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Ⅵ 三皇五帝 倭人、秦氏、安曇族は、皆、黄帝の末裔

6回目のブログです。前回のプログで、中国の三皇神話(女媧、伏義、神農)の話を少しだけ話しました。しかし、Wikipedia風の乾燥した内容だったので、今回は、伝承、歴史書、考古学を基に、邪馬台国ラプソディ風に小説仕立て(ただし粗筋のみ)にしました。信頼性は低いかもしれませんが、当たらずしも遠からずだと思って下さい。

若日孁


1、 三皇の復習
 それでは、女媧(じょか)と伏義(ふくぎ)の兄妹の物語からスタートしましょう。

(1) 渭水の大洪水
 女媧と伏義は、『渭水(いすい)』の辺りにある『天水』で生まれ育ちました。二人は、とても仲の良い兄妹だったんです。
しかし黄河の最大の支流の渭水(渭河)は、時々大洪水を引き起こしました。そこで、二人の父親は洪水が起こらないようにと、様々な治水工事を行ってきました。その甲斐もあって、ここ久しく大洪水が途切れていました。
しかしある日、大空は真っ黒になり、雷が鳴り響き始めました。兄妹は土砂降りの中、必死に山頂目指して山を登っていきました。山頂近くの洞窟に辿り着くと、その中で暴風雨がおさまるのを待ちました。洞窟>の外には、大きな瓢箪の実がなっており、風雨に晒されてブラブラと今にも落ちそうです。
 その時のことです。渭水の上流から波の壁が押し寄せてくるのが、眼下に見えます。龍の形をした大量の水は、谷を埋め尽くし、やがて大洪水となり、辺り一面は茶色の水で覆い尽くされました。兄妹はブルブルと震えながら、洪水が鎮まるのを待ちました。
やがて日が出て、辺りが明るくなってきた時、洞窟の外に出ると、二人が育った村は茶色の湖の下に沈んでいました。畑も放牧地も、家や礼拝所も洪水に押し流され、跡形もありませんでした。二人の瞳から、溢れ出る涙がこぼれ落ちました。

【甘粛省南東部にある天水市】
 天水市は西安の西にありあり、渭水(いすい)が流れています。
天水は、新石器時代後期には、苗(みゃお)族の村がありました。そこで稲族が女媧・伏義の洪水神話を語り継いできました。この地は、秦の始皇帝が誕生した地でもあり、神話時代の歴史の揺籠でした。沢山の旧跡がありますが、伏羲の生誕の地という言い伝えが残っており、後世に『伏羲廟』が建造されました。

【天水麦積山】

天水麦積山

【伏羲廟】
 天水は伏羲の生誕の地ですので、『伏羲廟』が建造されました。
興典明道1


 (2)青春の旅立ち
 兄妹の二人だけになってしまい、伏羲は途方にくれていました。
「俺たち以外誰もいなくなってしまった。これでは、俺たちの祖先の血脈を後世に残すことができない。ご先祖様に顔向けができない。困ったな!なにか良い手立てがないものか?」
すると、妹の女媧が兄に言いました。
「私、お兄ちゃんが好き!私たち結婚して、子供を沢山つくって、私たちの血脈を残したらいいじゃない!
「うん。それは良い考えだ。
俺だって、お前のことをずっと愛していたから、そうなったら嬉しいよ!」
「私、とっても幸せだよ!」

「でも、この地は洪水の被害があまりに酷く、復興させるのが難しそうなだ。
致し方ないが、新しい肥沃な大地に移り住み、そこで、二人だけの桃源郷を築こうか」
「賛成!異議なし。私はどこまでもお兄ちゃんの後をついていくよ」
二人の旅立ち

 それから、地図の『1、天水市』から、二人の幸せへの旅路が始まりました。
天水市は、西安(長安)の西にあり、シルクロードのスタート地点で、秦の始皇帝の生まれ故郷でもありました。二人は、西ではなく東を目指し、ひたすら歩き続けました。
足跡

 そして、山西省南部にある『5、臨汾(りんふん)』に辿り着くと足を止めました。臨汾近辺で王国を築きあげると、臨汾(りんふん)を拠点に国土拡大を推し進めました。
次に、東に向かい河北省の邯鄲(かんたん)にまで国土を広げていきました。そして、邯鄲で兄妹は愛を育み、可愛らしい四人の子供を儲けました。


【媧皇宮(河北省邯鄲市の西にある唐王姣山)】
女媧と伏義は、この地で、子作りに励んだと伝えられている。また、臨汾と邯鄲で、国民を徴集し、国造りを進めた。
女媧廟


(3)国土拡大の旅
 子どもたちが成長していく姿をみて、ある日、伏義が女媧に告げました。
「国土を広げるために、私たちは黄色い大河の北の地を開拓してきた。君がいたから、ここまで頑張れた。
でも、将来、子どもたち全員に領地を分け与えようとすると、今のままでは国土が狭すぎる。国土をもっと広げねばならないな。
そうだ、この土地はお前に任せて、俺は黄色い大河の南の地を開拓することにしよう」
「それなら、子どもたちと私も一緒に連れて行ってよ❣ね、お願い」
「野蛮な南の地に行くのは危険なので、愛しい家族を連れて行くことなんかできない」
「それなら、寂しくなるから嫌だ。行かないで」
「我儘を言わないでくれ、君が寂しくないように、子供たちはここに置いていくよ。そして、頻繁に返ってくるから、許してくれないか?」
「・・・・・・。お月さまが細い三日月になって夜が暗く寂しい時には、必ず返ってきて、私と一緒にいてね。約束だよ!」
「勿論だ」と言うと、数日後、伏羲は兵を連れ、南を目指して国造りの旅にでました。
いつしか年老いて、女媧が没すると、河南省の『5、臨汾』に葬られました


【臨汾】
 今のご時世は、結婚生活が長くなると、『あれから○○年。亭主元気で留守が良い』と言われるようになるので、伏羲は幸せな時代に生まれたんだなと、羨ましく思います。
臨汾は河北省にあります。『帝王世紀』によれば、五帝の堯が都城を設けたという平陽が、現在の臨汾に当たるとされています。

(4)女媧が生きた痕跡
いきなり驚愕ニュースから入ってきました。
2012年6月10日、新華網は「山西省臨汾市吉県人祖山で、女媧と見られる遺骨を発見」という記事を掲載しました。紀元前4200年頃の頭蓋骨を調べたら、女媧のものだと言うのです。 中国は神話の世界の神様でも、人間として暮らした痕跡が残されていることが多いのです。
http://www.recordchina.co.jp/b61991-s0-c30-p1.html

 この記事の内容は、以下の通りです。
『西山西省臨汾市吉県人祖山で、女媧と見られる遺骨が発見されました。
人祖山には約200もの廟がありますが、中でも「三皇」時代の神・伏羲と女媧を祭った人祖廟が有名です。1984年、人祖廟の一部である媧皇宮が破壊された時、『女媧像』の下に人骨が埋まっているのが発見されました。
『女媧像』の下から出土した黄色の紗に包まれ、木の箱に収められていた遺骨は、紀元前4200年頃の頭蓋骨でした。この骨を北京大学で調査したところ、女媧のものだと考えられるとのことでした』
女媧稜石

【女媧像】

女媧像


(5)伏羲の新たな国造り
 伏羲が引き連れた兵たちは、河南省周口市の『4、淮陽』に辿り着き、淮陽(わいよう)で国造りを始めました。そして、河南の地も領土に加えました。
女媧と伏義は中国の生みの親となりました。

【淮陽】
その後、淮陽を首都と定め、女媧と伏義の子孫が跡を継いでいき、更に国土を広げました。神農は、この地を最初の都とし、更に国土を広げていきます。

【伏羲廟】 伏羲が祀られています。
伏羲殿
 伏羲廟 周口

「伏羲は、本当に幸せだったのかな?」
「生前はどうだったか記録にないので分からなけど、今は幸せじゃないかな」
伏羲人形

伏羲大典

中国を代表する河南龍山文化(紀元2700から2200年)は、黄河文明の中心ですが、伏羲の子孫が開拓した文化だったのかもしれません。
【出土された刻画符号のある陶片】
刻画符号


(6)神農(炎帝)の生誕
 それでは、次に神農(炎帝)の話をします。(私が文献から得た知識ですので、信頼性に欠けますが、お許しを!)
神農は湖北省随州市曾都区(烈山)で生を授かりました。
母は有媧氏の娘の女登と言います。彼女は、お産の際に、神龍の気配を感じて、一風変わった男の子を羌水の辺りで産み落としました。
「この子、あまり美男子じゃないわね。まるで、牛みたいな顔をしているけど、逞しくて素敵だよ!


【随州】
姜石年が生まれた随州は、後に、隋朝を開いた楊堅(煬帝の父)が刺史に任じられたことで、隋朝の名称の由来となりました。また、随州は中国共産党が蜂起しました。
時代の変わり目に登場してきた旧跡の町です。

高級殿堂

【州炎帝神农故里风景区】
神農門

神農博物館

神農像 廟前

【神农尝百草塑像】
神農堂百草像


(7)姜石年の青春時代
そして、姜水の畔にある『2、宝鶏(ほうけい)』で育ちました
随州で生まれたけれど、これからの育てる場所は姜水だから、『姜石年』と名付けるわね。
また、姜石年が起こした一族は、羌水で育ったので、羌(きょう・ちゃん)姓になりました。
姜石年は火徳の人でしたので、後に『炎帝』と呼ぼれるようになりました。

姜石年は奔水氏の娘の聴詙を娶りました。聴詙の体つきは柳のようで、肌は玉のよう。顔つきはまるで桃の花のようで、息は欄の花から生じる香りのようでした。本当に美しい天女の姿を彷彿させます。
しかし、ある日、聴詙が洞庭湖の玉沙城に出向くと、神龍の三人の王女も謁見の間に同席しました。王女たちは聴詙の姿を見ると、不安に駆られました。
「あの女と宴会の席で同席すると、亭主は私を捨て、私の元から去り、あの女の元に去っていくに違いないわ。そんな事は絶対にさせないわ」
「魚の漁師に命じて、あの女を魚臭くさせたら、問題は簡単に解決するわ」
「それは良い考えだわ」
と、三王女は相談し、実行に移しました。
聴詙の皮膚は鱗のようになり、腐った魚のような臭いを発生させるようになりました。
すると、神龍は聴詙を遠ざけ、傍に近づけようともしなくなりました。
妖魚

 その時、農業を広め、薬剤を探す為に神農(姜石年)がこの地を訪れました。魚の妖怪たちに囚われ、魚のように見える弱りきった乙女をみたとき、魚の妖怪の軍隊と戦いました。
聴詙を救い出した神農は、「君を元通りの人間に戻してあげるよ」と約束しました。
そして、聴詙を温泉や泡風呂に浸からせると、鱗のような肌や腐った魚のような体臭が消えていきました。そして、完治すると、聴詙は昔よりも更に美しくなりました。
神農は、とても美麗な聴詙に一目惚れしてしまいました。また、聴詙は心優しい神農を心から愛するようになりました。
そして、めでたく神農と聴詙は結婚し、聴詙は魁を産みました。そして、その他に四人の王女を産み、幸福な生涯を送りました。魁は神農の跡を継ぎ、この王朝はその後、承、明、直、釐(タイ)、哀、克、楡罔と530年八代続きましたが、黄帝軒轅氏に代わりました。

【宝鶏】
 宝鶏市は、陝西(せんせい)省にあり、西安の隣町です。
後の時代に、宝鶏は、周王朝や秦の発祥の地となり、周原をはじめ多くの遺跡が残されています。漢の建国に奔走した韓信や三国志の孔明の縁の地でもあります。
宝鶏は、神農縁の地として、神農を祀る廟や御陵と呼ばれる旧跡が残されています。

炎帝稜入り口門

華夏始祖

神農稜

神農稜上り階段


(8)神農王誕生
足跡

姜石年には聖徳があり、無懐氏の後を継ぎました。伏羲氏の政治を継承した無懐氏とは、女媧と伏羲の子孫です。
木徳の帝王だったので、五行説に則り、姜石年が木徳を継ぐ火徳の帝王となりました。それで、官名に「火」を用いるようになり、「炎帝」と号しました。、この頃は、南方の夏を主宰していました。

都は、伏羲が建国し、身罷った河南省周口市の『4、淮陽(わいよう)』におきましたが、この地を『陳』(河南省商丘市)という名に改めました
また、木で鋤を作り農耕を教えたので神農氏といわれるようになりました。
医薬、五弦の瑟(琴)を作り、物々交換の市を開きました。更に、伏義氏の八卦をとり64卦を創作したとも言われています。

神農地図

 炎帝(神農)は朴質実直で争いを嫌いましたが、財が満たされました。制令を出さなくても人々が帰心し、威厳があって厳しくても死刑を用いることはなく、煩雑を嫌い簡単明瞭な政治を行いました。
諸侯の夙沙氏が謀反を起こし、命令を聞かなくなりました。そこで、神農の臣・箕文が夙沙を諫めましたが、逆に殺されてしまいました。それでも、神農は夙沙氏と戦おうとしないで、退いて徳を修めました。その結果、夙沙の民は主君を攻めて神農に帰順しました。

また、神農は山東西南部の斧燧部族と戦いました。神農氏は北上して遂に斧燧氏を破り、その土地を併合しました。この地を鎮めるために、山東西南部に移住し、現在の『曲阜(きょくふ)』に遷都しました。この戦争の後、周辺の部族が神農氏に帰順しました。曲阜は孔子の故郷です。
神農は神明の徳に通じ、天と人を和すことができたため、南は交趾、北は幽都、東は晹谷、西は三危に至るまで、服従しない場所はありませんでした

神農は、全国に農業の普及に出向き、新薬の開発を進めました。しかし、湖南省で強烈な毒草を服用し、炎陵県鹿原陂で亡くなりました。そこで、その逸話に従って、神農の御陵が後に特定され、廟が建造されました。

【炎陵県鹿原陂】
神農が身罷ったとされる地には、廟と御陵が建造されています。

炎帝稜 石碑

炎帝稜階段

炎帝神殿

神農稜景観

炎帝神殿柱

炎帝彫刻

神農氏の世は八世続きます。神農の後、帝承、帝臨、帝明、帝直、帝来、帝哀、帝楡罔が天下を治めました


 ところで神農は日本でも人気者で、日本の『中世絵話集め』の中に『神農絵巻』があります。神農が屁で妖怪退治をする話です。(兵庫県立歴史博物館所蔵)
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/digital-exhibitions/ebanashi/st0008.html
神農 屁攻撃

神農は皮膚が透明で、内臓が透けて見えたそうです。
神農 人体模型図
上の写真は、『目でみる漢方史料館(168) 臓腑神農像 解説 真柳 誠』からお借りしたものです。日本の薬屋さんの宣伝用に作られたモデルだそうです。



2、五帝
(1) 黄帝の履歴書
 五帝のファースト・ランナーは黄帝です。黄帝は中国を初めて統一したのですが、実は家系図が不明瞭で、黄帝の足跡が分からないのです。そこで、色々な文献を調べてみましたが、他の三皇五帝のお手柄まで横取りしている部分があり、更に黄帝の功績に靄がかかった状態です。致し方ないので、私流の解釈による物語の筋書きを語っていくことにします。

 神農が猛毒の野草を服用し身罷ると、神農の子孫が7代に渡り、王座を継いできました。
しかし、神農王家の末期になると、王家の力が弱まり、王族の有族豪族が力を持つようになり、国が乱れました。
 この頃に生を授かったのが、黄帝と八代目神農、そして蚩尤でした。
当時は母系家族性の時代で、摂関家の有蟜(ゆうきょう)氏が権勢を謳歌していました。そこで、有蟜氏の娘を娶ることが、王になるための一つの必要不可欠な条件でした。
それで、7代目神農王の帝哀や、夏族の有力王族の少典氏は、有蟜氏の娘を娶りました。
7代目神農王の帝哀が生んだ子が、【帝楡罔(ゆもう)】です。

黄帝 参加国地図


(2) 軒轅の誕生
 少典氏は、有蟜(ゆうきょう)氏の『附宝(ふほう)』を娶りました。
この附宝は、ある晩、大きな雷光が北斗枢星(北斗七星の一つ)を巡り郊野を照らすのを見ました。
雷

「神聖な光が私の中に入り込んだみたいで、お腹が暖かくなったみたい。恍惚の世界に迷い込んでしまったみたいだわ」
附宝が身籠もったという情報を耳にすると、少典氏は性別占いを行いました。その結果は『男子出産』でした。そこで、喜んだ少典氏は少典一族の長の座を長男に譲り、附宝のお腹の中の子を、出産前でしたが、有熊国に封じました。

そして、しばらくすると、附宝が有熊国の都だった軒轅の寿邱(寿丘)で出産しました。緑児は軒轅と名付けられ、有熊氏を号しました。また、姫水の辺りで育ったので、有熊氏から姫氏へと改姓したそうです。
黄帝(軒轅)と神農氏(帝楡罔)は親戚関係にあたります。

【河南省(鄭州市)新鄭市軒轅路】
 新鄭市は鄭州メトロポリタンの飛行場がありますが、ここに黄帝の生誕地として知られています。軒轅か生まれたとされている場所は、現在、『軒轅路』と名付けられています。


【黄帝橋の下を流れる川が姫水か?】
姫水?

【新鄭市の黄帝廟】
黄帝廟 鄭州

黄帝像 鄭州


(3)軒轅の国造り
軒轅は、霊験あらたかな顔立ちで生まれました。
そして、話を話し始めるのが、他の子よりも早かったのです。幼い頃から賢く、また俊敏に動きましたが、成長するにつれて誠実勤勉な青年になっていきました。
「軒轅の額の中央が隆起していて(日角)、龍顔で、聖徳があるわ。本当に聡明な成人になったわね!」と、附宝は繰り返し呟きました。

成人になると、軒轅は徳による政治をすることに努めました。軒轅は色々なお触れを出しました。
「今は、狩猟もしているので、家臣が毛皮を服にしているが、威厳が感じられない。そうだ!天地の形象を参考にして、臣下用の上衣と下裳(袴)を作り、正装にしよう」
「舟を造って、通行が遮断されていた河川を行き来できるようにするぞ!」
「馬を操って、重い物を遠くまで運ぶようにしなさい。皆の者、牛を飼い馴らしなさい」
「重門を造り、夜の巡視を開始して、盗賊が家に侵入できないようにしなさい!」
「臼と杵を作ってあげて、万人が飢えないようにしなさい!」
「弓矢を作って、天下に威を示しなさい!」

 その他にも、五気を治めて、五量を設けました。五気とは「五行の気」です。天地や四季の変化、陰陽の規律のことです。五量とは重量(権衡)、容量(升斛)、二種類の長さ(尺丈・里歩)と数字の概念(十百)を指します。
また、五穀を植え、万民を慰撫し、四方の土地を区画整理しました。都市構想の始まりです。

【黄帝橋】
黄帝橋

こうして、国内が治まると、兵を鍛え、熊・羆・貔・貅・貙・虎といった猛獣を訓練して手懐けました。


(3) 黄帝と蚩尤 涿鹿の戦い
 神農王家が没落していくと、王家の軒轅(黄帝)、蚩尤(しゆう)が台頭し、戦いの時代が幕を開け、三つ巴の戦いの火蓋が切って落とされました。
三士族の以外の、中原を外れて北部に住む葷粥と玁狁、西北の戎族と羌族も、その戦いの渦に巻き込まれていきました。

神農家(楡罔)は、女媧が国造りをした淮水(わいすい)の辺りの陝西(せんせい)省、河北省、山西省の地域や、淮陽(わいよう:陳)に都を置きました。
軒轅(けんえん:黄帝)は、伏羲が国造りに奔走した河南省の鄭州で善政を施し、名声を高めました。また、軒轅は初代神農が始めた農業技術を取り入れ発展させることで、農業生産高を上げ、その地の経済を興隆させました。

蚩尤像

そして、河南、山東、河北が交わる地域には、蚩尤の拠点があったと考えられており、『九黎の都』と称されています。蚩尤率いる九黎は中原一帯で農耕を信仰し、銅や鉄を冶金し、軍隊を整備し、百芸を創り、文明を前進させたので、初期の中国の文明の発展に多大なる貢献をしました。河北省の涿鹿県内には蚩尤墳、黄帝泉(阪泉)、蚩尤三砦、蚩尤泉、八卦村、定車台、蚩尤血染山、土塔、上下七旗、橋山などの遺跡が残っています。

蚩尤と炎帝は共通の先祖が枝分かれした関係です。
蚩尤は姜姓で、炎帝の子孫です。炎帝と蚩尤は共に神農氏族の流れを汲んでおり、農耕部落連盟に属しています。
神農は神農氏族の直系の子孫であり、神農氏が農業や医薬を発明したことによる偉大な功績のため、神農氏の直系は代々部落連盟の首領となり代々炎帝を称していました。

蚩尤井戸

神農が興した苗族(黎苗族)を配下にしましたので、勇猛果敢な九黎(羌族、三苗)を従える蚩尤は、向かうところ敵なしの状態でした。
また、時代は石器時代の末期でした。蚩尤の領土内には塩の産地があったので、塩を煮詰めて生産していました。その製造過程で金属の精錬法を発見して、冶金技術を発展させました。そして、様々な種類の銅や鉄で鋳込んで製作した金属製の兵器や農機具を製造できるようになり、武力面で敵国を圧倒していました

蚩尤図

 紀元前2500年前後のことです。蚩尤は神農氏の楡罔が住む空桑(陳)を攻めました。楡罔の親衛隊は弱小で、軍隊は蚩尤にまかせていたので、あっけなく敗戦し兵を引き上げました。
その後、神農軍の楡罔は軒轅の軍に合流すると、軍の指揮権を軒轅に委ね、戦いの火蓋が切って落とされました。これが、天下分け目の戦いとなった涿鹿の戦いでした。『涿鹿(たくろく)の戦い』は、北京の西方にある湖北省涿鹿で起こりました。
黄帝遠征図

知勇兼備の軒轅(黄帝)は炎帝側の部族連盟の総大将となり、蚩尤と死闘を繰り広げました。力が拮抗していたため、すぐに膠着状態に陥り戦いは長期にわたりました。

【黄帝が用いた方位計車】
黄帝の方位計車

軒轅(黄帝)軍は勇猛に戦いましたが、蚩尤軍は屈強でした。蚩尤は戦闘では剣や斧、矛を持ち勇敢に戦いました。猛獣のような戦士もいます。不死で休むことなく戦い続けることができ、比類なき勇猛さを誇りました。さすがの黄帝も力でねじ伏せることが出来ずに天に助けを求めました。

蚩尤の81人の同盟者達は、全員勇猛でした。更に、美女を誘拐し陵辱する野蛮な部族たちも、この戦いに参戦していました。
更に、蚩尤側には、天候予測に長けた風伯飛廉が参戦し、雨師屏翳は土木工事が得意でした。二人は大洪水を引き起こし、黄帝軍を追い込みました。
黄帝雨


 その時、女神の旱魃(かんばつ)現れ、軒轅(黄帝)に味方しました。裁断を築き、天に祈ると、今までの土砂降りが降り止み、青空がでてきました。すると、形勢が一気に逆転しました。
旱魃

 黄帝は翼のある龍である応龍を召還して、この雨水を蓄えさせて、蚩尤陣営に一気に放水して蚩尤軍を壊滅させました。旱魃により雨が止み、空が突然晴れたので、蚩尤軍は驚き、黄帝軍はこの隙に乗じて黄帝自ら大軍を率いて蚩尤陣営に攻め入り、そのまま蚩尤軍を圧倒して、ついには応龍が蚩尤を倒し勝利を収めました。
蚩尤は不死身でしたので何度斬っても生き返ってしまいました。そこで蚩尤が生き返らないように、手足を縛り付けてから、身体を四つに斬って四方へと埋葬しました。
河姆渡遺跡には、最も古い井戸があります。それを、炭素14年代測定で調べると、5700年前に存在していたことが判りました。
蚩尤を殺すときには、天は曇り、地は暗闇になり、流れ出す血は川となりました。蚩尤は黄帝に斬首され首級は埋葬されました。そして、埋葬された首は血楓林に変わりました。
その後黄帝は蚩尤を”兵主”、すなわち戦争の神とし称えました。その勇猛さは人々に畏怖の念を抱かせるので、黄帝は蚩尤の形象を軍旗に用いることで兵を勇気づけました。兵たちは勇猛に戦ったので、黄帝と相対した諸侯たちは蚩尤を見ると戦わずに降伏してしまいました。
蚩尤の率いた部族連盟は黄帝と炎帝に吸収融合され、その一族が漢族となりました。

【イ族の踊り】
黄帝は少数民族の羌族、苗族、イ族を戦争で打ち破りましたが、少数民族は戦いに猛獣を使ったとされている。以下は、彝(イ)族のお祭りの写真です。
彝族踊り

風習から見れば、イ族の火葬やたいまつ祭り、儺の仮面や儺祭りで踊る大鑼笙舞やヒョウの舞、トラの舞、ぺー族の多神教の習俗、万物に霊魂があるという信仰など、すべて古代チャン人の習俗と一脈通じます。今日まで伝えられている『哈尼阿培聡坡坡』という古い歌曲は、祖先の引越しの歌です。遡って追跡すれば、茶馬古道は実は古代チャン人の西遷の神秘な道なのです。湖北省には、動物の格好をした『蚩尤劇』も存在します。
蚩尤の実力は、部落連盟の盟主である神農を滅ぼす一歩手前まで追い込み、黄帝軍と戦っても連勝を重ねました。


(4)黄帝と炎帝・阪泉の戦い(前30世紀~前2070年)
 軒轅(黄帝)は、蚩尤を滅ぼすと、蚩尤の拠点である冀州城を占領しました。この冀州城には蚩尤側の冶金施設が無傷で残っていたために、黄帝は鉄の武器を手に入れることができました。この出来事を以て、中国の新石器時代石器時代が終わったとされています。

その後、朝貢に来ない諸侯を武力で討伐しました。すると、諸侯はしだいに斜陽の神農氏から離れて、軒轅に帰服するようになりました。そこで、自分で天下統一しようと、固く心に誓いました。前30世紀~前2070年

 涿鹿の戦い後、黄帝部族連合体と炎帝部族連合体の対立が大きくなり、衝突しました。
黄帝は熊、羆、貔(ヒ)、貅、貙、虎の6つの図騰(トーテム。民族・部族の象徴)をもつ部族とともに炎帝部族連合体と戦い、阪泉(山西運城解池)で三戦三勝しました。その結果、神農部族は黄帝部族に吸収さました。
黄帝部族はその後、更に拡大し、華夏族の中心となっていきます。
黄帝と神農は華夏族の始祖とされます。
 この後、黄帝は諸侯に不服な者がいると征伐を行い、完全に平定してからその地を去りました。遠征の際には山林を切り開いて道を作ります。前後五十二戦してやっと天下を帰服させました。


(5)黄帝誕生
 諸侯は神農氏の代わりに軒轅を天子に立てました。軒轅は黄帝と称します。黄龍が現れたため、黄帝と号したといわれています。涿鹿を都にし、黄帝が即位しました。黄色は中和の美色といわれています。土徳の瑞祥が現れたため、土の色である黄色を号とし、黄帝と名乗りました。窮桑で即位して曲阜に遷ったとも言われます。

こうして善政を行った結果、人々の生活は安定して夭折することがなくなり、盗みを働く者もいなくなったため城門は夜になっても閉じることなく、五穀は豊作が続き、禽獣が人を襲うこともなくなりました。黄帝の名声は遠国にまで届き、貢物が献上されました。
そして、春秋時代の中国に匹敵する領土を獲得しました。

黄帝領土

黄帝は吉祥の宝鼎を得ることができました。そこで封禅の儀式を行います。帝王にのみ許された天地を祭る儀式です。封禅の他にも鬼神や山川の祭祀を頻繁に行いました。その数は歴代の帝王の中で最も多かったそうです。

 黄帝が逝去されると、葬儀が執り行われました。群臣の左徹(官名)が黄帝の徳を慕い、木を削って像を造り、衣冠、几(肘掛)、杖と共に廟に配しました。この後、諸侯・大夫が年や四季ごとに祭祀を行うようになりました。
そして、黄帝は上郡陽周の橋山に葬られました
軒轅廟は黄帝廟とも呼ばれ、中国陝西省延安市皇陵県の北方3kmの橋山にあります。
黄帝は、紀元前2598年に逝去されたと言われます。

黄帝肖像画

黄帝像

黄帝稜

黄帝城


(6)黄帝の皇室
 黄帝には四妃がおり、二十五子が産まれました。そのうち十四人(または十三人)が姓を得ました。「姓を得た」というのは諸侯となったという意味です。但し、十四人の中には同じ姓になった者もいました。「姫(二人)、酉、祁、己(二人)、滕、葴、任、荀、僖、姞、儇、衣(または「依」)」という十二姓が『史記・索隠』に記載されています。

 元妃(正妻)は西陵氏(国名)の娘で嫘祖(または「累祖」)といい、昌意を産みました。七十七年に若水に封じられた人物です。
次妃は方雷氏の娘で女節といい、青陽を産みました。
三妃は彤魚氏の娘で夷鼓を産みました。別名を蒼林といいます。
四妃は嫫母といいます。

ちなみに黄帝の妻・嫘祖も神話伝説に度々登場します。
民に桑を植えて養蚕することを教えたともいわれています。
黄帝の後継者について『史記・五帝本紀』はこう書いています。
「昌意(黄帝と嫘祖の子)は蜀山氏の娘・昌僕を娶り、高陽を産んだ。高陽は聖徳があった。黄帝が死ぬと、その孫で昌意の子である高陽が跡を継いだ。これが帝顓頊である
黄帝は、中国を初めて統一した帝です。そして、その後の多くの皇帝が、黄帝の子孫です。
下記の家系図を御覧下さい。

【史記五帝本記の系図】
黄帝家系図

 黄帝には二十五人の男子がありましたが、姓を得たのが十四人だけです。
黄帝は軒轅の丘に住み、西陵国の娘を娶りました。これが嫘祖(るいそ)です。嫘祖は二人の男子を得ました。上の子は玄囂(げんごう)といい、江水のほとりに住んだ。次子は昌意で、若水のほとりに住みました。
 昌意は蜀山氏の女の昌僕を娶りました。昌僕は高陽を産みました。高陽には聖徳があったので、黄帝が崩じて橋山に葬られると高陽が立った。これが顓頊である。

 五帝は、黄帝、顓頊(せんぎよく)・ 帝嚳(ていこく)・唐尭(とうぎよう)・虞舜(ぐしゆん)で、堯(ぎょう)は、暦を作らせて、一年を366日とし、三年に一度、閏就きを置いたといわれています。虞舜(ぐしゆん)は親孝行者です。
 ご覧の通り、黄帝以降の五帝、帝禹(夏王朝)は黄帝の子孫です。また、帝嚳(ていこく)は4人の妃を娶っていますが、帝嚳の子の『弃(棄)』(キ)で周の先祖の姫姓で、『契』は殷の先祖の子姓で、『尭』は帝堯唐陶氏で大唐帝国の先祖ですので、皆、黄帝の血脈を受け継いでいます。
年代順は、尭、舜、ウ、殷、周となります。
犬戎国は帝コクの時代で、帝コク高辛氏の娘婿国が、犬封国、狗封国です。
漢族の王様や皇帝の殆どが黄帝の子孫です。
  朝鮮や日本でも、黄帝の血脈は多いです。

朝鮮の新羅の金庾信、倭人、安曇族、秦氏も、皆、黄帝の末裔です。

【蚩尤(しゆう)像】
蚩尤像2

 少し長くなりましたが、三皇五帝の話は、これで終わりです。次のブログは、帝禹の説明と、黄帝と倭国の関係を話します。


邪馬台国ラプソディ著者
川鍋 光慶


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コメント

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No title

神農が屁で妖怪退治をする話・・・面白いですね。( ̄m ̄〃)ぷぷっ!

神農絵巻があるのは「兵庫県立歴史博物館」ですか。
姫路城のすぐ傍ですね。今度行って見ようかな♪

姫路を含む「播磨国風土記」には
大汝命(大国主)と小比古尼命(スクナビコナ)の物語があります。

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大汝命と小比古尼命との間で

「粘土を担いで行くのと糞を我慢して行く。どちらが先に行けるか」

という話になった。

大汝命は糞を我慢して行き、
小比古尼命は粘土を担いでいくこととなった。

数日後、大汝命は「私は我慢できない」とその場で用を足してしまった。
小比古尼命も笑いながら「疲れた」と粘土(ハニ)を岡に放り出した。

このためハニ岡と呼ばれるようになった。

また、大汝命が用を足したときに、笹が弾き上げて服についてしまった。
このため波自賀村(はじかのむら)と呼ばれるようになった。
この粘土と糞は石となって今もあるという。
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大国主はウンコが我慢できなかったんです。
なにか神農さんの話とも似ていますね。

大阪の薬の町・中央区道修町には
神農さんとスクナヒコナの二柱が祀られている神社もあります。
http://www.sinnosan.jp/

排泄物は農作物を産み出す宝物。地母神への捧げもの?
また地母神が産み出すものとしての象徴として
語られてきたのでしょうか。

三皇五帝の時代は
ダイナミックな命の循環ストーリーですね。