Ⅳ 悠久の歴史と新しい文化の風

古代大河小説『邪馬台国ラプソディ(YTR)』の著者の川鍋光慶です。YTRは古文書ホツマツタヱを含む各種の古文書と現地調査を基に解き明かした邪馬台国の真実をベースに作成した古代大河ドラマです。
若日孁

小説『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』の冒頭の部分は、倭国大乱を沈静化させる為に、豊受大神が天神嗣子家のイサナギと娘のイサナミを娶せたところから始まります。そして、ご両尊はヒルコ姫(卑弥呼)を授かりましたが、発育不全であった為、イサナギの厄年に災いが生じないようにと、ヒルコ姫は磐樟船に乗せて流されます。
磐樟船

その後直ぐ後に、イサナギと示し合わせたように、カナサキ(住吉神)はヒルコ姫を磐樟船からヒルコ姫を拾い上げ、ヒルコ姫を大事に育て上げました。ヒルコ姫が鎹(かすがい)となり、天神を中心とした同盟国が結束を固めていくことを、狗奴国は嫌がり、ヒルコ姫を亡きものにしようと企てます。しかし、天神同盟国は、一丸となってヒルコ姫の命を守り抜き、ヒルコ姫に忠誠を誓うようになりました。
2.jpg

 小説『邪馬台国ラプソディ』の次のシーンでは、ヒルコ姫の化身である華子が、ヒロインの耀子を、古びた古代中国の絵本の中に誘い入れます。最初のタイムスリップした先は、夏王朝の創設者の帝禹(う)が黄河の治水工事に携わっていた時代のことです。
小説・馬台国ラプソディに帝禹の話を挿入したのは、黄帝の子孫が遠い後世に、倭国に渡来し、帝禹の理想を倭国に根付かせたからです。
3.jpg

 帝禹の話に入る前に、少しここで立ち止まって、帝禹以前の中国の文明や歴史を紹介させて頂きます。この目的は、中国神話以前の領域にまで踏み込んだ方が、帝禹の偉大な業績が理解できるからです。

日本人は『中国四千年の歴史』と言いますが、中国人は『中国は五千年の歴史がある』と言って、怒ります。
中国の四千年の歴史

何故、中国人が怒るのでしょうか。実は、高麗時代の高僧が一然1280年代に編纂した『三国遺事』に『檀君神話』が書かれており、檀君が朝鮮に檀君朝鮮王朝を開いたのが、紀元前2,333年だと主張しています。韓国の教科書にも、朝鮮の建国は紀元前2,333年と書かれています。
つまり、『中国四千年の歴史』では、朝鮮の歴史の方が、中国の歴史よりも長くなってしまいます。しかし、考古学上では、紀元前2333年頃は、朝鮮には部落程度の遺跡も稀ですので、檀君神話は否定されています。都市に住む人口が多く、王宮と言える規模の遺跡が発見されていなければ、考古学的には捏造あるいは誇張とみなされてしまい、朝鮮の『三国遺事』のように、歴史書としての価値を失ってしまいます。

 ところで、『歴史の定義』は、いったい何なのでしょうか?
例えば、204百年前の猿人の骨が、長江三峡地区の重慶市巫山県廟宇鎮の竜骨坡や、安徽省繁昌県孫村鎮の癩痢山の『人字洞』で発掘されています。その骨は、『巫山人』のものです。
中国最古の骨
ここでは、打製の石器や骨器と同時に、六十七種の脊椎動物の九百点余りの化石標本(霊長類の上顎(じょうがく)骨と、下顎骨と歯の化石が発見されました。これらの化石は、類人猿のものではありますが、彼らは旧石器時代の生活をしていたんです。

また、1978年に中国陝西省大茘県で発見されたおよそ26万年前のものとされる初期人類の頭蓋骨です。大茘(ダーリー)で出土した頭蓋骨(スカル)なので、ダーリー・スカルと呼ばれています。可愛いらしい名前ですね!
ダーリー・スカル君は、ホモサピエンスの最古の化石と非常に似ており、火も使っていたんです。

そして中国というと、有名人の北京原人(約55万~25万年前)を忘れてはいけません。とても凛々しく、理知的で火や打製石器を用いていました。北京原人は猿人ですが、私の寝覚めの顔のようにイケメンなのです。
北京原人

ホモ・サピエンス(ラテン語: Homo sapiens)とは、「賢い人間」の意味なのですが、現生人類は、ホモ・サピエンス・サピエンス種と呼ばれ、賢い・賢い類の人間なのです。そして、私の寝覚めの顔よりも、欧州系のホモ・サピエンス・サピエンスは、ちょっとだけイケメンかもしれませんが、その違いは五十歩百歩だと信じています。
欧州現生人類
北京原人は、打製石器や火を使っていて、賢かったのですが、現生人類に含まれないので、勿論、歴史の対象にはなりません。しかし彼らは、人類の旧石器時代の生活を送っていたんですよ。
さて、石器時代は、打製石器を使う旧石器時代、黒曜石を割って作る細石刀を使用する中石器時代、そして磨製石器を使う新石器時代に分けられます。そして、日本の縄文時代は、中石器時代から新石器時代にかける時代を指しているんです。


 それでは、先ずは、東アジアの古代文化に関してから、話していきますね。
一番古い土器は、中国の広西章チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡で、最後の氷河期の終末期の紀元前18000年頃に製造された土器が発掘されたものです。
また、先程紹介した仙人洞や湖南省道県玉蟾岩遺跡でも、紀元前16000年頃に製造された土器が出土しています。
流石に、中国はスーパー・オールドの国ですね。スーパー・オールドを日本語に翻訳すると、『悠久の歴史』になります。下の写真が、日本の縄文土器よりも古い玉蟾岩遺跡から出土した土器の写真です。
中国最古の土器

そして、日本最古の土器は、青森県大平山元遺跡で発掘された縄文式土器だと言われます。紀元前14500年頃に製造されたそうです。黒曜石の細石で刀を作っていたので、中石器時代(縄文時代初期)の遺跡です。この時代は、部落はありましたが、国の規模ではなかったので、歴史には含むことは難しそうですね。


 それでは、次に、稲作に関して話しますね。
中国の仙人洞からは、最古の米の化石(プラント・オパール)が発掘されています。それで、最古の稲作(陸稲)は紀元前12000年頃とされています。しかし、土器と同時代まで遡る証拠が将来発見される可能性があります。
プラント オパール


ここで、狩猟(移住)生活から、定住生活に移行した歴史を説明します。
中国では、新石器時代(紀元前7500年頃~)には豚や鶏の飼育がされており、雑穀栽培や牧畜が盛んになり、定住するようになりました。(環濠集落)
河北省武安県磁山の磁山文化人(紀元前6000~5000年頃)では、円形・楕円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いており、粟貯蔵穴が発見されています。また、浙江省寧波近郊の河姆渡遺跡は、紀元前5000年頃の遺跡ですが、高床建築を示す柱、炭化した米(陸稲)が出土しています。こうして、人々は定住するようになっていきました。しかし、部落単位の規模で、国と言える規模ではありませんでした。

 日本の青森県青森市にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、紀元前2500年頃の遺跡ですが、丁度、中国の紀元前6000年頃の集落と同様のものであったと考えられます。陸稲に関しては、青森県の大平山元遺跡や三内丸山遺跡の等、日本の北部から渡来し、南方に拡散していったと考えられます。しかし、陸稲だけでは、それだけでは国を維持することなど不可能です。
その後、三内丸山遺跡は米の水稲栽培を行っていなかった為、縄文時代も冷寒期になると、食物不足となり、人々が離散してしまいました。(縄文人の人口は、紀元前2300年頃にピークは23万人いたのですが、紀元前1000年頃には、食料不足で等の理由で8万人まで減少してしました。)
三内丸山遺跡


 ところで、陸稲は古くから栽培されていましたが、米の水耕栽培は中国の新石器時代からとなります。陸稲は灌漑工事や治水工事が不要な為、容易に作ることが可能ですが、その半面、美味しくなく、単位あたりの収穫量はとても少ないものでした。だから、陸稲だけでは生き伸びるための糧とすることには無理があります。そこで、狩猟の他に、初期の農業として、雑穀や栗等を収穫して暮らしていました。


 中国で米の水耕栽培が始まったのは、太湖の畔の蘇州市にある草鞋(そうあい)山遺跡で、紀元前4000年頃の最古の水田の跡が発見されています。従って、この頃より、定住革命を経て、農耕革命へと移行していきます。
中国最古の水田碑
中国最古の水田のレイアウト
 この時代になると、治水工事や灌漑工事の為に、小規模な国々が誕生していったと考えられます。

 日本の米(赤米)の水耕栽培の始まりは、佐賀県唐津市の菜畑遺跡です。放射性炭素14測定では、紀元前930年という結果が出ていますが、測定した国立歴史民族博物館(歴博)の測定結果は信頼できないことが過去の事例から明確に判明しているので、実際は、紀元前500年頃の遺跡だと判断できます(水耕栽培米が渡来した日本では、弥生時代になると、弥生時代の人口は60万人まで増加します)
菜畑遺跡



 これまでのことを纏めると、
1、 土器は紀元前18000年頃(日本:紀元前14500年頃)から製造開始
2、 陸稲の栽培も、土器と同じ時代に始まったと考えられる。
3、 竪穴式住居は、中国では紀元前6000年頃、高床式倉庫は紀元前5000年頃から建造され、日本の三内丸山遺跡に紀元前2500年頃に伝来した。このころより、定住生活が始まる。
4、 米の水耕栽培は紀元前4000年頃(日本は、紀元前500年頃)からで、農業革命が起こると、治水工事や灌漑工事を実行するために、国ができ、支配者や身分制度ができました。更に、農業に携わらない人々が技術者となり、農機具や武器を製造するようになりました。こうして、暮らしは豊かになり、人口が増加した反面、国と国の間で戦争が起こるようになりました。
5、 そして、古文字の話は前回のブログで話しました。


 それでは、今回の最後に、古代中国の考古学者が選ぶユートピア文化を紹介しますね。
紀元前7000~5000年に、河南省漯河市に裴李崗(はいりこう)文化と呼ばれる新石器時代の共同体の文化があり、70を超える遺跡が残されています。アワを耕作する農業やブタを飼育する畜産を実践していていました。
理想郷の壺
理想郷の調理道具

更に、タンチョウの骨から作られた古代の笛が発見されており、発見された当時、まだ演奏が出来る笛があったそうです。音楽や芸術にも造詣が深かったようです。
理想郷の図

更に、未解読の賈湖契刻文字が発見されています。
理想郷の文字
これは、亀甲に掘られた記号ですが、メモの用途で使用されたもので、歴史は刻まれていいないようですので、この遺跡は有史時代のものと呼ぶことはできません。


 ところで、裴李崗文化では、政治組織は殆ど無く、平等主義であったため、考古学者達は理想郷だとしています。
この時代は新石器時代の始まりで、温暖であり、竪穴式住宅もあり、飢餓の心配も不要なので、衣食住に困ることはありませんでした。それで、このユートピアを成り立たせることができました。しかし、後世の遺跡は寒冷化に伴い飢餓が生じたり、天変地異(洪水や津波等)で住居地を放棄した事例が殆どなのです。
従って、中国では、今でも、裴李崗文化を理想郷だとしていますが、何万年もの間続いた石器時代に関しては、理想郷だという人は誰もいないようです。
やはり、様々な条件を全て満たさねば、ユートピアにはたどり着けず、その実現の可能性は低いのかもしれません。
とは言って、仏教の世界観のように煩悩を捨てれば、もしかしたらユートピアの夢は実現できるかもしれませんが、煩悩が満ち溢れている私にはそれも難しそうです。暫くの間は、娑婆の世界を彷徨わねばならないのでしょうね。
しかし、我々の子孫のために、ユートピアに近づくための努力を怠ってはならないということは、肝に銘じなければならいと思っています。


次回は、三皇五帝の話に移ります。三皇五帝や夏王朝の帝禹の足跡、黄河文明と長江文明や青銅器時代の遺跡の中に、実存した証拠が沢山残されています。そうした遺跡や神話等を紹介していくつもりです。
これらを知れば、私の小説が、より興味深く感じられると思います。


邪馬台国ラプソディ著者
川鍋 光慶


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

詳しく知りたい中国史

これまで教科書で教わった日本史・世界史は、
争いごとの歴史ばかりでした。

年表通りに覚えれば知識を得たことになり、
知ったつもりになってしまいます。

古代遺跡から出土したものから、当時の人たちは
どんな生活や、文化を営んでいたのか。
想像力を駆使して深く洞察することは
忘れられてきたように思います。

厳しさの中で命を繋いできた人たちの生き様を知らなければ、
現代人の生き方が分からなくなるのは当然だと思います。

忘れていたものを取り戻し
魂が望む生き方へ導くもの

そういうものが、
考古学の役割なのかなと思います。

古代中国の出土物は興味深いですね。
日本との関連も自然と受け入れられるものが多そうです。

縄文時代の縄文人は
「遺す」意識は無かったのではないかな?

出てきていないものが、いろいろと出てきたら
面白くなりそうだな~と思っています。