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XXVII 三国志

 小説『邪馬台国ラプソディ』のサブタイトルは、『卑弥呼の履歴書』と言います。
ここまでのブログの集大成として『卑弥呼』の話を始めようと思います。三国志という中国の『国盗り物語』の中に、卑弥呼が登場します。そこで、今回は卑弥呼を知るために、先ずは三国志を語ることにします
1 赤壁の戦い



1、  卑弥呼の魅力

  「中学校の『日本の歴史』の教科書の中で、一番記憶に残っている人物は誰ですか?」と質問されたら、どのように答えますか?

 聖徳太子、藤原道長、平清盛、源頼朝、豊臣秀吉、徳川家康等の名前が思い浮かびますよね。

 飛鳥時代ですと、大化の改新の天智天皇が有名ですが、人気ランキングでは断然、聖徳太子がトップだと思います。
現在では聖徳太子に関心を持つ子供はあまりいないと思いますが、私の子供の頃には、聖徳太子は1万円札のデザインに使われており、富の象徴でした。そのため、聖徳太子の札束の上で寝ることを夢見たものです。


 でも、福沢諭吉の札束の上で寝たいという願望が湧かないのは何故なのでしょうか?
私は、お札が時代遅れになってしまったからだと思います。中国でも電子マネー決済が既に普及してしまっているので、時の流れに棹(さお)差しても致し方ないことでしょう。

2 1万円札



 話を元に戻しますね。

 弥生時代のヒロインと言えば、やはり『卑弥呼』でしょ。でも、どうして、卑弥呼がこんなに売れっ子になったのでしょうか?

 それは、歴史の教科書の一番初めに登場するヒロインですので、目立つからだと思います。また、教科書の初めの部分は、なぜか、一生懸命読むものですからね!


 卑弥呼が生を授かった時は、中国では後漢の末期でした。したがって、卑弥呼の魅力に迫ろうとすると、先ずは三国志を理解する必要があります。三国志は、卑弥呼を知るための緒(いとぐち)になります。




2、群雄割拠

 飢餓が起因する『倭国大乱』で、日本の国土が荒廃していたころ、中国では後漢が没落し、『黄巾の乱』が勃発しました。そして、英雄たちが集う群雄割拠の時代がやってきました。

 一方日本では、倭国大乱を沈静化させるために、卑弥呼が女王になりました。卑弥呼は、三世紀前半を駆け抜けた邪馬台国の女王です。
 中国は、後漢、三国志(魏・蜀・呉)、そして普の時代へと変遷していきますが、卑弥呼と台与は、中国の歴史の渦の中に飲み込まれていきます。この歴史絵巻を体感して頂きます。

『このブログを読まずして、卑弥呼を語るなかれ!』と感嘆する世界観を、これから披露していきます。



1)外戚と宦官の権力争い

 後漢では、光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいました。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚でした。
 しかし、西暦159年に、第11代桓帝が、宦官の協力を得て、梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになりました。


 そして、桓帝が逝去し、西暦168年に霊帝が皇位につきましたが、国庫が底をついていたため、官位をお金で売買できるようにしました。その結果、国庫は潤うようになりましたが、偉くなろうと望む役人が高い官位を購入するために賄賂が横行し、賄賂のお金を集めるために、庶民に重税を課し苦しめました


愚かな君主と呼ばれた霊帝の顔は、現代の有名人の顔に似ているような気がしませんか?

【霊帝】
3 霊帝



 『霊帝』は外戚に擁立された皇帝であったため実権はほとんどなく、政治は、「霊帝」を皇帝に擁立した「桓帝」の皇后らと、その周辺で動かされていました。
また、霊帝は宦官好きでしたので、桓帝の時代に力を握っていた宦官たちは、引き続き力を持っていました。
このような状況下で、外戚と宦官は熾烈な権力争いを繰り広げました


 宦官と言うと、醜いイメージがあるかもしれませんが、子供の頃に宦官になったもの中には、普通の女性よりも美しい宦官がいたそうです。それで、皇帝は宦官を無碍(むげ)にすることができなかったのかもしれません。

【蒼穹の昴 春児 清時代末期の宦官】
4 蒼穹の昴



韓国のイケメン俳優のパク・ジフンは、子役時代に、『王と私』の中で、去勢されるシーンを演じたことがあります。

【王と私 迫力の去勢シーン パクジフン】
5 去勢


【イケメン韓国人俳優のパク・ジフンは、大人になってもとても可愛いです】
6 パク ジフン


 M(_ _)m ついつい迷走してしまいました。話を元に戻しますね。



2)邪馬台国の台頭

 奴国は、西暦57年に後漢の光武帝に朝貢し、『漢委奴国王』の金印を授かります。
この頃、奴国は青銅器を製造する倭国を代表する工業国家で、大陸から金属を仕入れ、大陸で金属製品を売り歩いていました。奴国は、鉄の道を抑えていたのです。
 それで、後漢に貿易権と防衛を保証して貰うこと目的とし、朝貢しました。

7 金印


 その後、西暦100年頃に倭国では邪馬台国が台頭し、奴国から邪馬台国へと政権が移りました。邪馬台国は伊都国を出先機関とし、鉄の道を抑えるようになります。
 そして、倭国の師升が、西暦107年に後漢に朝貢します。

 しかし、後漢の皇帝は皇太后や外戚に言いなりで実権がありませんでした。そして、外戚と宦官が激しい権力争いを繰り広げていて、賄賂無しでは、何も物事が進まない時世になっていました。
そこで、倭(邪馬台国)には朝貢するメリットが無くなり、朝貢が途切れてしまいました




3)黄巾の乱

 外戚と宦官は常に対立し、権力争いを繰り広げました。
そんなとき、天候不順が重なり各地で天災が発生し、人々はさらに日々食べるものにも困るようになりましたが、そのような環境下でも、役人は変わらず重税を課し取り立てたため、庶民の生活は成り立たなくなり、地獄のような塗炭の生活に苛まれました

 そこで、民衆は世の中を救ってくれる人物を待ち望んでいたのですが、西暦184年に張角が太平道をおこしました
 
8 張角


 張角の教えは、この時代の人々の心をつかみました。
医者にかかれない貧しい人たちの病気を治し、治らない者には信仰心が足りないのが原因と言い、太平道をもっと信じるようにと教えて行ったのです。

 こうして、50万人の兵を集めました。太平道の衆徒は黄色の頭巾を締めていたので、この反乱を『黄巾の乱』と呼びます。しかし、張角は早く病死してしまいました。

9 黄巾の乱




4)西園八校尉(せいえいはつこうい)

 犬、牛、豚などを殺害して解体する屠殺業を営んでいた何進(かしん)は、同じ村で育った友人の宦官の郭勝(かくしょう)に賄賂を贈って、自分の妹を賄賂で後宮に入れることに成功しました。

当時の皇帝であった霊帝は、何進の妹に惚れ込み可愛がります。そして、男子を出産すると、何進の妹は、何皇后に出世しました。

【何皇后】
10 何皇后


 妹の血縁者である何進も、後漢王朝に仕えることになり、出世街道を突き進みました。
黄巾の乱のときには、大将軍にまで上り詰めました。
その時、何進が『六韜(兵法書)には、天子が将兵を率いるという記述があり、それに倣って、皇帝が将兵を率いて、四方を威厭(いえん)すべきである」と霊帝に献言したので、西暦188年に、西園八校尉(近衛兵)の制度が発足しました。西園八校尉は、黄巾の乱の鎮圧に役立ちました。

代表の蹇碩(けんせき)は、霊帝に溺愛された宦官です。美しい宦官は、女でなくても皇帝に愛されるようです。
袁紹や曹操も西園八校尉に含まれています。

• 上軍校尉 ― 蹇碩(小黄門)
• 中軍校尉 ― 袁紹(虎賁中郎将)
• 下軍校尉 ― 鮑鴻(屯騎校尉)
• 典軍校尉 ― 曹操(議郎)
• 助軍左校尉 ― 趙融
• 助軍右校尉 ― 馮芳
• 左校尉 ― 夏牟(諫議大夫)
• 右校尉 ― 淳于瓊

 この西園八校尉制の導入は、後漢に不幸をもたらしました。後漢の滅亡を早めてしまったのです。
狐を退治するために、狼の群れを都に引き入れてしまい、狼の群れに後漢は食い千切られてしまいます。


 その後、霊帝は病気に罹りました。何皇后が産んだ劉辯(りゅうべん)はできが悪かったので、王美人が産んだ劉協(りゅうきょう)を次の皇帝に据えるよう蹇碩に遺言します。

【献帝 : 劉協】
11 献帝


 そこで、霊帝が死去すると、蹇碩は何進を暗殺しようとしましたが、それが発覚してしまい、逆に何進に殺されてしまいます。
袁紹はこの機会に宦官を一掃するよう、何進に進言します。そこで、何進が宦官の討滅を決断し、妹の何皇后にその意図を伝えました。そして後宮を去ろうとしたときに、宦官のボスの張譲(ちょうじょう)が何進の背中に駆け寄り、剣を突き刺し、何進を殺害しました。

 袁紹は何進が宦官に殺害されたことを聞くと、兵を率いて後宮に乱入し、手当り次第、宦官を殺害していきました。
それで、張譲と数人の宦官が皇帝の劉辯(少帝)と劉協を連れて脱出しましたが、盧植(ろしゅく)の軍勢に見つかってしまい、張譲たちは近くの川に身を投げて自殺します。

 盧植は皇帝たちを保護しましたが、その時、洛陽に向かっていた董卓に皇帝兄弟は抑えられ、董卓は皇帝たちを連れて、首都の洛陽に帰還しました
西園八校尉制は、諸侯たちが皇帝に歯向かうきっかけとなり、董卓により、後漢は滅亡の道を歩み始めました。



5)董卓と呂布と貂蝉
 
 董卓は皇帝の劉辯(少帝)を殺害すると、劉協(献帝)を皇帝にしました。
そして、献帝を傀儡とし、独裁制を敷き、恐怖政治を執り行いました。

12 董卓


 自分の身内に高い爵位を与えて重要したり、外出の際は皇帝専用の馬車を乗り回したり、歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れるなどの暴政を行うようになりました。
あるときは、董卓は、張温の妻目当てで、張温を誣告し鞭で打ち殺させましたが、未亡人が縁談の申し出を断ると、棒で叩いて夫人を殺害しました。
また、富豪を襲って金品を奪ったり、祭りに参加していた村人を皆殺しにしたりなど、民衆をも虐げるようになります。

 その後、暴虐はエスカレートする一方で、董卓に逆らった捕虜は宴席に連れて来られ、舌を抜かれ、目玉をえぐられ、手足を切断されました。そして、熱湯の煮えたぎる大鍋で煮られ、苦しみながら殺されました。
あまりにも凄惨な光景に、宴席についた人々は手から食器を落とすなどして動揺する中、董卓だけは笑い、平然と酒を飲んでいたそうです。こうした様々な狂態が相次いだのです。
このように、董卓は傍若無人な恐怖政治を行い、気に入らない者や逆らう者たちを虐殺していきました。


 そのため、これに反発した各地の豪族や有志たちが董卓討伐の兵を起こしました。董卓はこれを迎え撃ちましたが、形勢が不利となったので、洛陽を焼き払い、長安への遷都を強行しました。
しかし、董卓は、当時最強の武人であった呂布をボディガードにすることに成功し、反董卓軍を解散させてしまいました


 そこで、王允(おういん)が董卓の殺害を企てました。
これからは、『三国志演義』に書かれた『貂蝉(ちょうせん)』の話です。中国四大美女の一人とされる貂蝉は実在の人物ではありませんが、モデルはいたようです。
それでは、貂蝉伝説に少しだけ耳を傾けて下さい。

**********

 貂蝉は幼少時に市で売られていた孤児で、王允が引き取り、実の娘のように諸芸を学ばせて育てられたそうです。

【三国志 貂蝉】
13 貂蝉


 朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に、当時16歳だった養女の貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てました。

 王允はまず呂布に貂蝉を謁見させると、呂布はその美貌に魅せられてしまいました。
次に、貂蝉を董卓に謁見させると、そのまま、董卓に貂蝉を渡してしまったのです。
怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めました。

【呂布】
14 呂布


 その後、王允は董卓に「董卓様、誠に申し訳御座いません。実は、呂布と我が娘の貂蝉は度々密通しております。貂蝉と呂布は恋仲なのです。二人をお許しください」と告げました。
2人が密会していると知り、董卓は怒りましたが、呂布を切り捨てると政権が維持できなくなるので、泣く泣く貂蝉を呂布の元に送ることにしました。
しかし、一方で貂蝉は董卓に「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の元を動こうとしません。


 呂布は董卓に信頼され、その養子となり身辺警護を勤めていましたが、貂蝉との密通を董卓に知られており、また、ある時に董卓の機嫌を損ねて、手槍を投げつけられたことがありましたので、董卓に殺害されることを恐れ慄いていました。
その時、王允は暗殺計画を打ち明け、呂布を説き伏せてその実行に加担させました。
そして、西暦192年、董卓が宮殿に参内した際に、呂布は董卓を殺害しました

 呂布の裏切りで、董卓は殺され、市場に晒されました。遺骸の脂肪に火を点けると、三日三晩燃えたそうです。

董卓亡き後、貂蝉は呂布の妾となりましたが、子ができませんでした。
下邳陥落後の貂蝉については、記録が残されていません。

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 董卓と呂布の間に貂蝉を置き(美人計)、貂蝉を巡る両者の感情を利用し2人の関係に亀裂を生じさせ、そこを突く(離間計)のが「連環の計」です。


 でも、男とは馬鹿な生き物だと思います。美人には為す術がなく、国を傾けたり、命を落としてしまうのですから。でも、それ程、一人の女人に溺れることができるというのは、幸せなことかもしれませんが……


 董卓の時代は、覇者がまだ確定していませんでしたので、邪馬台国は朝貢をする先がありませんでした。



6)奸雄 魏の曹操

 曹操は都にいた献帝を養護する立場となり、大将軍に任じられます。魏を建国し、河南省の洛陽に都を置きます。

そして、呂布は裏切りに裏切りを繰り返しましたが、曹操は遂に水攻めで呂布を捉え処刑しました。

15 魏の曹操


 また、魏の曹操は、最強だった袁紹を、食料貯蔵庫を焼き払うことで、西暦200年に『官渡の戦い』を征し、中原を手に入れました。
天下の覇者となるのは、もう少しのところでした。

 魏の曹操は歯向かうものを皆殺しにしたので、奸雄と呼ばれます。



 一方、南方では、孫堅(そんけん)の息子である孫策(そんさく)が江東を支配下に置き、小覇王と呼ばれるようになります。
そこで、覇者となった魏の曹操は、孫策の息子の孫権を破り、天下統一の夢を果たそうと考え、呉に出兵しました。

16 曹操出陣



 魏の曹操(西暦155~220年)と呉の孫権が覇権をかけて戦いました。
曹操率いる魏軍40万人の兵力に対し、呉軍10万人、劉備玄徳軍2000人が、西暦208年に、赤壁で対峙しました。魏が一強でしたが、孫権の呉と、劉備玄徳の蜀が同盟を結び、水戦を繰り広げます。
これが赤壁の戦いです。映画のレッド・クリフで有名なシーンです。

17 赤壁


18 赤壁地図

 

 西暦208年、曹操軍は、江陵に布陣し、烏林で長江を挟んで、呉軍と対峙します。

19 魏軍


 それに対して、孫権軍は反対岸に、水軍の砦を設けます。

20 呉軍



 陸戦では圧倒的な強さを持つ魏軍でしたが、船戦の経験がなく、多くの兵士が船酔いと疫病で倒れました。
そこで、魏軍は、船が揺れないように、船と船を鎖で結びつける『連環の計』を用いました
 連環の計を用いる場合には、火攻めを恐れ、風上に陣を敷くのが鉄則です。この時、魏軍は風上に位置していたので、連環の計を用いることにしました。

21 連環の計


 魏軍の陣営には空きなしと考えられたのですが、突如、偏西風が吹き荒れました。その時、魏軍は風下となってしまいました。
偏西風が吹くのを知っていた呉軍は、すかさず火が燃え盛る船を魏軍の船に突入させました。すると、魏の船団は火達磨となり、全焼してしまいました

22 火攻め


 これで、勝敗は決しました。魏軍はほうほうの体で、洛陽に逃げ帰りました。
孫権と劉備の連合軍が、魏に勝利した一瞬でした。
魏は、三国統一が成功した暁には、匈奴等の北方民族、朝鮮・倭を手中に収めることを企てていたのですが、赤壁の戦いの大敗で、領土拡大の夢が遠のいてしまいました。



7)三国志

 劉備玄徳が三顧の礼で迎い入れた諸葛亮(孔明)が赤壁の戦いに参戦していた頃、劉備玄徳軍は蜀(四川省)に出兵し、蜀の地を掠め取りました。
これにより、諸葛孔明が提案していた『天下三分の計』が実現しました。魏・呉・蜀の3ヶ国で天下を治めようとする案です。

 蜀の軍事力は弱いのですが、四川省は天然の要塞に囲まれている上、天才軍師の諸葛孔明がいたので、魏や呉に滅ぼされることはありませんでした。
この魏・呉・蜀の歴史を綴ったものが三国志です。

23 三国志地図


『三国志』とは、後漢の混乱期から、西晋による三国統一までを記録した歴史書で、『魏志』30巻、『呉志』20巻、『蜀志』15巻の、全部で65巻からなります。
この中で、卑弥呼の名前が登場するのは、『魏志』の、巻30の『烏丸鮮卑東夷伝』です。
烏丸鮮卑東夷伝には、烏丸、鮮卑、扶餘、高句麗、東沃沮・挹婁・濊・韓・倭の国々のことが綴られています。
 それぞれの国は、倭国に大きな影響を及ぼしますが、その話は別の機会にすることにします。


 ただ、『韓』とは、馬韓、辰韓、弁韓の三韓のことで、後に、百済や新羅(金官伽耶)になります。
伽耶(かや)は新羅の支配下になります。そして、伽耶(倭人系)出身の新羅の大将軍の金庾信(きむ ゆしん)は、中国の黄帝の末裔です。


 『倭』とは日本本土だけでなく、朝鮮半島南端の狗邪韓国も含みます。
倭人は朝鮮からの渡来人だという説は間違いです。倭国は、朝鮮半島南部から西日本までに至る海洋も含む広大な地域で、首都は日本側にありました。


 倭人の始祖は中国の黄帝で、春秋時代の呉越の王族の末裔です。これは科学的に立証されています。春秋時代の華南(江蘇省、浙江省)の民族と弥生人は、Y染色体、頭蓋骨の形状等が一緒なのです。



8)三国時代

 また、三国志とは別に、『三国志演義』という小説がありますが、この小説の中の主役は、蜀の劉備玄徳、関羽、張飛の三人ですが、『桃園の誓い』で三人は義兄弟になります。

【桃園の誓い】
24 桃園の誓い


 そして、途中から、諸葛孔明が加わります。
この話は面白いのですが、蜀と日本とは交流がなかったので、劉備玄徳の話をするのは止めます。

 それでは、赤壁の戦い以降の三国創立の話に移ります。


 曹操は漢を傀儡王朝にして政権を握っていましたが、西暦220年に曹操が没すると、嫡子の曹丕(そうひ)が漢を滅ぼし、魏王朝を開きました

これに対抗し、蜀の劉備玄徳が、翌年蜀王朝を設立し、そして、呉王朝が西暦222年に建国されました。
これより三国時代と呼びます

 劉備玄徳は、西暦223年に世を去ります。
それで、魏の大将軍の司馬遷(しばせん:仲達)は大軍を率い、蜀を滅ぼそうと兵を進めましたが、蜀の天才軍師の諸葛亮(孔明)に阻まれ、蜀を打ち破ることができませんでした。

 孔明の死後、蜀の国力は低下し、魏・蜀・呉の力のバランスが崩れていきました。しかし、蜀は四川の天然の要塞に守られていたので、命脈を保つことができました。



9)公孫氏

 西暦189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命されましたが、そのまま後漢から自立してしまいます。そして朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張しました。

 『魏志韓伝』によると、西暦204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置くほどまでに至りました。

25 公孫淵


 父の代に半独立を果たした公孫氏でしたが、曹操により再び後漢の勢力が強まったので、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられました。

 公孫康の後継にはその弟である公孫恭が立ちましたが、228年に公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとりました。
後漢が崩壊し魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていましたが、公孫淵は魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなどして、二枚舌外交を行い、密かに独立を謀っていました。そして、 236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称しました。
翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立
。近隣部族に印璽を与えるなどして魏を刺激しました。

 西暦232年に、蜀の天才軍師の諸葛孔明が没すると、魏にとり蜀は脅威にならなくなったので、西暦238年に、司馬遷が遠征し、朝鮮を支配していた公孫淵を滅ぼしました


 尚、西暦266年に、公孫淵を滅ぼした司馬懿の孫の司馬炎が魏を滅ぼし、西晋を洛陽に建国することになります。




3、 卑弥呼の朝貢

 卑弥呼の名前が登場するのは、『魏志30巻』の『烏丸鮮卑東夷伝』の中です。
『烏丸鮮卑東夷伝』では、烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭の政治や仕来り、地理、風物を説明しています。
この国々の中で『倭』を取り扱ったのが、『魏志倭人伝』です。

 それでは、魏、呉、蜀の3ヶ国あったのに、どうして、卑弥呼は『魏』に朝貢することにしたのでしょうか?

25 公孫淵

 上の図の右上の茶色のところに、公孫康と書かれています。公孫家は勢力を誇っており、卑弥呼が中国と外交・交易をするのを遮っていました。

ところが、魏の司馬睿(しばい:仲達)が公孫淵(こうそんえん)を滅ぼしたので、朝鮮半島が魏の勢力下に入りました。中国と日本間の道が開け、卑弥呼が魏に朝貢することが可能になったのです。


 三国の中では『魏』が圧倒的に強かったのです。そして、倭国から中国までの道程は朝鮮半島経由ですので、魏の領土を踏まなければ、呉にも蜀にも行くことができませんでした。それで、卑弥呼は魏の都(河南省洛陽)に朝貢することにしたのです。
また、公孫氏のように、呉にも朝貢し滅亡することを恐れたのだと思います。


26 卑弥呼


「邪魔者がいなくなったから、中国との外交や貿易を再開するわよ!
後漢から魏に乗り換えなくちゃね」と、卑弥呼が叫びました。


 公孫家が滅びると直ぐ、邪馬台国の女王 卑弥呼が魏に朝貢したのです。そして、魏への朝貢が切掛けとなり、魏志倭人伝に倭国(日本)のことが綴られ、当時の倭国の様子が明らかになりました。



 三国志により、卑弥呼の時代背景を理解して頂けたかと存じます。
それでは、今回の27話はこれで終わりにします。

次回は、魏志倭人伝に迫っていきます。



小説『邪馬台国ラプソディ』著者
川鍋 光慶
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