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XXVI 邪馬台国

 今回のブログで、邪馬台国と卑弥呼の謎を解き明かしていきます
これまでの常識にとらわれない自由奔放な発想の賜物ですので、見過ごさないようにお願いします。
 天神6代のオモタルが兵力で征服していった国土を、イサナキとイサナミが更に拡張しました。これを、『国産み』『国造り』と呼びます。

 実は、『国産み神話』の中に、魏志倭人伝と、記紀(古事記、日本書紀)、更にホツマツタヱの記述が交差する地名があります。ホツマツタヱを知る方々だけが、この必然的な一致を見出すことができるのです。

1 国産み


 その場所の名前は、『大日本豐秋津洲』です。今回は、この『大日本豐秋津洲』をキー・ワードにして、日本の歴史を紐解いていきます。



1、  天神6代のオモタル・カシコネが築いた国土

 水稲栽培や青銅器は、大陸から伝来し、九州北西部で生産が始まりました
上のイラストの中で、イサナキが携えている『トトホコ(トと矛)』の矛は青銅矛だと思いますが、日本で青銅器の生産(鋳造)が始まったのは、紀元前2世紀(須玖岡本遺跡、福岡県春日市)のことです

2 青銅器


 九州北部で農業や工業が開花し、そこから生み出された富を基盤にして、強固な軍事力を有する国家が誕生したのです。その国家の君主を、天神(あめかみ)と呼びます
天皇制が確立する前は、天皇陛下のことを天神と称せられていましたが、天神たちは九州を拠点にして、東へ東へと進出して行き、国土を広げました。


 天神6代のオモタルは、青銅矛を携えた兵士たちを率いて、九州北部から出立し、東に向けて兵を進めました。そして、金属製の武器を持たない先住民を武力で制し、支配するようになりました。こうして、国土を広げていったのです。


 第22話のブログで、お話したように、天神6代のオモタル・カシコネが武力で制した国土は、主には、九州北部、中国地方、四国です。つまり、九州の一政権が、近畿地方を除く西日本を統治するようになったのです


【九州北部 初期のオモタルの領土】
3 九州地図

【中国・四国地方 オモタルの領土】
4 中国・四国 地図




2、  イサナキとイサナミの国産み

  天神6代のオモタルが築き上げた国土を受け継ぎ、豊かにしていったのが、天神7代のイサナキとイサナミでした。
御両尊は、国産みにより、更に国土を拡大していきました。
そこでは、拡大した国土を紹介します。


1)  古事記と日本書紀

 古事記に書かれているイサナキとイサナミが国造りをした場所を列記します。

①  淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島

②  伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
『二名島』のことを『四国』と書きましたが、考古学者の古田武彦氏によると、『二名』とは、四国のことでなく、愛媛県の伊予市の『双海(ふたみ)』だそうです。
『双海』の旧称は『二名』だとのことです。ここには、二名神社があります。

【愛媛県伊予市双海 下灘駅:日本で一番海に近い駅】
6 下灘駅


四国に関しては、胴体が1つで、顔が4つあると言われてきました。顔のそれぞれの名は以下の通りです。
• 愛比売(えひめ):伊予国(愛媛)
• 飯依比古(いひよりひこ):讃岐国(香川)
• 大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(徳島)
• 建依別(たけよりわけ):土佐国(高知)

③  隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島

【隠岐島 蝋燭島】
7 ロウソク岩

【隠岐島  トカゲ岩】
8 トカゲ岩


④ 筑紫島(つくしのしま):九州
• 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
• 白日別(しらひわけ):筑紫国
• 豊日別(とよひわけ):豊国
• 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
• 建日別(たけひわけ):熊曽国

⑤ 伊伎島(いきのしま):壱岐島

9 壱岐の島


⑥ 津島(つしま):対馬

10 対馬


⑦ 佐度島(さどのしま):佐渡島
11 佐渡ヶ島


大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)???
 この場所は、国土の中心でしたので、場所の特定がとても重要です。

 以上の八島が最初に生成されましたので、日本を大八島国(おおやしまのくに)といいます
小さな面積しかなかった島々ですので、この地を占拠するのは、容易(たやす)いことだったと考えられます。


 上に掲載した写真をご覧頂きたいのですが、四国や九州以外には、どこも水稲栽培には適さない島々です。そこで、こうした島々では、水稲栽培の普及には力を注がず、海産物や交易の拠点として利用したと考えられます。



その後、御両尊は続けて6島を産みました。

⑨ 吉備児島(きびのこじま):児島半島(倉敷近辺、昔は島だったが、埋め立てて半島になった)
別名は建日方別(たけひかたわけ)

12 児島半島


⑩ 小豆島(あづきじま):小豆島

⑪ 大島(おほしま):周防大島

【周防大島 広島 瀬戸内海のハワイ】
14 周防大島


⑫ 女島(ひめじま):姫島(大分県国東半島の東)
別名は天一根(あめひとつね)

【神話の故郷 姫島】
15 姫島


⑬ 知訶島(ちかのしま):五島列島

16 五島列島



⑭ 両児島(ふたごのしま):男女群島
別名は天両屋(あめふたや)

 男女諸島は、長崎県の五島列島の南西にありますが、九州から韓国に行くのと同じくらいの距離のロケーションです。

17 男女諸島



 これらの島々を見てみますと、初めの8島と同じように、農業に適する地ではなく、防衛、交易、漁業のための拠点だと考えられます。
 また、イサナキは安曇族や宗像族のような海人であったことが分かります。船を巧みに操つり、海洋を航海する術を身に着けていたことでしょう。




18 国産み地図

 上の地図を御覧下さい。『1』の大日本豐秋津洲がイサナキとイサナミが築き上げた大日本の中心(中柱)ですが、2つの候補地があります。一つは近畿地方で、もう一つは大分県(豊国)です。
しかし、近畿地方では東に偏りすぎていて、この時代の中柱の大日本豐秋津洲があったとは考えられません。
ましてや、イサナキとイサナミが関東地方や東方地方北部まで行ったことは考えられませんし、富士山に登頂したわけがありません。(地図の中では空白地帯)

 このように考えると、大日本豐秋津洲は九州の豊国(北九州、大分県)辺りだったのではないかと考えられます。この件は、後段で説明します。



2)  ホツマツタヱの国産み

 ホツマツタヱの中で、イサナキとイサナミが国造りをした場所は以下の通りです。
① ヤマトアキツス(大日本豊秋津洲)
② アハチシマ(淡路島)
③ イヨ アワ フタナ(ふたな、伊予・阿波二名島)
④ オキ ミツコ(みつご、隠岐三子島)
⑤ ツクシ(筑紫)
⑥ キヒノコ(吉備児)
サト(佐渡島)
ウシマ(大島)

 殆ど、古事記や日本書紀と一緒ですね。従って、記紀の説明がホツマツタヱにも通用しそうです。

 ただ、ホツマツタヱには、『海や川や山の産物を豊かにし、木の神のククノチや萱(かや)の神のカヤノ姫や野土の神を祭りました』と書かれています。
四国では陸稲栽培の普及に努めたようですが、島々では、漁業や林業、それと家屋の建築に力を注いでいたことが分かります。
その他、交易、防衛等にも力をいれたと考えられます




3) ホツマツタヱでの御子誕生

 国産みの滞在先で、イサナキとイサナミは御子に恵まれました。
御両尊が子を儲けたホツマツタヱの記述から、ご両尊の訪問した先が分かります。
イサナキとイサナミは、三男一女を授かりました。それは、若日孁、天照大御神、ツキヨミとスサノヲです。


(1) ヒルコ姫(若日孁)

 『ヒルコ姫は『ツクバヤマ』で生まれました。以前、厄年の災いを受けないようにと捨てられたヒルコ姫は、住吉大神のカナサキにヒロタの西殿で十分に慈しみ育てられました。

19 髪置き


 その後、ソサの宮殿に行き、イサナキからワカヒルメ(若日孁)の称号を貰いました』

20 若日孁


 ツクバ山というと、一般的には、関東地方の筑波を思い浮かべます。しかし、御両尊の国産み先の地図をみればわかりますが、イサナキとイサナミは関東地方に出向いていないのです。
やはり、ツクバ山は英彦山の周辺なのでしょう。イサ宮があるところですので、恐らく、行橋(ゆくはし)市近辺で出生したと推測されます。
 
 また、ヒルコ姫は、スサ(ソサ)に行ったことになっています。スサはスサノヲが生まれた地で、和歌山県だと推測されます。ソサは、キシイ(紀伊)とも呼ばれ、熊野にイサナミとスサノヲの多くの足跡(神社)が残されています。
なお、和歌山市和歌浦の『玉津島神社』の祭神は『ワカヒルメ(稚日孁)』で、ホツマツタヱでは、『穂虫払いの祈祷』が成功した謝礼に『玉津宮』を授かったとされています。
そして、ヒルコ姫は上手に和歌を詠んだので、この地域は『和歌の国』と呼ばれるようになったとも書かれています。

 つまり、イサナキとイサナミは、和歌山県にも訪れたことになります。



(2) ヒヨルコ

 『イサナミはヒヨルコを身籠りましたが、淡路島で、月が満たないうちに、生まれてしまいました。その子は流産だったのです。葦船に乗せられ流されました。それで、ご両損の子供の人数にヒヨルコは含まれません』

 このことより、ヒルコ姫を磐樟船で流した以降に、ご両尊は国造りの旅に出て、最初に寄った淡路島で、ヒヨルコを流産したことになります。



(3) 天照大御神

21 白山姫と


 『二尊はアワ歌によって治めたハラミの宮に住みました。ここで、天照大御神を産んだので、ハラミ山は大日山と名を変えました。そして皇子に『ワカヒト』という諱(いみな)を奉げました』

【英彦山】
22 英彦山


 これより、天照大御神(アマテル)の出生地がハラミ山だと分かります。そして、先程の説明の通り、イサナキとイサナミの国造り先には富士山は含まれていないことになります。九州の英彦山の近辺で誕生したと考えられます。



(4) ツキヨミ

 『その後、二尊は筑紫に御幸し、そこでお産みになった皇子をツキヨミと名付け、後々アマテルカミを補佐させようと、豊受大神の元に行かせました』

 筑紫がどこだか定かではありませんが、一般的には福岡県の筑紫郡付近だと言われています。また、福岡市の月隈の可能性もあります。

 但し、『筑紫』は天神たちが力を『尽し』開拓をした土地という説もあるので、宮崎県宮崎市に鎮座する『江田神社』なのかもしれません。
後に、天孫のニニキネが降臨する時に、最前線にある西都原に立ち寄ったのは、この付近は既にイサナキとイサナミが支配地としていたからかもしれません。

 宮崎県の西都原(さいとばる)は、大山祇(おおやまつみ)家の領土でしたが、大山祇族から、天照大御神の中宮の瀬織津姫や、ニニキネの后の木花咲耶姫が出ています。

 何れにせよ、福岡県か、宮崎県に、イサナキとイサナミが立ち寄ったことになります。



(5) スサノヲ

 『スサ(ソサ)国で生れたスサノヲは、常に大声で叫び泣きわめき、国の民を困らせました。イサナミ尊は、スサノヲが世の中に害を与えるのも自分の穢れのせいだと思われ、民の穢れや害を一身に受けて、民を守るために熊野宮を建てました』


**********

【ホツマツタヱの一節】
30 スサノヲ雄叫び

スサノヲ尊は常に大声で叫び

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23 スサノヲ


 スサ(ソサ)は和歌山県(和歌山市)で、キシイは(紀伊)、ワカの国は和歌山市和歌浦だと考えられるので、イサナミが紀伊にいたことは確かだと思います。

 ただ、熊野宮に関しては、那智勝浦に近い熊野本社神宮の他に、出雲の熊野本宮が造営されていますので、スサノヲが居住した場所に、熊野宮が幾つか建造されたようです。

 スサノヲの長男のオオヤヒコ(大屋彦)が、和歌山県、佐賀県、島根県の林業を盛んにしたとされていることより、スサノヲと和歌山県との深い結び付きがあったことが分かります。

【和歌山県和歌山市、伊太祁曾 (いたきそ) 神社
24 伊太祁曾神社




3、  魏志倭人伝の邪馬台国とは?

1) これまでの纏め

 これまでのことを纏めると、天神6代のオモタルは九州北部、中国地方、そして四国を武力で制しました。もしかした、敦賀や北陸の一部にまで、進出したかもしれません。
その後、イサナキの時代になると、四国は水耕栽培で潤し、瀬戸内海、九州、山陰、北陸の島々を交易と農林水産業を興隆させました。もしかしたら、宮崎県にまで進出したのかもしれません。



2)  大日本豐秋津洲

(1)  邪馬台国(倭国)=日本=大和

 イサナキとイサナミが国産みをした際のベース・キャンプが、日本書紀では『大日本豐秋津洲』と呼ばれる場所で、古事記では『大倭豐秋津島』となっています。
また、ホツマツタヱでは、『大日本豐秋津洲』のことを『オオヤマト』と呼んでいす。

 イサナミが築いた『ヤマト』の国は、古事記では『倭』で、日本書紀では『日本』となっているのです。つまり、ホツマツタヱの『ヤマト』は、志倭人伝と古事記の『倭』や、日本書紀の『日本』は同じ国なのです。


 魏志倭人伝には、『倭国』という連合国家のことが書かれており、魏の使者が卑弥呼の元を訪れた時、『倭』を支配していたのが『邪馬台国』でした。

 従って、『日本』=『倭』=『邪馬台国』=『ヤマト(大和)』なのです。
魏志倭人伝によると、倭国を支配していたのは邪馬台国ですが、イサナキが拡大した『オオヤマト』国こそが邪馬台国のことだと考えられ、この当時から、邪馬台国は『日本』とか、『大和』と呼ばれていたということになります。



(2)  『豊秋津洲』

①  『豊』
 『豊』の文字がありますので、都がある中心地は『豊国』と関係があります。
(日高見で政(まつりごと)を行った豊受大神は、豊国に政治基盤があったと推測されます)
つまり、倭国を率いた邪馬台国の中心は、豊国(福岡東部と大分)であり、邪馬台国と属国を併せた国土が、イサナキが支配した天神国(ヤマト)の領土であり、東西に長い国だったことが分かります。


②  『秋津』

 『秋津』ですが、『津(つ)』は今でいう格助詞の『の』のことで、『秋の』の意味になります。
例えば、『秋津虫』とは、蜻蛉(とんぼ)のことです。

25 蜻蛉


 古田武彦氏は、『アキ』は、大分県別府市の安岐(あき)川の河口にある安岐町ではないかと推測されておられますが、同じ豊国でも、行橋・京都(みやこ)近辺ではないかと推測しています



(3)  魏志倭人伝の距離

 魏志倭人伝の中に、距離を海路と陸路の日数で書かれているところがあります。
『南、邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月』
この中の『水行十日、陸行一月』の解釈に、考古学者は頭を悩ましてきました。
しかし、悩むことではありません。
これは隣国からの距離ではなく、『東西に長い邪馬台国の国土を周遊する時間』を示した文章なのです。

26 魏志倭人伝ルート


 このように考えると、魏志倭人伝と古事記と日本書紀とホツマツタヱの記述が、ピッタリ一致しました。

 なお、邪馬台国九州説によると、天照大御神と卑弥呼は同世代の人物だとしているので、天神国(ヤマト)と邪馬台国は同じ時代の国だといえます。このことからも、魏志倭人伝に登場する邪馬台国と、イサナキとイサナミが築いたオオヤマト国は、同じ国だと言えます。



3)  卑弥呼の正体

 卑弥呼の正体は、イサナキとイサナミの長女のヒルコ姫(若日孁)です。

【卑弥呼 瑠璃の星イラスト】
27 卑弥呼


 それでは、その理由を説明しますね。


(1) 身分制度

 弥生時代は、東洋(中国、日本、朝鮮)では、身分制度が厳格に遵守されていました。特に、黄帝の血脈が重んじられていました。魏志倭人伝に、日本の身分制度に関する詳細な様子が書かれているので、倭国に身分制度が存在したことは紛れもない事実です。戦国時代の下剋上とは異質な社会体制でした。

 そうすると、倭国(邪馬台国)のトップになる資格がある女性は、天神(天皇)家の皇女に限られます。ただの有力豪族の女酋長や、いくら霊験あらたかであっても、皇女以外の巫女が、卑弥呼のような国のトップになることは有りえません。
 また、黄帝等の高貴な血脈でなければ、身分が低いと見做され、中国の魏王朝から金印を授与されることはありません。銅印でも授与されれば、『御の字』です。

 身分制度の観点からの結論を申せば、卑弥呼や天照大御神の世代に皇女であった人物は、ヒルコ(蛭子)姫しかいません



(2) 日孁(ひるめ:女性神官のトップ)

 ホツマツタヱによると、イサナキとイサナミの長女のヒルコ(蛭子)姫は、ワカヒルメ(若日孁)になったと書かれています。
『日孁』とは、神国の女性神官のトップの役職で、例えば、天照大御神の別名を『大日孁』といいます。

 そして、ワカヒルメの『ワカ』は『若い』ことです。若殿様のことや、若番頭や若頭(わかがしら)の事を『ワカ』と呼ぶように、ヒルコ姫も幼い頃は『ワカ』と呼ばれていたようです。
和歌山市和歌の浦の玉津島神社の祭神は、イサナキとイサナミの娘のワカヒルメ(稚日孁)なので、ヒルコ(蛭子)姫のことです。『若』も『稚』も同じような意味ですので、『若』という解釈で間違えないでしょう。

 つまり、ヒルコ姫は、国家の祭祀を司る神官のNO2で、女性神官としてはトップに君臨したことになります。卑弥呼も女性神官のトップでしたので、ヒルコ姫と卑弥呼は、同じ役職に就任していたことになります。



(3) 闇の中のヒルコ姫

 古事記や日本書紀には、イサナキとイサナミの娘の蛭子姫を磐樟船で流した事までは書かれていますが、その後、蛭子姫の消息は途絶えてしまいました。また、記紀は、卑弥呼に関する話を一切載せていません。

28 磐樟船


 ところが、ホツマツタヱでは、ヒルコ姫は両親の元に戻り、『若日孁』となり、慈しみ育てられたとされています。

 つまり、記紀は、何かの理由で、卑弥呼の存在を闇に隠すために、ヒルコ姫の磐樟船以降の消息を絶ったのだと推測されます。このことより、『卑弥呼』と『ヒルコ姫』は同一人物であったと考えられます。
記紀が何故、卑弥呼、瀬織津姫、そして幼年期以降の蛭子姫の消息を闇に葬ったかの推測はできますが、ここでは推測を述べるのを止めます。



(4) 発音

 魏国の発音では、卑弥呼の『弥』を『ミャル』と発音します。従って、『卑弥呼』は『ヒルコ』と似たような発音だったことになります。
通訳には、『卑弥呼(ヒミャルコ)』を、『ヒルコ』と聞こえたのかもしれません。



(5) 結論

 『邪馬台国』とは御両尊が築いた『オオ ヤマト』国のことです。邪馬台国の国土は東西に長く、九州北部、宮崎・熊本の一部、中国地方、四国、紀伊と日本を取り巻く西日本の島々が含まれます。そして、魏志倭人伝に、邪馬台国の国土の移動時間が書かれています。つまり、魏志倭人伝の内容と、記紀やホツマツタヱの内容は一致しています。

 また、『卑弥呼』は、イサナキとイサナミの皇女の『ヒルコ姫』以外に考えられません
 ヒルコ姫は豊国で生まれ、幼年期を住吉大神の元で育ち、紀伊で青春時代を過ごしました。
イサナキが逝去する時、ヒルコ姫にオシホミミの養育を託し、また、遺言で、邪馬台国の外交のトップに据えました
 但し、国内の政治や軍事に関しては、天照大御神が束ねていました。つまり、天照大御神と若日孁は分担して、国政を担っていたのです。

**********

 今回は、『邪馬台国ラプソディ』の核心の部分の話でした。
私独自の推理の賜物なので、間違っているかもしれませんが、このような考え方もあるのだなと知って頂くだけで、とても有意義です。

 それでは、次回は、卑弥呼の御陵の話をします。

29 宇佐神宮







『邪馬台国ラプソディ』作者
川鍋 光慶

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