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Ⅶ 三皇五帝の生きた時代

 前回のブログでは、黄帝中心に、三皇五帝の話をしました。そこで、今回は、五帝の中の『堯(ぎょう)』の話から始めます。この理由は、帝禹が皇帝になるキッカケが、堯の時代にあったからです。そのへんの経緯を話していきます。

若日孁

1、堯の都
 堯(ぎょう)の姓は伊祁(いき)で、名は放勲(ほうくん)です。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、五帝の中で聖人と崇められました。
「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」と、最高の賛辞が寄せられています。黄色い冠で純衣を纏って、白馬にひかせた赤い車に乗っていたそうです。
堯の功績は、天文を観察して暦を作らせ、一年を366日とし、3年に1度閏月をおいたそうです。
そして、自分の子供に帝位を嗣がさせず、親孝行で誉れ高い舜に禅譲したので、儒家により神聖視されるようになりました。

 この聖人と言われる堯(ぎょう)に係わる近年の発見の話からスタートしましょう!
1つ目の発見は、紀元前2300年頃に建造された堯の都が発見されたことです。都市計画された都で、紀元前2000年頃の天文台もありました。また、文字も発見されています。
そして、2つ目の発見は、堯の時代の大洪水の跡が発見されたことです。大洪水が発生したので、堯は帝禹の父の鯀(こん)に治水工事を任せました。

五帝 堯


【堯都区(ぎょうと-く)】
(堯廟)

堯廟

 先ずは、堯の都の話をします。
2015年6月23日、中国社会科学院が「山西省『臨汾市』襄汾県・陶寺遺跡は、『堯の都』であったと推定される」と、報道しました。前回のブログの中で、三皇の女媧の骨が、臨汾市で発見されたと報告しましたが、五帝の都の一つも『臨汾市』で発見されていました。
中国神話の世界が、現実の世界に実在したことを証明する証拠が、臨汾市から幾つも発掘されていたのです。

 この都は、紀元前2300~2000年位に建造され、王宮と外郭、下層の貴族居住区、倉庫、王族の墓地(王陵)、天文観測・祭祀用の壇、手工業に用いられる作業部屋、庶民居住区で構成されています。
東西約2,000m、南北約1,500m、総面積は300万平方メートルあります。青森県の三内丸山遺跡の最盛期は、紀元前2500年年頃ですので、堯(ぎょう)の都が政治の中心だったときと同時期です。
三内丸山遺跡の面積は37万㎡でしたので、堯の都の都は三内丸山遺跡の約8倍の広さです。


陶寺遺跡

 また、天文観測・時報・祭天を一体化していた紀元前2000年位に建造された壇が発見されました。紀元前2000年頃に エジプトで太陽暦、メソポタミアで太陰暦が用い始めたとされていますので、この壇は、天文学界から世界最古の同類の建築物と言えます。

 また、偏壺に刻まれている文字はまだ特定されていませんが、圧倒的多数の学者が、現在までに発見されているうち最古の漢字の起源(紀元前2300年)だと判断しています。これは、商(殷)の亀の甲羅に刻まれた甲骨文字(紀元前17世紀)より、700年位年代が遡ることになります。

 女媧の骨の年代測定結果は紀元前3200年ですし、遥か後世の堯の都の造成時期が紀元前2300年位ですので、中国は5000年の歴史と言っても過言ではないようです。

堯 天文台


2、堯の時代の大洪水
 第二のポイントは、「堯は大洪水を憂えた。そこで、有力な大臣たちに誰に治めさせるかを問いたところ、大臣たちは総意で、帝禹の父の鯀(こん)を推薦した」という記録が残されています。

 『尚書』(後世では『書経』と呼ばれる)や「堯典(ぎょうてん)」によれば、堯帝の時代に大洪水が起こったので、堯帝は禹の父親である鯀(こん)に治水を命じました。しかし9年たっても成果が上がりませんでした。

この洪水跡と思われる遺跡が発見されています。
大洪水跡1

大洪水跡2


 紀元前2000年前後に、中国の奥地で地滑りが起こり、岩や土砂が黄河の峡谷に流れ込みました。崩れ落ちた土砂は高さ200メートルにもなる巨大な自然のダムとなり、数カ月にわたって川をせき止めました。やがてダムが決壊すると、水が一気に流れ下り、周辺の地域に押し寄せて大洪水を引き起こしました。
 この洪水が、中国史を大きく動かした可能性があるのです。何故なら、幻と言われる中国最古の王朝である夏王朝は、大洪水をきっかけに創生されたと言われてきたからです。

 25キロほど下流にある喇家(らつか)遺跡で、地震で破壊された洞窟群がある場所で、人骨が発掘されました。炭素14測定法でより年代を測定したところ、約紀元前2000年前後に大津波が発生したことが判明しました。 これは、丁度、青銅器時代と二里頭文化(夏王朝の都)の始まりの時期でした。

黄河大洪水後の地形

 地滑りによって積石峡に押し寄せた天然ダムの残骸です。この発見は2009年に呉氏により発表されましたが、その後、自然のダムが想定よりはるかに大きかったと分かりました。
一帯をあらためて調査すると、幅800メートル、奥行き1300メートル、高さ200メートルという巨大なダムの痕跡が見つかったのです。これは、米国のフーバーダムや中国の三峡ダムに匹敵する大きさで、それほどの規模のダムが決壊したのです。
その結果、喇家では、水位が土手より最大で40メートルも高くなり、これにより、数百キロ離れた低地では、黄河の川筋も変わってしまいました。
帝禹の父の鯀(こん)が処刑されたのは、もしかしたら、鯀が治水工事を推し進めているときに、この大洪水が発生したからかもしれませんね。


3、帝禹の治水工事
 その後、禹が帝瞬より黄河の治水工事を任されましたが、新婚の妻とは数日間暮らしただけで、家にも戻らず、治水工事の旅に出ました。数日で子供が出来る確率は低いので、『出来ちゃった婚』だったのかもしれません?

神農 妻との別れ

  山あり谷ありの苦難の連続でしたが、工事を完成させることができまし。その功績より、帝瞬より皇帝の位を禅定されました。
龍門の地図

【禹門口鉄橋】
禹門口鉄橋

 皇帝の地位に上り詰めても、奢ること無く、民の生活を豊かにするために寝る間を惜しまず働き続けました。武力を用いず、自然災害対策、灌漑工事、養蚕・機織りの推し進め、民を豊かにし、信頼を勝ち得たことで、真の帝王となることができました。
また、仁徳天皇のような、民を豊かにするような政治を行いました。
 帝禹の奮闘ぶりに関しては、『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』に、面白い小説形式で書き綴りましたので、一読頂ければ有り難いです。今回、ブログで書きました知識を参考にして頂きながら、この小説を読めば、物語をよりクッキリ理解できるのではないかと存じます。


4、三皇のプロフィール
 これまで、三皇五帝の業績を綴ってきましたが、三皇五帝はどんな生活を送っていたのでしょうか?
先ずは、女媧と伏羲、神農に関するお話します。これは、中国における太古の民族闘争の歴史を知るのに不可欠ですし、日本の古代史を紐解くためのヒントとなるからです。

(1) 女媧と伏羲
 まそれでは、三皇の中の女媧(じょか)、伏義(ふくぎ)兄妹のプロフィールを話しましょう。
二人は、黄河文明の仰韶(ぎょうしょう)文化の中で生涯を送りました。
何を話しているか、チンプンカンプンですよね?
 上仰韶文化と羌族に関しては、後ほど簡単に説明をしますが、その前に、何故そのような推測をしたかの理由を示します。

① 女媧の逝去時期ですが、女媧の骨の炭素14測定法結果では、紀元前3200年頃となっています。そして、そして、伏義の逝去時期も、同じ頃だと頃だと記録に残されています。この時期は、上仰韶文化の時期に相当します。
伏羲の肖像画

白蛇女媧像


女媧は渭水(いすい)がある陝西(せんせい)省の白水(はくすい)(西安と東に流れる黄河の間)の出身で、陝西省、山西省、河北省で国造りを進め、山西省の臨汾(りんふん)で身罷りました。
甘粛省で兄の伏義が生まれたという説もありますが、陝西省も陝西省も、仰韶(ぎょうしょう)文化の温床です。

 下記の地図の『Wei』と書かれている川が『渭水』で、『Yellow』が『黄河』、『Xi’an』が『成都』、『Xianyang』が秦の都だった『咸陽』、『Baoji』は黄帝が逝去された『宝鶏』、『Weinan』は『渭南』の事ですが、『渭南』に『白水』があります。そして、『Lanzhou』は『蘭州』で、この地域と東方や北方が、仰韶文化圏です。
西安近辺地図

③ 渭水は、黄河に注ぐ大きな支流ですが、大洪水が度々発生しました。これは、女媧・伏義伝説と合致します。

④ 『①の時期』、『②の場所』、『③伝説』に関して全て合致するので、女媧は上仰韶文化の女王だったと考えられます。


(2)黄河文明って何?
  遠い昔、中国には、黄河文明、長江文明と遼河文明がありました。
中国三大文明

 四大文明で有名な黄河文明は,彩陶 (彩文土器)を使っており、文字もこの頃から使われ始めました。
そして、黄河文明前期の仰韶(やんしゃお)文化(紀元前 4800年~2300年ころ)で女媧と伏羲が活躍し、神農が黄河文明後期の河南龍山(ろんしゃん)文化(紀元前2700年~2200年頃)と山東龍山文化(紀元前2500年~2000年頃)の基盤を築き上げました。

(3) 仰韶文化って何?
 仰韶文化(ぎょうしょう)文化は、黄河文明の初期(紀元前4933年~2923年ころ)の文化です。青森県の三内丸山遺跡は紀元前3900~2200年頃)ですが、生活スタイルはよく似ています。

 仰韶文化は、三内丸山遺跡のような形態の遺跡が、大中小を合わせて、2000部落以上散在しており、代表的な仰韶遺跡の広さは三内丸山遺跡とほぼ同じ規模です。大きな部落には1000人位の人が、暮らしていました。(三内丸山遺跡は最盛期で500人位)
仰韶遺跡の大きさは、約南北960m、東西480m、面積36万㎡です。(青森市の三内丸山古墳が37万㎡ですので、同程度の遺跡です)

 仰韶文化初期に遺跡に『半坡(はんは)遺跡』(紀元前4933~4500年頃)がありました。
今回は、5万㎡位の小さな部落ですが、この部落は文字を持っていましたので、この部落の紹介をさせて下さい。
文章での紹介では、ピンと来ないと思いますので、西安にある半坡博物館の展示物の写真を掲載させて頂きます。

【博物館入口の石器時代の乙女像】
石器時代の乙女

【半坡部落の様子】
石器時代の部落

【青森市三内丸山遺跡の様子(2500年後)】比較用
三内丸山遺跡航空写真

【生活スタイル】
 狩猟民族で、狩猟と木の実や果実を採取していましたが、アワ・キビなどの穀物を栽培しており、また、ブタ・イヌなどを飼育していました。立派な釣り針も持っていました。氏族共同体的な母系社会の集落が形成されており、三内丸山遺跡での生活と類似した生活環境だったようです。
 従って、伏羲は女媧に頭が上がらなかったことでしょう。
平和な社会ではありましたが、他民族の首刈りをする習慣はあったようです。怖いですね!

【果実採取】
石器時代木の実収穫

【農作作業】
石器時代の農業

【紡績作業】
石器時代の紡績

【7000年前のファッション】お洒落なアクセサリー
石器時代ファッション

【仰韶文化の彩陶】
仰韶文化の彩陶

 新石器時代の土器だと思えない出来栄えです。内側に魚の絵が描かれています。
これは木製ではなく陶器でできており、絵柄も、少し前に流行った『シーマン』みたいです。思わず「シーマン、お話して!」と言ってしまいそうです。

フクロウの顔の土偶もありましたよ。ペットにして下さい。
フクロウ面

中国で一番古い土器紀元前18000年~17000年)】
 少しだけ、最古の土器の紹介をさせて下さい。
江西省の洞窟から発見されました。破片は土器の縁の部分などとみられ、厚さ0.7~1.2センチ程度。表面を滑らかに整えたり、筋で模様をつけたりした破片もありました。この時代は、氷河期でしたので、食料の備蓄やアルコールの熟成ができるようになりました。
中国1古い土器

【日本で一番古い土器】
 青森県の大平山本遺跡で出土した紀元前14000年頃の土器の破片です。
世界的に見ても最古の土器の一つでで、日本の誇るべき歴史の証です。
日本一古い土器

【半坡文字】
 また、西安に近い半坡(はんは)村(半坡村遺跡)からは、27種類の記号が刻まれた陶器及び陶片(半坡陶符)が発掘されました。炭素年代測定から紀元前6000年から紀元前4000年の遺物だそうです。当時は文字の使用には至っていませんでしたが、事物を具体的に表記する体系を有していたことが判明しました。
半坡文字

【陸稲栽培】
 稲は陸稲栽培で、水稲栽培が行われていませんでした。そこで、仰韶文化の部落は多くの人を養うことができず、人口を増やすことはできませんでした。
 何故なら、今日でも、陸稲の場合には、水稲の2倍の肥料が必要で、二年連続で同じ畑に陸稲を植えることはできません。そこで、肥料の費用を節約するために、放牧や焼き畑をしながら毎年移動し、三年周期ぐらいで、元の畑に戻り、陸稲の栽培をしていました。
 また、陸稲は旱魃に弱く、また雑草被害が多いので、収穫できる【歩留まり)率は低いです。
更に、収穫ができたとしても、単位面積あたりの収穫量は4分の一です。
これでは、陸稲では、多くの人を養うことなど出来ません。
それに、陸稲は美味しくないのです。雑穀と変わりありません。(現在でも、主にもち米用に栽培している)
 従って、稲作をしているからといって、弥生時代のように稲作の生産性が高かったと考えてはならないのです
稲作比較
水稲:左側の大きくて緑色 陸稲:右側の小さいくて黄緑色
 陸稲は、水稲に比べ生長するのが遅く、茎も細いです。

 以上の理由で、陸稲栽培だけでは食べてはいけず、他の食料確保の手段として、放牧をしたり木の実をとったり、野菜を栽培して、生計をたてていました。それでも、旱魃の年には餓死者がでました。だから、稲作を行っていても、雑穀の栽培と変わらないことになります。
 本格的に、中国が国家として体をなすのは、華南の地で、水稲栽培が始まってからのことです。


(5) 神農
① 羌族
 神農は『羌(きょう)水』の辺りで生まれたので、性を『羌)』にしました。『羌水』は古い河川の呼び名で、今は、甘粛省の蘭州の東南にある定西から流れ出る岷江で、四川省の黄龍や九寨溝に流れていきます。宝鶏近辺で生まれ育ったと考えられます。つまり、神農は『羌族』の始祖です。
 この羌族の末裔は、華南(春秋戦国の呉越、上海の近くの江蘇省・浙江省)で、水稲栽培を大大的に行うようになりました。
しかし、春秋時代に呉が滅亡し倭人となりました。そして、越が滅びると、南に下り百越となり、北に上り朝鮮半島経由で安曇族になりました。
従って、羌族は日本人の遠い祖先の一つです。羌族後の血を受け継いた日本人は、美しい可能性が高いです。

羌族の女性1

 羌族は、アラビア半島からチベットに渡り、チベットで生活した後に、一部が白族として、中国の陝西省近辺に辿り着きました。混血なので、美人が多いのでしょう。
羌族の女性2


② 河南龍山文化
 神農は伏羲が築いた淮陽(わいよう)に最初の都をおきました。淮陽は現在の河南省周口市にありますが、神農はこの地を『陳』と名付けました。
この地を拠点に、国造りを進めましたが、その後、淮陽近郊(河南省)で芽生えたのが、河南龍山文化です。

【中国の主な古代文化】
中国文化圏地図

【河南龍山文化の陶片に刻まれた裸体像】
幼稚園児が描いた絵のようですが、少しませてますネ!
河南龍山文化の裸体絵陶器


③ 山東龍山文化
 その後、山東省の『曲阜(きょくふ)』に遷都しました。曲阜は孔子の故郷で、孔子に関係する遺跡が沢山あります。
この地で、山東龍山文化が生まれました。

【卵殻陶でできた高柄杯】
三棟龍山の卵殻陶

【山東龍山文化の文字】
山東龍山の文字1

山東龍山の文字2



 後の商(殷)の時代には、漢字の元の甲骨文字ができました。邪馬台国ラプソディの中で、天照大御神が豊受大神から君主論を学びましたが、殷の武丁帝の逸話から、『忠言』の重要さを知ります。この武丁の時代の甲骨文字の中に、歴史の悲惨さを感じさせる甲骨文字があります。

【甲骨文字の『去勢』】
甲骨文字 去勢
左側は男性器で、右側は刃物です。

 商の時代には、羌族が迫害を受け、捉えられた羌族の男は殺されるか、去勢されました。そして、殆どの羌族を国外から追い出そうとしたのです。
それでも、一部の羌族は力強く生き残り、周に仕えた『太公望』も羌族です。太公望は春秋の斉(せい)をたてました。


3、黄帝
 黄帝は、『涿鹿(たくろく)の戦い』で、蚩尤(しゆう)を破り、中国を初めて統一した皇帝です。
蚩尤は九黎族(羌族、苗族)を率いていましので、天下分け目の戦いとなった『涿鹿の戦い』は、漢族の始祖の黄帝と、羌族連合間の衝突でした。
黄帝は勝利すると、蚩尤軍を吸収し、羌族や苗族を河南に封じ、水稲栽培の開拓をさせたのです。
 この頃の戦いでは、下の写真のように、猛獣の変装をしていました。
野獣の踊り


 黄帝以前の皇帝は、武力では無く、農業の普及と薬学(医学)の開発で国造りを進めましたが、黄帝は武力で天下統一を果たしました。
そして、その武力による国民の支配の流れを、徳による政治に引き戻したのが、帝禹だったのです。そして、この帝禹の思想は、日本にも伝播していきました

今回のブログは7回目ですが、次回は、世界が倭国に与えた影響に関し、お話します。


邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶
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コメント

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No title

現代の陸稲の種籾は、古代(縄文)のものとは
性質が違うのではないでしょうか?

私は植えっぱなしで肥料も要らない古代米の陸稲を
我が家のベランダで育てていましたが
収穫して食べてみると、とても香りが良くて
一粒一粒にエネルギーを感じるとても美味しいお米でした。

それはアイヌの聖地で守られてきた種籾と聞きました。
最近、沖縄で食べたご飯がそれに近かったので
もしかして沖縄とアイヌのルーツは近いのもしれません。

私の主観ですが、実際に育てて食べてみた経験から言うと
日本古来の縄文米をマズいとは言えませんし
ほんのちょっと、白米に混ぜて食べるだけで
オカズが要らないくらいの満足感がありました。
たくさん食べることの必要性も感じないほどです。
ほんのちょっとで大丈夫なんじゃないの?
・・・とその時代の生活を想像します。
果樹も豊富なら、なおさら。

縄文社会は、カタカムナ文明の潜象エネルギーの使い方が
解明されていってるように、
見えない気・エネルギーを大切に扱って
暮らしに役立てていた社会があったのではないでしょうか。
いまとは地球環境が違っているのかもしれません。

それを証明しろと言われても、難しいですが
これから知られざる古代遺跡が出てくる可能性もあります。
新しいものから出て行かないと
埋もれているものは出てこれない
そういうものではないかと思っています。