですが、『トコヨの教え』とは、夏王朝の始祖の『帝禹の政治哲学』のことで、黄帝のように武力で天下を制するのではなく、徳で民を屈服させていきました

  日本でも、初期の天神(天皇)が水稲栽培を広め、皇后は紡績・機織り技術を広め、民の生活を豊かにすることで、民心を得て、国土を広げましたが、これは帝禹の生き様でした。

  夏王朝の二里頭遺跡の概略は既に述べましたが、『夏』は紀元前2070年~1600年頃の王朝です。黄河文明の河南龍山文化に属し、国家の先駆けのような形態でした。
紀元前2050年頃に栄えた二里頭遺跡が代表的な都で、洛陽近辺に首都を持つ首長国家でした。

【二里頭遺跡 : 夏王朝の宮殿、洛陽】
25 二里頭遺跡 宮殿


  帝禹は徳の人で、黄河の治水工事や浙江省の開墾工事に力を注ぎました。自分の生活は質素倹約を心がけ、宮殿は造りませんでした。
しかし、帝禹の子の敬が王位に就くと、軍事による専制政治を行い、奴隷制を導入しました。
敬の子の太康が王座に就くと、狩猟に明け暮れたため、反乱が勃発し、都を追われました。

  夏王朝を復興させたのは、太康の弟の孫の帝少康でした。
帝少康は、帝禹の政治理念を慕い、庶子の無余を、帝禹が逝去した会稽(浙江省紹興)に封じ、帝禹の政治理念を後世に伝えるように命じました
会稽に建国した国が『越』です。

  春秋時代に、『越』が『普』に滅ぼされると、亡国の王族は、百越や安曇族となります
『越』のトーテムは『鹿』です。だから、神社で鹿を祀っていたら、『越』や安曇族を祀っていると考えて頂ければ良いと思います。

 一方、夏王朝は、最後の皇帝の桀が人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえ付けた事や、末喜(ばっき)と共に、贅沢三昧をし、商(殷)の湯に夏王朝は滅ぼされました

26 夏王朝勢力図

ここに、桀(けつ)と末喜のエピソードを綴ります。

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末喜(ばっき)とは、夏(か)の桀(けつ)王の妃です。

 容色は美しかったのですが、德が薄く、よこしまで道に外れ、女子の身で男のような心をもち、剣を持ち、冠を帯び、男装の麗人の出で立ちでした。

 桀は、礼と義を棄て、婦人に淫(みだ)らで、美女を求め、これを後宮に置き、役者(俳優)や芸妓、太鼓持ち、道化者、虚言癖の者等、人を堕落させる能力を持った者を召し抱え、これらを旁(かたわら)に集め、破廉恥な音楽を奏で、日夜、末喜や宮女と酒を飲み、休む時がありませんでした。おごり高ぶり贅沢をし、自分の思うようにしました。

 舟を浮かべ漂わすことができるほどの大きな酒の池を作り、太鼓の一叩きを合図に、三千人に一斉に牛のように酒を飲ませました。その頭を牛馬のように繋いで酒池で飲ませ、酔って溺死する者がでると、末喜はこれを笑い楽しみました。


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4) 商(殷)王朝

  その後、湯が興した商(殷)は、紀元前1600年頃から、紀元前1046年まで続きます。
殷王朝こそが国家体制がしっかり整った王国でしたが、夏王朝と同様で、最後の皇帝の帝辛(紂王)と、その妃の妲己(だっき)があまりにも残酷だったので、民心が離れ、周に滅ぼされます
この話は、漫画の『封神演義』でお馴染みだと思いますので、割愛します。



5) 周、春秋戦国、秦

  周(春秋戦国時代を含む)は紀元前11046年~256年
その内、春秋時代が紀元前722年~481年、戦国時代が紀元前481年~221年、
秦は、紀元前778年で建国はすが、王朝は紀元前221年~206年に存続しました。

  夏王朝から、商(殷)、周、秦へと政権が遷っていきましたが、どの王朝も黄帝の末裔が帝王となりました


 そして、ホツマツタヱによると、8つのそれぞれの王国は、更にキ(東)・ツ(西)・ヲ(央)・サ(南)・ネ(北)と全方向に領土を拡大していきました。そして、黄帝の末裔の王たちの国土は、中国国内のみならず、中国の外まで広がって行きました。

  それでは、日本への渡来の歴史を語ります。


6)  春秋の呉の滅亡

周の首都は西安の近くの咸陽(かんよう)ですが、周の公子の太伯が江蘇省に呉を建国しました。

呉 太伯と弟の仲雍(ちゅうよう)は周王の長男と次男でしたが、王座を末弟に譲り、華南(江蘇省)に移り住み、句呉(後の呉)を建国します。

【太伯と仲雍の出奔】
27 太伯 馬車


  紀元前473年に春秋の呉が越に滅ぼされると、亡国の王族は海に逃れて倭人となり、朝鮮南部と日本に亡命し、倭国を建国します。ただ、呉人は海人であったので、漁業だけでなく海洋貿易に勤しみ、亡国の憂き目にあう前から、海中の東国に進出し始めていました。

 周の太伯が建国した呉が、越に滅ばされたのが紀元前473年で、また、夏王朝から分かれた越が滅亡したのが紀元前334年のことです。

【西施:色気で呉王夫差を誑かし、滅亡に追い込んだ】
28 西施


 これは倭国に関係する話ですが、黄帝の末裔たちは、東洋の様々な領域に新たな国を建国していきました。これを、ホツマツタヱでは【クニサッチ】と呼んでいます。

クニトコタチの話は、紀元前2500年頃の話で、クニサッチの時代は、紀元前2500~500年頃のことだと考えられます。



4、  ハコクニ(葉木国)

1)  日本に渡来したクニサッチ

  ホツマツタヱでは、倭国に渡来したクニサッチは、トヨクンヌ(豊国主)、ハコクニ(葉木国)とウケモチ(保食神)です。
また、大陸より弥生時代に日本に渡来したのは、倭人、徐福、安曇、そして秦氏等です。

 先ず、トヨクンヌは天神3代の天神本家の血流で、天神4代のウビチニの父です。もしかしたら、ウビチニの后のスビチも腹違いの兄弟かもしれません。
トヨクンヌに関しては、別の機会でお話します。

 次にウケモチですが、水稲栽培を日本に広めたことを考えると、佐賀県唐津の菜畑遺跡や福岡県福岡市の板付遺跡に渡来した倭人の一族だと考えられます

 太伯やその弟の仲雍の末裔は、呉が滅亡すると、水稲栽培を倭国に齎しました
そして、水稲栽培が日本に伝来したのが紀元前500年頃
です。

【菜畑遺跡】
29 菜畑遺跡

  その後、農作技術は、日本各地へと広まっていきます。


  陸稲栽培はそれ以前に、日本に伝来していましたが、水稲栽培の導入により、米の収穫量が一気に増大しました。
陸稲栽培だけをしていた時代には、陸稲は十分な肥料がないと穂が小さく、また、同じ畑で翌年に連続栽培ができないため、陸稲だけで生計をたてるには、広大な農地(畑)と人手が必要となりました。

  水稲栽培の伝来が、狩猟民族から農耕〈水稲栽培〉民族への転換となりました



2)  浙江省の河姆渡遺跡

  日本の水耕栽培のお手本となった浙江省寧波の近くにある河姆渡遺跡(紀元前5000年~3500年頃)は、水稲栽培と陸稲栽培をハイブリッドで実施していましたが、氾濫が頻発し土地が肥沃で、また田畑の面積がとても広かったため、米作りで生計をたてることができたようです。

【河姆渡遺跡】
30 河姆渡遺跡 


【高床式建物】
31 河姆渡遺跡 高床式建物


【河姆渡人 : 顔立ちが似ている方は、華南人(弥生人)の末裔です】
32 河姆渡遺跡 夫婦像


  なお、朝鮮半島は寒冷の気候だったため、水稲技術の導入は大幅に遅れました。
また、日本の米と江蘇省や浙江省の米の遺伝子は一緒ですが、日本と朝鮮半島の米の遺伝子は異なります。つまり、日本の温帯ジャポニカ米は、華南から伝来したもので、朝鮮から入ってきたものではありません



3)  クニサッチが日本に渡来したのは弥生時代

  縄文時代の話ではありません
縄文時代晩期の畿内の人口は、鬼頭氏のデータでは、わずか1000人くらいでした。
ホツマツタヱによると、ヲシホミミの長男のクシタマ・ホノアカリが大和に天孫降臨した際に同行した従者だけでも1000名弱です。

【クシタマ・ホノアカリとニニキネ兄弟】
33 ニニキネ ホノアカリ


  クシタマ・ホノアカリが大和政権を樹立しましたが、その後、天神10代のニニキネ(天孫)の孫のニギハヤヒがクシタマ・ホノアカリの跡を継いで、大和政権を拡大しました。


そして、二つの政権(大和と九州)を統一し、皇室の一本化を図るために、神武天皇は東征し、畿内の攻略を断行しました。

【神武天皇の東征】
34 神武天皇の東征


日本書紀では、紀元前660年の出来事だとされていますが、縄文時代晩期の畿内全体の人口が1000人では辻褄が合いません。また、上のイラストの中に槍や鉈の図がありますが、こうした金属器が日本で製造(鋳造)されるようになったのは、紀元前2世紀のことです。
青銅器の鏡も同様です。
そして、鉄器が製造されるようになったのが、紀元前後のことです。それも、試作品レベルの出来です。
このジオラマがあるのは、福岡県春日市の『奴国の岡歴史資料館』です。ここは、須玖岡本遺跡のど真ん中で、王族の墓が出土しています。

【須玖岡本遺跡】
35 須玖岡本遺跡 鋳造イラスト




5)  ハコクニ(葉木国)の素性

  日本に渡来したクニサッチのハコクミが、春日市からヒタカミ(日高見)に移り住み、高皇産霊家を興したとされています。
ハコクミは春日市から東を目指して進み、日高見(大分県日田市)に辿り着きました


  ハコクミは、当初、春日市に住んでいたので、須玖岡本遺跡の王族の血縁だと考えられます。
さて、上項で説明した須玖岡本遺跡というと『奴国』ですので、奴国のプロフィールを話します。

 奴国の住民の血脈は非常に複雑で、春秋時代の斉(せい)、呉(ご)、越〈越〉と日本人(縄文人)の混血です。簡単にいうと、徐福の一族と倭人(呉人と日本人との混血)の混血です。

  春秋の呉が滅亡し、亡国の民が九州と朝鮮半島南部に流れつき倭国を建国しました。
倭人は、呉人と日本人(アイヌ系縄文人)の混血で、呉人男性が日本人女性を娶るのが一般的でしたが、男性の嫡子に場合には、勢力を持つアイヌ系縄文人の男性を婿養子にしたと考えられます。
従って、倭人のY染色体(男性に引き継がれる遺伝子)は、呉人だけのものではなく、アイヌ系縄文人のものもあったと考えられます。

  混血化が円滑に進んだのは、渡来人が原住民を制圧する方式をとらず、原住民の力を借りて国造りを進めようとしたからだと推測されます。
 佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福島県福岡市の板付遺跡の民の遺伝子も、この倭人のものです。

 一方、徐福は春秋時代の斉(せい 山東半島近辺)の出身です。
周の湯王は殷を倒すと、黄帝の血を引く太公望を斉に封じました。その子孫が徐福です。秦の始皇帝が永遠の生を望み、徐福に不老不死の薬を見つけ出すことを命じましたが、紀元前219年に徐福は日本に渡来し、住み着いてしまいました。

36 徐福像


不老不死の薬を探すため、若い男女を含む総勢3000人を連れて渡来したとされていますが、そのルートは浙江省の寧波から船出したと推測されます。寧波は河姆渡遺跡の直ぐ側です。そこで、多くの浙江省(越人)を連れて、日本に向かったと考えられます。

 徐福は日本各地を巡りましたが、初めに上陸したのが佐賀県で、徐福が不老不死の薬を探した金立山は、吉野ケ里から8Kmの距離です。

【徐福とお辰】
37 徐福とお辰


 吉野ヶ里遺跡は、徐福の末裔たちが築いた小国です。
何故なら、中国方連れてきた若い男女の殆どを佐賀県の吉野ケ里近辺に残して、他の地を目指しました。

38 吉野ケ里遺跡 神殿地図


  徐福の末裔が吉野ケ里遺跡を築いたという根拠は、甕棺墓(かめかんぼ)は、黄河文明や斉の埋葬方法であり、また、斉では塩や鉄を産出しており、徐福は金属加工や鋳造に精通していたと考えられます。
また、多くの青年たちを浙江省から連れてきたので、吉野ケ里遺跡の住人の骨格は春秋時代の華南人の骨格に類似しています。

  そして、須玖岡本遺跡は金属加工のメッカで、後漢の光武帝から金印を授かりました。
金印は、黄帝の血脈の王に与えられる由緒ある物
です。
更に、この地域でも甕棺墓(かめかんぼ)を用いているので、吉野ヶ里と須玖岡本遺跡は婚姻を通じて、同一文化になったと考えられます。

  これが、奴国の住民が、春秋の斉、呉、越、そしてアイヌ系縄文人の混血だと推定した根拠です。それ故に、ハコクニは奴国の王族だったと考えています。


  クニトコタチの政治理念と水稲栽培を東国に根付かせる為に、中国から渡来した子供がハグクニです。
ハゴクニはヒタカミの国を建国し、この地に天上の高天原(タカマガハラ)の四十九神を歓請して、初めて地上の高天原(タカマガハラ)にアメミナカヌシを祭りました。



6、  キノトコタチ

 ホツマツタヱには、以下のように書かれています。

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クニトコタチの理想郷のシンボルの橘(たちばな)の木や稲を植えましたが、その地(日高見)で生れた子供の真名(イミナ)をキノトコタチと言います。
諸民は神聖な高天原を嗣ぐ御子の誕生を心から喜び、ヒタカミ国を統べるタカミムスビ(高皇産霊)尊の名を捧げて称えました。

キノトコタチの子はアメカガミ神と言い、筑紫(ツクシ)を治めました。


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 これしか書かれていないので、詳細はわかりません。



7、 イサナギとイサナミは親族

キノトコタチの子のアメカガミは、イサナギの祖父(アメヨロツ)の親で、キノトコタチが始祖となる高皇産霊家の五代目が豊受大神(タマキネ トヨケ)で、その娘がイサコ姫(イサナミ)です。

 従って、血の繋がりは濃くありませんが、イサナギとイサナミは、親族同士の結婚ということになります。これで、イサナギとイサナミの婚姻のところまで辿り着きました。



今回は、ここまでにします。



『邪馬台国ラプソディ』著者
川鍋 光慶
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No title

神話って自分のルーツを巡る旅。

イサナギとイサナミの関係を知ることと
その功績を顕彰することは
いちばん重要かもしれないと思うのです。