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Ⅷ 日本の夜明け(縄文時代)

 今回は、日本の夜明けの話をします。
前回(7回目)のブログでは、黄河文明の話をしました。古代中国は日本社会に大きな影響を与えましたので、中国文化が日本に根づく話をする予定です、しかし、その話をする前に、ここで一度立ち止まり、縄文時代の日本にスポットを当てたいと思います。
若日孁

1、夜明け前
(1)日本列島
 我々が住んでいる日本列島が、何時頃、誕生したのか、ご存知ですか?
答えは、現在の日本列島になったと言われるのは、紀元前11,000~10000年ころなのです。これは、丁度、縄文時代の幕開けの時期に合致します。。

1億年以上前には、日本はユーラシア大陸と陸続きでした。それが海洋プレート等の移動や、度重なる火山の噴火による地殻変動、氷期と間氷期を繰り返していた氷河期時代の地形の変化によって、おおよその日本列島の形ができつつあったのが約500万年前です。
1 海洋プレート

2 日本列島の切り離し
 200万年前より日本海が東進し、紀元前17,000年頃に日本列島は東西に押されて山脈が隆起しました。

 さあ、これで、日本人を収容できる国土(日本列島)の骨格ができあがりましたよ。
それでは、次に、この長大な地殻変動の時代に、人間との関わり合いを持つ動物界ではどのようなことがあったのかを検証してみましょう。


(2)ナウマン象、マンモス、ホース
なぜ、動物界の動きに拘(こだわ)るかと言うと、それは、狩猟民族の人間たちが動物を追いかけて、日本に辿り着いた可能性があるからです。(マンモスを追ってシベリアを東進したのが、アメリカン・インディアンのご先祖様たちでした)
3 マンモス

 日本列島がユーラシア大陸から離れる前には、南の方からはナウマン象が、北の方からはマンモスが行き来していました。彼らは氷河期の寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたんです。彼らは、人類の到来よりも早く、日本に住み着いていました。
4 ナウマン象


その証拠として、マンモスの化石が北海道から発掘されています。また、ナウマン象の化石は日本の長野県野尻湖等で発見されていますが、東京が好きだったようで、日本銀行本店の地下等、東京では沢山の化石が発掘されています。
関東地方が旧石器時代や縄文時代に開けていたのは、太古の狩猟民族の人類が、象たちを追ってきたからかもしれませんね。
ところが、その後、気候が大きく変わったことと、日本列島が大陸から切り離されたことで、紀元前13000年ころには、これらの動物は死に絶えてしまいました。ナウマン象の絶滅の時期は、縄文時代の幕開けの時期と同じ頃です。
 ナウマン象が絶滅してから、日本人は栗等の栽培(農業)を始めるようになったのではないでしょうか?

次に、馬に関して話しますね!
大陸と日本が繋がっていたのなら、馬や牛も日本に来た可能性がありますか?
答えは、YESです。日本では第三紀中新世期から第四紀洪積世期の間の地層から、馬の化石が見つかっています。南方からで来たと思われます。

それでは、縄文時代には馬はいたのでしょうか?
答えですが、残念ながら現時点では、その解答が分かっていません。
一般にはその後、絶滅したといわれています。実際、これまでに出土した馬の骨で、年代が明確な最古の事例は、山梨県・塩部遺跡の歯牙標本(4世紀後半)です。その他の場所で発掘された馬の骨は全て、炭素14年大測定法では、四世紀以降のものとの鑑定結果が出ています。また、魏志倭人伝には「倭国には、馬・牛はいない」と書かれています
また、大陸から日本列島が離れた以降は、丸木舟では馬を運ぶことができなかったと考えられますので、一度絶滅したとすると、縄文時代には馬は存在しないことになります。

しかし、宮崎県の南端の都井岬に『御崎馬(みさきうま)』という野生馬が放牧されています。現在の馬の殆どは、320年前に放牧された馬の子孫です。
5 御崎馬

 でも、私は個人的には、縄文時代に小型の野生馬が生存していたのかなと思っています。
縄文時代の馬の骨が見つからないのは、『野生馬の場合、死期を察すると、見つからない場所まで移動して、息を絶える』習性があるからだと思っています。

縄文時代に、乗馬の習慣がありましたか?
答えは、NOです。
学術的には、日本の最古の馬具は、箸墓古墳周濠出土の木製輪鐙となっています。そうすると、3世紀末から4世紀の初頭が最古の馬具となります。


東京国立博物館の馬具に関する説明は以下の通りです。
日本列島の馬具は、弥生時代中・後期の西北九州地方で(“王墓”とも呼ばれる)多数の副葬品をもつ有力な甕棺墓などから出土する稀少な輸入品の馬鐸や車馬具を除けば、古墳時代の4世紀末頃から古墳の副葬品として現われ、5~6世紀に広く普及しました
6 御崎馬 日暮れ
『紀元後の後漢代(A.D.25~220年)になると、(乗馬が不得手であった・・・)農耕民族が乗降用の鐙(あぶみ)を発明して、現在の馬具の形が完成されたと考えられています。
東アジアの乗馬の風習と馬具の源流はここに起源が求められ、4~5世紀には中国東北地方や朝鮮半島に馬の飼育を伴って拡大し、やがて日本列島にも伝えられました』

 これが、現在の考古学会の常識です。この説を覆すのは、並大抵の努力では上手くいきそうにありません。
従って、乗馬の習慣は、弥生時代から一部の王族が始め、古墳時代くらいに乗馬が広まり、奈良時代に本格的に乗馬の為の体制整備がされたと考えるのが本筋です。

 野生馬がいたとしたら、手懐けることができたとしても、小型の馬ですので、農耕用や乗馬には適しません。でも、物の運搬には用いることが出来たと考えられます。

7 埴輪馬
 古代の乗馬というと、『埴輪馬』を想像されると思いますが、埴輪馬は古墳時代の遺物で、5世紀の中頃以降の古墳から出土しています。
記紀には、「11代の垂仁天皇が、身分が高い人が逝去すると、多くの人を殉葬させる慣習を改め、土器で人形の埴輪を古墳に埋めるようになった」と書かかれています。だから、埴輪が使われるようになったのは、4世紀以降のことです。


(3)最終氷河期からの気温変化
下のグラフは、紀元前20000年以降の酸素同位体比(気温と湿度)の推移グラフです。
 難しく面白くはありませんが、少しだけお付き合い下さい。
8 

最終氷期寒冷期(紀元前20000~14000年)で最も低温だったのは、紀元前14000年頃で、海面は低くなり、ほぼ大陸と地続きになりました(ピンクの破線が、陸と海の境です)。
地図では判定しにくいですが、対馬海峡や、津軽海峡の一部は行く手を阻んでいたと推定されます。

9 日本列島の氷河期

日本列島の形成終了時期(紀元前11000~10000年)は、氷期末亜間氷期(紀元前12700~10800年)と重なるのです。


2、日本の朝焼け
(1)日本人
  ① ホモ・サピエンスの到来
 現生人類(ホモ・サピエンス)はラテン語で『賢い人』を意味します。当たり前のことですが、猿人や類人猿より賢いのです。
ホモ・サピエンス(現生人類)は、東アフリカで60~70万年前に誕生し、18.5万年前にアフリカを出ました。そして、アラビア半島から東を目指して移動しました。

『Wikipedia』が選んだ『人』項目のトップ画像が以下の写真です。(タイ・アカ族)
10 Y染色体アジア人



(2)太古の日本人
 ① 縄文時代以降の日本の人口推移
(歴史人口学の鬼頭宏氏『図解人口で見る日本史』)
11 縄文人のの人口推移


上の表は、日本人の人口の推移です。これまでに発見されている各地の縄文時代、弥生時代の遺跡の住居跡を基に算定された人数です。(中部地方は多すぎるように思えます)
退屈かもしれませんが、重要なことですので、少しだけ、読んで下さい。

(ⅰ)紀元前6100年に2万人だった日本の人口が、紀元前2300年ころになると、26万人にまで増加しました。(縄文時代の農作技術では、これが食物供給能力の上限)

(ⅱ)縄文時代は東日本に人口が偏っていました。しかし、弥生時代になると西日本の人口が大幅に増加しました。これは、中国華南人(倭人)の渡来がその要因です。

(ⅲ)中部地方が多いのは、中部の縄文遺跡が沢山の住居跡がたまたま多く発見されているからで、他の地方でも地に眠っている古代遺跡が沢山あると考えられます。

(ⅳ)人口が多かった関東地方で、BC900頃(縄文時代晩期)に人口が激減しています。何故人口が減少したのかお分かりですか?
それは、縄文海進(海面が高くなり低地が海になる現象)が続いていたのですが、縄文時代の晩期になると、寒冷化により農作物の収穫が減少してしまいました。
また、海面が低下した為、水深の浅い海が無くなってしまい、漁業が不振になってしまいました。

御覧下さい。縄文海進が進んでいた頃は、下の図の水色の部分は海でした。羽田、浦和、流山の海でしたが、川越の近くまで入江が続いていました。この縄文海進は日本全国で起こっており、海面が5m位現在より高かったと言われます。
12 縄文海進1


縄文時代は、伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩の女岩は水没しており、波が高く満潮だと男岩も海面下でした。
それに対し、大分県佐伯市と福岡県糸島の夫婦岩は高いので、海上に頭を覗かせていたと思われます。

【志摩の夫婦岩(男岩9m、女岩4m)】 コンパクトサイズ
13 伊勢夫婦岩

【豊後二見ヶ浦の夫婦岩(男岩17m、女岩10m)】ビッグ・サイズ
14 大分夫婦岩

【糸島の夫婦岩(男岩11.8m、女岩11.2m)】 手頃サイズ
15 糸島夫婦岩


(ⅴ)それでは何故、冷寒化したのでしょうか?
その原因は幾つかありますが、富士山の噴火による影響が大きかったと推定しています。

富士山の近くに住んでいた縄文人は溶岩に飲み込まれて絶滅してしましました。
そして、噴火の影響で関東地方も悲惨な状況になりました。火山灰が天地を覆い、寒冷化し、また火山灰の大地では、作物が育たなくなりました

記紀やホツマツタエには、この時の富士山の噴火の記録は残されていません。恐らく、その当時は、富士山は重要視されていなかったのでしょう。

ここで、富士山の噴火と『富士五湖』の誕生の歴史を話そうと思います。

a. 三大湖(紀元前13000~8000年頃)
先ずは、縄文時代が始まった頃の富士山です。『古富士』火山の活動に伴い、東に『宇津湖』(現在の山中湖・忍野八湖)、北に『古河口湖』と『古せの湖』(現在の西湖・精進湖・本栖湖)となりました。
16 富士三大湖

 b.三湖消滅(紀元前8000~3000年頃)
『古せの湖』を残して』、他の三湖(古明見湖を含む古河口湖と宇津湖)は干上がり消滅しました。
17 富士三湖消滅

 c.河口湖・本栖湖誕生(紀元前3000年頃~紀元頃)
 新富士火山の度重なる活動により川に熔岩が流れ込み河口湖が、『古せの湖』に流れ込んだ熔岩は本栖湖を誕生させました。縄文時代の後期は、富士三湖でした。また、登山技術は発達しておらず、噴火の恐れがあるので、富士山を登頂するのは、とても危険でした。(今でも冬場の登頂は、とても危険です)
18 河口湖・本栖湖誕生

 d.富士五湖の誕生(紀元頃~西暦1000年頃)
西暦864年の青木ヶ原溶岩流は、『せの湖』を分断し、『西湖』と『精進湖』になりました。西暦937年の鷹丸尾溶岩流は、川をせき止め『山中湖』を誕生させました。富士五湖になったのは、平安時代に入ってからのことです。
19 富士五湖誕生


 人口の話に、富士山の噴火の話を持ち出したのは、自然災害(噴火、自身、津波、台風、氾濫、土砂崩れ等)が多くの尊い縄文人の命を奪ってきた歴史があるので、縄文時代や弥生時代の歴史を語ろうとするならば、大凡の自然災害の歴史を知らなければならないからです。

(ⅵ)弥生人が渡来すると、西日本の人口は12,000人から373,000人に増えました。
そして、東日本(縄文人)は弥生人に征服されたわけではないようです。水稲栽培技術を取り入れたことより、東日本の人口も大幅に増えました。但し、沖縄と北海道に稲作が伝わるのはとても遅かった(沖縄での稲作の開始時期は13世紀、北海道では西暦1873年から)ので、北海道・沖縄では中世まで人口が少なかったようです。

(ⅶ)縄文時代末期(BC900)の近畿の人口は2000人位ですので、この時代に、大和地方に大国(邪馬台国?)があったとは考えられません。同様の理由で、神武天皇の東征は、縄文時代末期・晩期の出来事だとも考えられません。


② 日本民族の祖先
考古学会には、『泣く子も黙る』Y染色体DNA分析という祖先を割り出す手法があります。現代の日本人の先祖毎の割合を、この方法で調べたグラフを掲載しました。ただ、Y染色体分析を解釈するのは難しいことなので、なるべく簡単に説明しますね。
20 日本人Y染色体

(ⅰ)水色(アイヌ系)、黄緑(港川人系)、白(ニコバル系:少数)等の民族が、旧石器時代や縄文時代に渡来しました。これらの人類が縄文人です。

(ⅱ)水色の民族のDNAはアイヌ人の89.5%を占めるので、分かりやすくする為に『アイヌ系』と仮に名付けました。(熊は可愛いペットでした)
21 アイヌ人

アラビア半島、イラン経由で、アルタイ山脈やチベット近辺に5万年前に住み着いた民族で、その後、東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本特有のDNAに変化したという説があります。下記の地図では、日本に九州経由で入ってきていますが、緑の線が九州ではなく北海道から上陸したという説です。
21 D系の移動経路

 この遺伝子は『マナセ(家系図右下)』の末裔という説もありますが、『アブラハム(家系図左中央)』は紀元前2000年頃の人なので、アイヌ人の祖先ではありません。
22 マナセの家系図


  アイヌ系は、現代人の34.7%を占めており、最も多い比率になっています。なお、沖縄は比率が高く45.1%を占めます。従って、渡来してから1万年の縄文時代の間に、北海道から日本全土に拡散されていったのでしょう。
  そして、弥生時代になっても華南(弥生)人に駆逐されること無く、アイヌの血脈を絶やすこと無く、現代に伝えています。

(ⅲ)港川人系に関しては、旧石器時代のところで、説明します。ニコパル系は割合が低いので、無視します。

(ⅳ)この図表からで何が言えるかというと、港川人やアイヌ系の人が(紀元35000年ころから渡来し、旧石器時代を始めたこと。そして、現在に至るまでアイヌ系の子孫は倭人(華南)系の人たちに駆逐されること無く、日本人の主な血脈として生き残っているということです。

ご参考に、祖先の民族の割合を数字で示した表を添付します。
23 日本のY染色体詳細
(知識探偵氏『日本人のY染色体ハプログループ比率』よりお借りしました)


③ 太古の日本が世界に誇れること
 世界は一つです。多くのことを海外から学び、独自の文化を進化させてきました。外国と切磋琢磨し合うことが大事です。でも、日本人だからこそなし得た世界に誇るべき技術革新が幾つかあります。日本人の誇りとして、語り継いでいきたいものです。
旧石器時代の話を始める前に、それらの誇るべき事例を紹介します。

(ⅰ)移動・運搬手段
   太古の日本人(石器時代人、縄文人)は、どんな方法で移動をしたり、物の運搬をしていたでしょうか?
   答えは、縄文人は乗馬をしなかったので、『徒歩』で移動しました。鹿革の革靴等を履いていました。護身のために、弓矢を移動の際に携帯していたと考えられます。
24 服装・靴

また、縄文人は海洋人ですので、『丸太船』で、移動や運搬をしていました。この丸木舟が優れもので、世界に誇れる技術でした。
25 丸太舟

 紀元前5500年頃の丸太船が、埼玉県三郷市の道路工事現場で発掘されました。
ムクノキをくりぬいた丸木舟で全長約7.2メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチでした。全長約2メートルの櫂(かい)とみられる木製品も見つかっています。れは、これまで発掘された丸木舟の中で、最古のものです。縄文時代は、丸木舟文化でした。
26 丸太船の発掘

縄文時代の丸木舟は全国で約160艘(そう)発見されています。そのうち千葉県で60艘発見されています。縄文海進の地図を見れば、その理由が分かります。
27 縄文海進 千葉は海


 縄文時代には、驚くほど広域で物流を行っていたのです。
典型例が青森市の三内丸山遺跡(5500~4000年前)です。出土した黒曜石、ヒスイ、琥珀(こはく)などは、北海道や東北をはじめ各地から集めました(蛍光X線分析装置など科学的分析で原産地の推定結果)。

また、神津島産黒曜石は、関東や中部地方の太平洋岸を中心に西は伊勢湾、能登半島まで分布しています。黒曜石はガラス質で加工しやすく、切れ味が鋭いためナイフ形や槍先の形など幅広い用途の石器として様々な形で利用されました。細石器や磨製石器を製作するには、黒曜石が必要です。

28 神津島 黒曜石碑
29 海岸黒曜石
30 神津島黒曜石発掘地

 伊豆諸島の神津島は、東京の南約180キロ、伊豆半島の静岡県下田市から南南東に約60キロに位置します。この大海原を、丸太船で越えていたのです。
31 黒曜石運搬ルート


そして、河津桜で有名な伊豆半島東岸の静岡県河津町の見高段間遺跡(縄文中期)では重さ約19キロの大原石や薄片など計254キロも出土しています。この地は黒曜石の貿易拠点であったとされています。

 杉原重夫・元明治大教授は『三内丸山遺跡で出土した霧ケ峰産黒曜石製遺物』で、約600キロ離れた長野県の霧ケ峰産黒曜石について、「日本海側を運ばれた可能性が高いと推定しています。新潟県糸魚川産翡翠(ひすい)も同じ日本海ルートで運搬されたようです。
太平洋側だけでなく、日本海側でも丸太船による物流が活発に行われていました。
 
これだけの航海技術があれば、帆はありませんでしたが、大陸との交易も可能です。つまり、大陸との文化交流が活発に行われていたと考えられるのです。
日本で、太古から細石器が普及していたのは、アイヌ族の先祖が渡来するときに、細石器を日本に齎したからだと考えられます。中国から玉の導入が早かったのも、丸木舟のお陰だったと思います。
縄文人はインターナショナルな民族でした。


(ⅱ)磨製石器の幕開け
   日本は、新石器時代の幕開けが、最も早い国の一つです。ずっと昔から磨製石器を作っていたんです。
 石器時代は、旧石器時代(打製石器)、中石器時代(細石器)、新石器時代(磨製石器)の3期でなりたっています。縄文時代は、中石器・新石器時代を複合したものとされています。細石器とは、黒曜石等を叩いて先端を鋭くした石器です。
 日本の凄いことは、日本に現生人類が渡来した頃(紀元前35000年ころ)から使われていたことです。旧石器時代の局部磨製石器が、関東・中部地方を中心に100箇所から650本ほど出土しました。
日本以外では、オーストリアのヴォレンドルフ遺跡で約2万5000年前の全面磨製石斧が出土しています。局部磨製石器での分野では、日本は部分的ではありますが、磨製石器を作り始めた草分け的な存在です。
32 局部磨製石器


(ⅲ)火焔型土器(縄文土器)
燃え上がる焔を思わせるような造形美を誇る縄文時代中期を代表する土器で、現代では芸術作品のジャンルに入ります。

岡本太郎と縄文の出会いは、東京国立博物館の一室。考古学の遺物として陳列されていた異様な形の縄文土器に偶然出くわして、彼はこう叫びました。
「なんだこれは!」
岡本太郎はパリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父とも称されるマルセル・モース門下で民族学を修めていました。芸術家であり民族学者でもある太郎が、火焔型土器の写真を載せた「縄文土器論」を発表しました。考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈を世界に発信しました。
33 火焔型土器

 他にも、縄文時代には世界に誇れるものがありますが、手前味噌になりそうですので、このへんで終わりにします。
世界との交流を通じて、切磋琢磨し合いながら文化は洗練されたものになっていくものです。だから、こうしたことを日本人の誇りとして胸に刻んでおくべきだと思います。



2、旧石器時代
 それでは、いよいよ、日本の夜明けの歴史を語っていくことにします。先頭走者は、旧石器時代です。

日本列島に人類がいたという足跡は、年代が確認できるものとしては紀元前33000~14500年(青森県外ヶ浜町大平山元遺跡)ころと考えられています。

 縄文時代の前にも日本には人が住んでいたのですよ。その時代を旧石器時代といい、打製石器を用いていました。人々は動物や魚、そして木の実や食べられる植物をとってそれを食料にしていました。田や畑をたがやして作物を作る農業を行っていませんでした。
そのため、その時代の人々は食べ物を探して、季節ごとに移り住んでいました。
34 旧石器時代暮らし

それでは、どのような暮らしをしていたか、説明しますね。
季節により住む所が変わりますので,移動に便利なテントのような家に暮らしていました
手前では、父さんが子供達に石器の作り方を教えています。石器は動物や魚をとるだけでなく、木に穴をあけたり、溝をほったり,動物の皮をなめして皮をやわらかくして、毛皮の服を作るのに利用されました。
今の大工さんが使う道具の原型は、ほとんどこの時代につくられたのです。真ん中で火をたいていますが、まだ土器は発明されていませんでした
漁業では、クロダイ、スズキ、ボラを捕獲していました。

 次に、旧石器時代の遺跡を紹介します。沖縄の『港川遺跡』から発掘された骨は、公式に旧石器時代人として認められています。1.8万年前の骨だそうです。
日本でこれまでに発見された『○☓原人』と呼ばれる骨が出土していますが、他の殆どの骨が旧石器時代の骨と判別できないとのことです。
35 港川遺跡の遺骨

この骨の人相書きを、『国立科学博物館』よりお借りしました。
36 港川人モンタージュ

こちらは、沖縄県立博物館バージョンの港川原人のマネキンです。いろいろな意味で、リアルですね。顔立ちは彫が深く、髪の毛はカーリーヘアーのようです。
37 港川人マネキン

現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いと推測されています(緑の部分から沖縄まで来ました)。
38 港川人移動経路

琉球弧にも、旧石器時代の遺跡を残しています。
39 琉球列島の旧石器遺跡

それでは、ここに港川遺跡の主達と同じDNA(子孫)の有名人を2方紹介しますね。
一人目は、猿田彦命です。
41 猿田彦

もう1人は、豊臣の秀吉です。
41 豊臣秀吉

 ところで、現代でも港川人の子孫に関してですが、現在の日本の人口比率だ4.8%ですが、沖縄での人口比では6.8%です。


3、縄文時代
(1)縄文時代の区分
  縄文時代とひとことでいっても、1万年というとても長い間つづいた時代ですので、自然環境が大幅に異なりますし、最初のころと終わりのころとでは、生活のしかたが激変しました。そこで、考古学者は,縄文時代を6つの時期に分けています。
従って、私も、それぞれの時期ごとに、良かった点と、大変だった点を纏め直してみます。
42 縄文時代の時代区分
(縄文時代の資料は、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/sousouki.html
からお借りしています)

(2)草創期(紀元前11000年~7000年)
 ① 自然環境
草創期は最終の氷河期の終わりで、まだ寒いため海面が低く、大陸と陸続きのような状況でした。そこで、大陸から、沢山の人が渡来してきた時期です。

 ② 民族渡来
 アイヌ系やツングース系の民族が渡来してきたと考えられます。関東地方が栄えていました。

 ③ 住居形態
縄文時代草創期には土器は発明されていましたが、紀元前8000年頃は、まだ旧石器時代の人とあまり変わらない生活をしていたと考えらます。つまり、狩猟民族で、食べるために動物や植物をさがして、場所をかえながら移り住んでいました。
しかし紀元前7000年頃になると、村を作り、ある場所に長く住みつく人が出てきました。貝塚も出土しています。
43 上野原遺跡
(日本でも最も古い集落と言われる上野原遺跡(鹿児島県)の村の様子です)

 ④ 生活
44 草創期生活
 子供が弓矢の練習をしていますが、弓矢は縄文人が使い始めたのです。左上部には住居がかかれていますね。縄文時代は簡単な畑作を行っていたので、人々は村を作り一ケ所に長いあいだ住みつづけるようになりました。遠くの方でけむりがあがっていますが,畑を耕す準備をしているところです。

右下の石器は、皮を鞣(なめ)すための道具です。
44 草創期生活

 下の写真の土器は、穴をほるための石器です。家を作ったり、食物をためる貯蔵穴をほったり、食用の木や草の根を掘るのに使われましたす。
46 草創期穴掘り石

海の近くでは貝塚がつくられ、ある期間そこに住みついていました。
47 草創期 柱穴跡

また、下記が、太古の土器の写真です。
48 草創期 土器

 草創期の日本は、最後の氷河期を終え、段々と明るくなる温かな日差しの先に広がっていきました。そして、これから始まる新しい世界と豊かさへの旅立ちを夢見ていました。人々は貧しいながらも、幸福な生活を謳歌するようになりました。


(3)早期(紀元前7000~4000年)
 ① 自然環境
縄文海進で海面が更に5m位上昇しました。暖かくなり森には木の実が重なるように覆い茂り、縄文海進が進み漁獲類が大漁となり、鹿や猪氏、雉などの食べ物が満ち溢れていました。

 ② 縄文時代の生活
   村を作り,人々が一ケ所に長く住みつくようになりました.長いといっても何十年という期間ではありません。周辺に食べるものが少なくなってくると、別の場所に移動しました。

 ③ 集落の生活(鹿児島県上野原遺跡)
49 草創期家

【縄文時代早期の家】
 縄文時代は長かったので時期によって家の作り方が大きくちがいます。一般に早期の家は太い柱を使わずに.木で屋根の枠を作りその回りに『かや』(すすき)の葉で屋根を作りました。簡単な作りとしたのは、長い間ここに住んでいなかった事を意味します。つまり、常住してはいなかったのです。
51 草創期 家 建築


 ③食事
52 草創期 竈
 早期は家の中にかまどはないので、料理は家の外でしていました。この村(上野原遺跡)には石で囲ったりっぱな竈(かまど)ありましたが,ふつうは穴をほっただけの竈が多かったようです。
お母さんが何かを土器で煮ていますよ。
「早くできないかなあ」と子供がすねています。
どんな美味しいものができるのでしょうか?
向こうのお母さんは「おだんご」を作っています。きっとトチの実やドングリで作ったお団子です。肉や魚が入ったおいしい料理のはずですよ・・
貴方たちも作ってみませんか?

「蒸し焼き料理」は肉のうまみをのがさずに,おいしく料理する方法といわれ,いまでもニューギニア地方の郷土料理になっています。
まず鹿や猪の肉を料理しやすい大きさに切り分けます。それに塩をふり、幅の広い葉っぱ包みます。こうすれば肉のうまみをのがさず、しかも葉っぱのよいかおりが写って美味しい味になりますよ。
53 草創期料理

 次に、穴の中に沢山の石ころを予め焼いておき,そのあつあつの石の上にさきほどの肉をくるんでおいた包を乗せます。最後に土をかぶせて2~3時間待ちます。
この絵ではむこうで蒸焼きの準備をしていますよ。手前の男の子はできあがった料理を運んでいます。
その前を男の人がかりでとった鹿を運んでいます。どうやら今日の料理は「シカの蒸焼き香草くるみ縄文風」ですね・・・
この料理は縄文時代のすべての時期に行われていました。よほどおいしかったのでしょうね。貴女も一緒に食べたいと思いませんか?
54 草創期 蒸し焼き

ニューギニアで今も行われている蒸焼き料理の写真ですよ。中身はブタ肉とイモです。縄文時代もたぶんこんな感じだったんでしょうね。
55 パプアニューギニア料理

縄文人は粗末な食べ物を食べていたと思われていますが、実際にはそうではありませんよ。勿論、農業が始まる前は、食べ物がとれなく栄養失調になることもありましたが、一般にはそれぞれの季節にとれる美味しい食べ物を食べていたと考えられています。


 ④ 自然災害
 残念なお知らせがあります。良いことばかりではありませんでした。人生、山あり谷ありなのです。

紀元前5300年頃に 突如、巨大な噴火が起こりました。これは、『鬼界カルデラ噴火』です。災害現場は鹿児島県で、縄文時代中期の絶好調な生活を送っていた時代のことです。
56 鬼界カルデラ地図

天空が真っ黒な火山灰の雲で覆われ、日の光を通さなくなり、暗黙の闇に包まれました。寒冷期に陥ったため、家族の多くは命を落とし、豊かで幸せだった生活が崖のどん底に突き落とされました。
57 鬼界カルデラ噴火

 鬼界カルデラの噴火は破局的噴火です。当時の日本列島にどのくらいの範囲で、火山灰が降り積もったかといいますと、次のようになります。東北にまで火山灰が降り注いだことが示されています。
【鬼界カルデラから噴出した火砕流(オレンジ)と火山灰の厚さ分布】
58 鬼界カルデラ噴火火山灰
オレンジ色の地域が火砕流で縄文人が全滅した場所です。そして、火山灰の積もった場所を示しています。この分布から見ますと、同じ程度の噴火があると、現在では、数百万人が犠牲になると言われています。
しかしながら、他の火山と連動すると、1億人以上の犠牲者がでるという仮設がたてられています。なお、87000年前の阿蘇山噴火は、鬼界カルデラ噴火の43倍の破壊力の噴火で、火砕流が九州の3/4と山口県を焼け尽くしました。

下記の図は、巨大カルデラの分布図ですが、同時噴火が起きれば、大惨事となります。
59 巨大カルデラ



(4)中期(紀元前3000~2000年)
縄文時代中期は住みやすい快適な時代でした。
この時代を代表する山内丸山遺跡は青森県青森市にあります。今からおよそ5900~4200年前の縄文時代に築かれた大きな集落跡ですが、栗の栽培をし、黒曜石や玉の交易を活発に行っていました。そこで、生活は豊かだったと考えられます。
60 三内丸山古墳 家
61 三内丸山古墳 家内部
62 三内丸山古墳 生活

東大の川幡穂高氏が、全国の遺跡の数や集落跡の様子から推定した数字を纏め、地図にされました。
63 人口密度

この時代(中期)には、九州や近畿地方の人口はわずかで、東日本(東北、関東、中部・東海・北陸地方)が栄えていました。人口密度は一気に増えて、最大で約26万人にもなっていましたが、弥生時代の直前には8万人ぐらいにまで減ってしまいました。
三内丸山遺跡の場合は、約5900年ぐらい前に人が住み出して、4200年前頃に突然、人がいなくなったようです。5900年前に陸が暖かくなり、花粉のなかでもクリの花粉が非常に増えていたのですが、4200年前頃になると寒冷化が進み、花粉も見られなくなりました
三内丸山遺跡 温度推移

67 中期生活 イラスト
68 中期家構造


 ゴザにすわっている二人が土器を作っています。その向こうでは土器をやいています。
64 中期生活
65 土器作り


玉川大学の資料によると、縄文時代は色々なものを食べていたようです。

【植物類】
「穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・えごま・緑豆
ヒエ、アワ、米は陸で育てられ、収穫量は少なかったのですが、お粥や粉にして団子を作りました。蒸すこともありました。
69 ヒエ
70 アワ



「野菜類」 ごぼう・のびる・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・みょうが・しょうが・うど・たら・ふき
「果実類」くり・やまぶどう・きいちご・あけび・さるなし・またたび
 三内丸山遺跡では、栗の栽培をしていました。
71 栗
72 栗拾い
73 栗貯蔵

【魚貝類】
鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類
しじみ・たにし,などの貝類

【海の漁】
海釣り

【川の漁】
75 川魚 網
76 魚捕獲

「肉類」
いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥

【落とし穴猟】
77 落とし穴

【弓矢】
78 弓矢
79 弓矢 仕留める

【トリカブトの毒】
80 トリカブト

【調理法】
81 解剖
縄文時代の人はこれを蒸焼きにしたり、煮込んだり、燻製や塩漬けにして食べました。
また、漆(うるし)ができたのも、縄文時代です。

82 後期家

縄文時代後期の家は、早期の家とはくらべものにならないほどしっかりしています。
屋根は太いはしらでささえてあり,回りを細い木でかこみ,その上に「カヤ」で作った屋根があります.中には囲炉裏もあり男の人がしきものをしいています.早期の家より冬はあたたかだったでしょうね・・・


(5)後期・晩期
しかし後期・晩期になると、寒冷期になり、海退も起こり魚介類の収穫が難しくなり、今までの大型の集落を放棄し、別々に小さな竪穴式住居にすむようになりました。26万人の日本の人口は9万人まで落ち込みます。
18 河口湖・本栖湖誕生

これに、富士山も噴火が追い打ちをかけました。特に関東地方は大打撃を受けました。あれだけ栄えた三内丸山遺跡も、居住地を放棄しました。

縄文時代末期の遺跡からは、生きた人間模様を想像させる遺物があまり見つけられません。中期に放棄した遺跡に戻り、住むことがありました。自然環境や自然災害が、これだけ栄えた縄文時代を破壊してしまいました。

【色っぽいポーズのお骨様】
83 女性骨

【犬のペット】
84 犬化石


4、終わりに
 旧石器時代や縄文時代は、楽あり、苦ありの世界でした。その中で、皆様の心に残るものがあれば、今回のプログは意義があるものだと思います。

次の時代の弥生時代は、華南の中国人が渡来してできた時代です。彼らは、経済破綻した日本の救世主だったのでしょうか?それとも侵略者だったのでしょうか?
それを、中国の歴史や邪馬台国の歴史と重ね合わせて、話していきたいと考えています。
9回目のプログは、また古代中国の歴史に戻ります。


邪馬台国ラプソディ著者
川鍋 光慶
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コメント

非公開コメント

No title

日本人はたしかにみんな混血だけれど
危機的状況が訪れると
縄文スイッチが入るのだと思います。

地震・雷・火事・おやじ。
当時の日本列島の人々は恐れていたのでしょうか?
縄文土器などを見ていると、
現代人よりも感覚が鋭いと思います。
モチーフが大自然からのインスピレーション
それと人間どうしの自由な和合の営み
そういったもので造られているものが多いですよね。

火山噴火。大きな天変地異。
それこそがスイッチ。
恐怖もあるのかもしれないけれど
心が沸き立つんじゃないかな。
喚起=歓喜に近いものかなと考えます。

今の世では、
天変地異=不幸
悲しみを湛えていないと
不謹慎と言われてしまいそうですね。

私はどうやら縄文の血が濃いようです。
感じたことを書いてみました。