Ⅸ 古代中国の光と影

 古代大河小説『邪馬台国ラプソディ』の著者の川鍋光慶です。
 前回の8回目のブログには、縄文時代中期の人々は幸せな生活を送っていたこと、縄文人は自然災害に苦しめられたこと、大陸から渡ってきたアイヌ系と港川系の遺伝子の人たち等は日本の自然環境の変化に適応するために日本人独自の遺伝子を獲得し縄文人になったということ、そして縄文人の遺伝子は現代の日本人男性の4割以上に引き継がれていることを、書きました。
 今回(9回目ブログ)は、先ずは、ホツマツタエの時代設定の話をしてから、中国の古代の話に戻り、中国の歴史が、縄文の世界に、どのように関わっていくかという話をします。
1うさぎ、うさぎ

1、 古代中国の話に戻る前に、『ホツマツタエは真実の歴史書ですが、縄文時代の話ではない』という事を説明させて頂きます。
これまではホツマツタエの時代を縄文時代に設定することで、ホツマツタエの名を世に知らしめることが出来ました。これは、ホツマツタエ関係の先人たちの多大なる苦労の賜物であり、その功労に対し敬意を表します。
 しかしながら、ホツマツタエの発見から50年経ちましたので、日本史や考古学に沿った新たな解釈を提示し、今までの解釈と切磋琢磨しながら、真実の歴史書にしていくことには意義があると信じております。
私は、魏志倭人伝とホツマツタエは、ジグソーパズルのように補い合ってこそ初めて、真実の一枚の絵画が浮かび上がってくるものだと考えています。
それでは、先ず何故、ホツマツタエが縄文時代の話ではない理由を、大きな点だけを箇条書していきます。

(1) 縄文時代は身分差が無い理想の時代と言われていますが、ホツマツタエでは身分をとても重要視しており、特に「シラヒト」「コクミ」スキャンダル裁判では、二人の身分が低い為に死罪の判を受けました。
また、豊受大神、イサナギ、イサナミ、保食神、カナサキ等のホツマツタエの主要な登場人物は全て王族の血脈で固めていました。
魏志倭人伝(弥生時代)には、倭国(弥生時代)は、身分制度が実在したと書かれていますので、身分制度に関しては、縄文時代の制度ではなく、弥生時代以降の制度です。


(2) 縄文時代は殺し合い(戦争等)のない平和な世界でした。しかし、上述の裁判では死罪判決となり、また、ハタレや大蛇の反乱、出雲の国譲りでは、政府軍が多くの人々の命を奪いました。戦いが頻発していた時代設定ですので、これは縄文時代では無く、邪馬台国の時代に相当します。


(3) ホツマツタエでは、イサナギ・イサナミ、オオナムチ(大黒天)、ニニキネ尊等、歴代の天神や有力者は、治水工事や灌漑工事をしました。そして、水稲栽培を推し進め、民の生活を豊かにしました。また、ヒルコ姫と瀬織津姫が稲虫退治の儀式を執り行いました。しかしながら、水稲栽培は弥生時代以降に始まりました。

【佐賀県唐津市菜畑遺跡 日本最古の水田跡(赤米) 紀元前5世紀】
2菜畑遺跡水田


(4) ホツマツタエの中に馬や馬具(乗馬)の話がありますが、これまでに発掘された馬の化石で一番古いものは4世紀のもので、また、乗馬用の馬具が一般に使われるようになったのは古墳時代からです。埴輪馬(古墳の埋葬品)は古墳時代(6世紀のものが多い)に古墳に埋められる遺物です。縄文時代と、馬具や埴輪馬は相容れません。
 しかしながら、弥生時代の九州の王族の墓から、輸入製の馬具が発見されていますので、弥生時代に、王族には乗馬の習慣があったと考えられます。縄文時代の馬の化石や馬具はこれまでのところ、発掘されていません。(縄文時代の馬の化石といわれていたものを、年代測定法で調べたところ、古墳時代以降のものばかりでした)

【東京国立博物館所蔵 埴輪馬 6世紀製作】
3埴輪馬


(5) 東日本が栄えていた縄文時代後期・晩期には、富士山が噴火したり、冷寒期であったため、日本の人口が26万人から8万人にまで減少しました。
この頃の人口は、九州と近畿地方は、共に2000人くらいだったと推定されています。庶民も含めてこの程度の人数では、軍隊を抱えることや、天神家や属国を束ねることなどできません。つまり、縄文時代には、九州にも近畿にも、国家(天神家)があったとは考えられません。


(6) ホツマツタエに『鏡』や『剣・矛』が登場しますが、日本で金属製品の製造(鋳造)を始めたのは、福岡県春日市にある玖須岡本遺跡です。ここは『奴国』で、日本で一番古いとされる紀元前2世紀の鋳型が発見されています。『奴国』は倭国が誇る工業国で、大陸との貿易が盛んで、経済が繁栄していたため、後漢の光武帝から金印を授かりました。縄文時代には金属製品の製造をしていないので、明らかに時代がずれています。
また、この遺跡では、紀元前後に鉄製の剣が作られ始められるようになりましたが、馬具は製造されていませんでした。つまり、日本では弥生時代でも鉄製の馬具は製造されていませんでした。

【奴国の丘資料館 鋳造の様子 弥生時代 紀元前2世紀】
4最古の鋳造


(7) ホツマツタエが真実の話だと証明するためには、記録や記録を残す道具を発見せねばなりません。江戸時代に書き写されたホツマツタエは紙に記録されていましたが、神武天皇の東征の時期には、ホツマツタエはどのような方法で文字を残したのでしょうか?紙?亀の甲羅?骨?竹?土器?皮?パピルス?木片?
中国では孔子の時代(紀元前552~479年)以降でも竹簡が使用されており、これまでに発見されている最古の「紙」は、中国甘粛省天水市の古墓で発掘された地図の描かれた麻の紙で、前漢文帝・景帝(在位紀元前189~141年)のものと推定されています。つまり、竹簡から紙に変わったのは、弥生時代の話です。
また、日本で最古の硯(すずり)が福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で発見されましたが、これは1~2世紀のものです。また、それ以前にも島根県松江市の田和山遺跡(松江病院)からも、西暦200年ころの硯が発掘されています。弥生時代に大陸との貿易が盛んだった糸島や出雲が紙を使用していたことが分かります。

【雲・井原遺跡 日本最古の硯】
5硯 記事

6硯 写真

もし、ホツマツタエが縄文時代のもので、紙に記録されていたとすると、縄文人が紙を発明したことになりますが、その証拠が全く残されていません。また、ホツマツタエは10700行余(1行 5・7文字)と長大な百科事典ですので、竹簡ですと、とても広いスペースが必要になります。ホツマツタエは縄文時代に記録された歴史書であることを証明するには、記録方法と保存方法を先ずは提示する必要があります。
8竹簡


(8) 日本書紀によると、神武天皇の東征は紀元前660年ですが、これは日本の歴史を長く見せようとした大嘘です。平均寿命が30歳の時代に、多くの天皇の寿命を100歳以上にする等、色々な小細工を弄しています。景行天皇に至っては、寿命が143歳です。また、日本書紀は、先に作られた古事記より、寿命を長くしています。
2代綏靖天皇から9代開化天皇までは、欠史八代と呼ばれ、実存しなかったという学説が考古学会での現在の主流です。
このような非現実的な情報を基に、神武天皇の東征時期は計算されているので、大風呂敷を広げているのは間違いありません。従って、魏志倭人伝等の記載や、様々な遺跡の遺物の年代測定結果と比較しながら、それぞれのイベントの時期の補正をせねばなりません。
9天皇寿命

魏志倭人伝では、国が乱れたので台与を国の代表に据えたとありますが、邪馬台国が安定してからでないと、神武天皇の東征など実現する訳がありません。そう考えると、神武天皇の東征時期は、台与が邪馬台国を統治した時期の後になります。
現在の説としては、『神武天皇の東征は無かった(邪馬台国畿内説派)』、『神武天皇の東征の時期は西暦285~305年頃(残酷邪馬台国協議会鷲崎会長)』等があります。http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/paper/paper34.html
西暦300年頃というと、弥生時代と古墳(大和)時代の狭間で、縄文時代ではありません。
 また、『天照大御神=卑弥呼 説』があります。この説では、天照大御神は邪馬台国時代に生きた人だということです。

 ホツマツタエを知った時、こうした疑問がありましたので、色々なホツマツタエ関係の話を聞いたり、読んでみましたが、残念ながら納得できるような説明は一つもありませんでした。この疑念が解けない限り、ホツマツタエは永遠に考古学会では、記紀同様、信用できない神話として取り扱われるのではないかと懸念致しております。
私は、ホツマツタエは記紀から隠蔽された真実/歴史を、ただ一つだけ、記録に残した真実の書であると考えていますので、ホツマツタエと古代史をドッキングさせて、真実の扉を開こうと考えました。
もし、私の前提が正しいとすると、卑弥呼はヒルコ姫であり、邪馬台国は二政権制だったこと、台与は高木神の娘で二代目大物主のクシヒコの妃の美穂津姫であることがホツマツタエから読み取れます。そこで、これを小説仕立てにしてみました。
以上のようなことより、私はホツマツタエの世界は弥生時代の話だとの確信を持って、『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』を書き上げました。


2、倭国への道
 それでは、倭国へと繋がる古代中国の話に戻りますね。
(1) 三皇五帝の時代
① 三皇の伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)は、人口を増加させるために農業の普及等に勢力を投じました。戦いによる統制ではなく、結婚制度の確立や農業の普及等で国造りを進めました。戦争をした記録は残されていません。(ラブラブ夫婦の兄妹)
10姉妹仲良し

② 三皇の神農は、嫌々一度だけ戦争をしました。戦勝には勝利しましたが、敵軍の捕虜を全て許しました。すると、敵軍は服従することを誓いました。
そして、農業の普及、医学・薬学の伝道を通し、穏やかな国造りを進めました。また、晩年に中原から山東省に都を移しました。武力は用いず、人徳〈お友達ムード〉で国を発展させましたが、兵を用いなかったので、絶対王政ではなかったのです。
下の写真は、お友達ムードで、満々の笑みを湛えていますね!
神農は羌(きょう)族ですので、倭人系日本人の遠い先祖様ですよ。
11神農

③ さて、いよいよ黄帝のお出ましです。「え~~い、皆の者、頭が高い、控えオロウ~!」
黄帝は、武力と軍事戦略で中国を統一したとても怖い御仁です。
五帝の黄帝の時代は、青銅器(剣等)での戦いの幕開けの時期でした。(青銅器時代)
黄帝と戦った『蚩尤(しゆう)』は青銅武器を大量に調達し、軍事訓練も一生懸命やりました。特に、戦場での雨が降り止まないように見せる為に、霧の発生方法の工夫と訓練を徹底的にやりました。
「兵器を沢山揃えたし、訓練された兵隊を雇っているので、鬼に金棒だわい!
それに、有力豪族の九黎(きゅうれい)が一緒に戦ってくれるので、怖いものなしだ」
13黄帝戦争地図

 戦場は立ち込める霧で視界を閉ざされていましたので、黄帝軍は恐る恐る皇軍しました。その時、隊列の両側から歓声が上がり、突如霧の中から蚩尤軍の兵士たちが出現しました。黄帝軍の兵士たちは騒然とし、軍列が乱れました。すると、蚩尤軍の兵士たちは、木刀で戦う黄帝軍の兵士たちを、青銅剣で叩き切りました。第一戦は、武力と知力に優れた蚩尤軍が圧勝しました。
その後も、黄帝軍は立ち込めた霧のせいで、敵軍の所在が分からず、苦戦しました。兵力に勝る蚩尤軍は、百戦連勝でした。
「黄帝軍なんて、簡単にひねりつぶせるぞ。前進し、敵軍を捻り潰せ」
14蚩尤イラスト

 敗戦の色が濃厚になってきた時、黄帝は、旱魃(かんばつ)女子を招き、
きりの対応策を協議しました。
「この切をなんとかして解消してする手立てがないものか?」
「大丈夫です。私を信じて、お任せ下さい」
「旱魃よ、それでは宜しく頼んだぞ」
旱魃は、天候を晴れにする為の秘策を講じました。その方法は企業秘密ですが、やがて秘策が功を征し、戦局が逆転しました。その光景を見て、蚩尤は慄き、戦場から逃げ出しました。なお、旱魃は元祖キョンシーと呼ばれています。
15キョンシー

黄帝軍は蚩尤を追いかけました。
「お前たちなんかに捕まるものか!俺は足が早いんだぞ」
しかし、黄帝軍が飼育している虎のほうが蚩尤より足が早かったのです。
蚩尤は捉えられ、「無念」と叫び、首を切られて殺されました。

 蚩尤の死後、黄帝は蚩尤が隠し持っていた武器を全て横取りし、軍事力で中国NO1になりました。
「わっ、はっ、はー!俺が一番偉い」と胸を反らしましたが、それでも蚩尤があまりに強かったので、黄帝は「早く前線から前に進まないと、蚩尤がやってきて、お前らを食い殺すぞ」と言って、兵士たちを脅したそうです。黄帝は凶暴で、素直さとは縁遠い性格だったようです。

 なお、蚩尤と一緒に戦った九黎(きゅうれい)は、伏羲と女媧の子孫だと言われており、後に子孫が三苗族となります。
16苗族娘

 その後、黄帝は神農の直系の子孫の帝顓頊(ていせんぎょく)を戦いで破り、武力で天下を征しました。そして、春秋時代の中国に匹敵する国土を手に入れました。
   三皇(伏羲・女媧・神農)の直系の子孫たちから、武力で天下を強奪したのです。
 しかし、当時の兵力は未だ弱く、黄帝の武力だけで中国全土を統べるのは困難だったため、その後、黄帝は飴と鞭を使い分けるようになりました。

④ 第7話のブログで話をしましたが、五帝、夏王朝、殷王朝、周王朝、春秋時代の王族たち、秦王朝は、黄帝の末裔です。黄帝の血筋又は功臣でなければ、王にはなれませんでした。春秋時代、夏王朝の公子が越を建国し、周の公子が呉を建国しました。
その呉越が滅びると、亡国の王族たちは、倭人や安曇族として日本に渡来しました。秦氏も呉の末裔です。つまり、弥生時代に邪馬台国の王となったのは、やはり、黄帝の末裔ということになります。
だから、倭国でも、身分制度が重んじられたのです。
当然、天照大御神や卑弥呼も黄帝の末裔なので、王座につくことができ、金印も授与されました。奴国の王も倭人で呉の末裔なので、金印を授かりました。(ただし、金印の件に関しては、私の分析結果で、天下公認の話ではありません)
18黄帝家系図

⑤ 五帝とは、黄帝の他に、顓頊(せんぎょく)、嚳(こく)、堯(ぎょう)、瞬(しゅん)のことです。一人ずつ、簡単に紹介しますね。

⑥ 顓頊(せんぎょく)は鬼神を信奉したオカルト的なおっさんなのです。物忌みして祭祀を執り行なう危ない人でした。でも、この人の末裔が、帝禹や戦国時代の秦・趙の王たちです。

⑦ 次代の帝嚳(ていこく)は、皇族の共工(きょうこう)の軍を破り、幽陵に流して『北狄』としてしまいました。また、驩兜を崇山に追放して『南蛮』とし、三苗を三危に遷して『西戎』にしました。


鯀を羽山で幽閉し『東夷』として東方に流されたとされています。
帝嚳は、武力を用い、漢族に敵対心を抱く四夷の反乱を恐れ、中原から追放し、辺境の地に追いやったのです。漢族以外の民族の隔離政策をとりました。とても、臆病な性格だったようです。
19四夷狄


神農の子孫の羌族(西戎)は、この時から、中国国内には住めなくなったのです。

【黄巾の乱の頃の勢力図】 左(西)の方に『羌』の文字が見えます
17羌族追い出し

⑧ 帝嚳(こく)は生まれながらにして、自分の名を言うことができ、聡明であったそうです。また嚳の徳の高さと世がよく治まった様子が伝えられています。
しかし、こういう表現の場合には、真実は真反対のことが多々ありますので、話半分に聞いておけば良いと思います。

⑨ 帝堯(ぎょう)は、儒家から神聖視された帝王です。しかし、軍事で三苗族を長江の上流付近まで追いやりました。こうした事があり、少数民族たちは現在、雲南省の山奥で暮らすようになりました。
20苗族の踊り子たち

⑩ 帝瞬(しゅん)が五帝の最後です。堯(ぎょう)と同じく、儒家から神聖視された帝王です。朝廷から悪人を追い出したので、百官が良く治まったといわれます。
恐らく『遠山の金さん』のような人物だったのでしょうね?
この帝瞬は、周代の『虞(ぐ)』の祖になりました。

 話は変わりますが、楚の項羽は、この『虞』から虞美人を娶りました。
21

最終決戦で項羽は漢の劉邦に破れ、二人は自害しました。劉邦が天下を握り、漢王朝を建国した為、廃墟となった城の中で、翌年、虞美人の血が染み込んだ土から、真っ赤な虞美人草(ヒナゲシ)の花が咲きました。
若くして儚く散った虞美人も項羽も、黄帝の血脈でした。
22虞美人草


(2) 帝禹・夏王朝
小説『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』の中で、帝禹の話を面白く展開させていますので、一読頂ければ有難いです。笑いの渦に飲み込まれること必定です。そこで、ここでは帝禹がやったことについて、真面目なお話をします。

① 帝堯(ぎょう)の時世に、黄河でとてつもない大洪水が発生し、人々の暮らしが崩壊してしまいました。そこで、帝禹の父の鯀(こん)が黄河の治水工事の責任者になりましたが、8年経っても成果が上がらなかったので、鯀は罰せられ蛮刀で切られてしまいました。

② 次に禹は治水工事の任務を命じられた。工事は難航を極め、成功する可能性は低いことは分かっていましたが、民を悲惨な状況から救いたいという切実な思いと、父の無念を晴らしたいという願いから、危険を承知で、この任務を引受けました。『任せとけー❣』

③ 新婚さんでしたが、塗山氏と結婚してから4日後に、帝舜の任命を受け、治水にでかけ、治水工事が終わるまでの13年間、妻の元には一度も戻りませんでした。
『この薄情亭主めが!とっとと出ていきな。戻って来ても、家に上がらせないからね!』
『本当に戻ってこないなんて、許せない!』とは、言われませんでした。今ならば、離婚調停ものですが、当時は美談とされました。
23帝禹の離別

④ 13年も掛けて、治水事業を成功させた禹は、中国のヒーローとなりました。カルフォルニア州知事に就任した時のシュワちゃん(アーノルド・シュワルツェネッガー)のような人気ぶりです。帝瞬から、お褒めの言葉を頂きました。そして、帝王の座を攘夷されたのです。
7帝禹お疲れさん

皇帝になると、税は取らず、貧しき民には国の倉を開いて食物を分け与えたり、質素倹約に務め等の善政を施し、国情が安定すると、水稲栽培のための灌漑工事の旅に出て、諸国を回りました。そして、会稽(紹興)の地で身罷りました。遺言は、「私の墓は慎ましく質素に」でした。

⑥ 黄帝以降は、兵力で他国を圧迫する方法をとってきましたが、帝禹は人徳による善政で民の心をつかみ、国土を強固なものにしました。この帝禹の生き様が、君主の理想として、後世の国々に引き継がれていきました。だから、薄情亭主ではありましたが、とても人気があり、慕われ続けたのです。倭国の理想にもなったんですよ。


(3) 夏王朝と越
① 帝禹は、治水工事を手伝った『益』に帝位を攘夷するという遺言を残しましたが、「啓」が武力で皇帝の座をものにし、夏王朝を建国します。これが中国で史上最初の帝王位の世襲とされています。奴隷制を導入する等、冷血漢な皇帝だったので民心が離れてしまいました。その啓が逝去して、次期帝王の大康が狩猟に現(うつつ)を抜かしたので、反乱が勃発し、都から追い出されてしまいました。
25弓矢猟

② 6代目夏王朝の皇帝の帝少康が反乱を鎮めて都に戻ると、庶子の無餘を、帝禹が身罷った会稽(紹興)に封じ、帝禹の理想を実現するように命じました。建国した国が越ですが、後に越は水耕栽培の盛んな農業大国に発展しました。
26紹興酒

二里頭文化
夏王朝は紀元前2070~1600年ころの王朝ですが、中国河南省の洛陽の近くの二里頭遺跡や新砦遺跡が夏王朝の都でした。下記が、夏王朝の勢力図と都城の一が書かれた地図です。橙の部分が夏王朝とその属国の勢力図です。
27夏王朝勢力図

二里頭遺跡の集落には2万人も暮らしていたんですよ。その当時としては、世界有数の大規模集落だったのです。
28二里頭遺跡王宮

青森の三内丸山遺跡の最盛期の少し後の遺跡ですが、青銅器が使われていました。斧・鑿・ナイフ・千枚通し・鏃・釣針・戈・酒宴に使う容器類が出土しました。宮廷儀礼も行われていたようです。
夏王朝は長い間、神話とされていたのですが、二里頭遺跡の発見により、実在したとみなされるようになりました。この文化は、凌河文明の影響を受けているようです。遼河文明に関しては、又、別の機会にお話します。
29夏王朝図文字

④ しかし、夏王朝を復興させた帝少康以降の帝王には、優れた者がいませんでした。
特に最悪だったのが、B.C.1600ころに、洛陽で即位した桀です。
30夏王朝桀亡国

桀と貴族等の暴虐無道・財物の浪費は、「ひとたび太鼓が鳴ると、3000人の者たちが、一斉に牛のように首を伸ばして、酒池の酒を飲んだ」とあります。桀は人を馬の変わりにして、その背にまたがって歩き、自分を太陽になぞらえたそうです。これを、脯林酒池と呼びます。
31脯林酒池

このような状況が続いたので、人民の反乱が起きました。人々が喚きます。
「この恨めしい太陽め、おまえはいつ滅びるのか。こんな苦しい思いをするくらいなら、わしらもいっそおまえと一緒に死んでしまった方がましだ」
そして、商(殷)の成湯が、桀を南巣(安徽省巣県)に追放し、夏王朝は滅亡しました。

 大洪水が起こったのは、紀元前1920年ころです。そして、夏王朝が建国されたのが紀元前1900年ころで、滅亡したのが紀元前1600年ころです。

帝禹の思想は夏王朝には残らず、帝少康の庶子の無餘が建国した越(浙江省)に、その思想が受け継がれました。越は中国の穀倉地域になりました。
春秋時代の越が楚に滅ぼされると、南に逃れたものが百越となり、北に逃れた越の王族の一部が安曇族として日本に渡来しました

⑤ 帝禹の末裔の国 越のトーテム(トーテム・ポールのように動物をシンボルにする)は『鹿』です。鹿を祀る神社は、日本では、志賀海神社、春日大社、鹿島神宮等です。
そして、福岡県の志賀海神社は安曇族を祀っているので、安曇族は越出身な事が分かります。日本では、安曇族と宗像が血縁関係を結び、住吉族に引き継がれたと考えられます。
32鹿


(4) 太伯・句呉

周の太伯に関しましては、小説『邪馬台国ラプソディ〈第一話〉』を御覧下さい。ここでは、概略だけお話します。
太伯は呉(江蘇省)を建国しましたが、日本に渡来したという逸話が残されています。日本で太伯を祀る神社は、鹿児島県の鹿児島神社です。

又、呉(句呉)が越に滅ぼされると、海に逃れて倭人となりました。また、呉は秦(はた)氏の祖先でもあります。秦氏の話は別の機会にしますね。
呉・越人から発生したDNA(遺伝子)は、倭人に引き継がれました。この遺伝子は、アイヌ系遺伝子と同様、日本人特有のものです。この話は、次回のブログで紹介しますね。


(5) 中国の稲作
弥生時代と言うと、中国から稲作の技術が持ち込まれ、誕生した時代です。そこで、中国における稲作文化と古代遺跡群との関係性を話させてください。

① 三皇の女媧が亡くなったのは、紀元前3200年ころです。黄河文明の話をしました。このころの黄河近辺には、仰韶(いんぎょう)文化(紀元前5000~3000年ころ)が栄えていました。仰韶文化は農業をしていましたが、ヒエやアワ等の雑穀を栽培していました。
33遺跡地図

② 仰韶文化と丁度同じころ、長江の下流(浙江省寧波近辺)の河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5000~3300年ころ)に、稲作(水稲・陸稲共)を行っていました。
それで、河姆渡遺跡から、大量の稲籾、稲殻、籾殻などが平均して20~50cmにわたって堆積し、最も堆積の厚いところでは1mに達していたのが、発見されています。この地は後に越になります。
農業が盛んで、裕福な土地柄だったんですね。
裕福な家柄の太った怠け者のことを、中国では『米虫』と呼びます。

③ 度重なる河川の氾濫により、河姆渡遺跡の住民が遺跡を放棄したと言われていますが、黄河文明(仰韶文化・龍山文化)の雑穀文化の豪族たちが、今の江蘇省や浙江省から河姆渡文化の豪族を武力で追い出したと考えることも出来ます。
34河姆渡文化

 黄河文明の豪族の遺伝子は、羌族や苗族の遺伝子が他の遺伝子と婚姻で結ばれて派生した漢族の遺伝子だと思われますが、後に漢族は、羌族や苗族を徹底的に中国から排除しようとしました。
35中国文明

後に、帝禹が会稽(浙江省紹興)まで出向いて治水工事をしたのは、この地域の水耕栽培の立て直しのためだったのかもしれません。

④ それでは、河姆渡遺跡の民は何処から来たのでしょうか?
それは、彭頭山(ほうとうざん)文化(紀元前7500~6100年ころ)で、紀元前7000年頃のコメのもみ殻などが発見されています。西安は黄河の近くにありますが、南に河で下ると成都の方にいきます。
36西安・長江

この文化の持ち主は、その近辺に領土を持っていた羌(きょう)族や彝(い)族だったのではないかと推定されます。
また、黄帝と戦った蚩尤(しゆう)の子孫が苗(みゃお)族になり浙江省等で水耕栽培をしていましたが、後に漢族に追われ、雲南やや四川に追いやられていきました。

【少数民族の王族は雲南に追いやられ、その地で農耕を始めた】
37棚田

⑤ 江蘇省や浙江省に残った住民たちと、句呉の太伯とその弟、また、夏王朝の少康の子孫が混血し、呉・越に血脈が引き継がれていったと考えられます。
この呉・越が滅びると、その子孫は倭人となり、安曇族になったと考えられます。この遺伝子(倭人系)が日本だけしか見られない理由は、そのためだと思います。

(6) 商(殷)
少しだけ、夏王朝を滅ぼして天下を握った商(殷)(紀元前1600~1046年ころ)の話をします。商の都は、前期は河南省鄭州市の二里岡遺跡、中期は洹北商城、後期の殷墟等の遺跡が発掘されており、実在した王朝だと言えます。
38殷墟

商王朝は、有力な10の豪族の連合政権で、それぞれの氏族が、交替で王を出したようです。

戦争には戦車(馬車)を用いたそうです。最盛期には、300輛の戦車を所有していました。夏王朝を滅ぼした時には、70輛の戦車と6000名の決死隊で、夏王朝と戦ったとされています。
39戦車 馬車

 商には、甲骨文字があり、武力を重んじる青銅器文化の国でした。
この王朝は、異民族を徹底的に弾圧し、戦争捕虜は生贄に捧げたり、殺害したり、去勢をする等の残虐行為を行いました。紂王の妃の妲己も冷徹な悪女でした。祖のため、周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き、商は滅亡してしまいました。
40妲己

周が商を滅ぼしましたが、そのとき周に加担したのが、三星堆遺跡の西太后(彝族か苗族)や羌族の末裔の太公望でした。太公望は、釣り好き爺さんでした。
41太公望


 商(殷)の話が終わりました。それ以降の、周や春秋時代の話は、『邪馬台国ラプソディ〈第一巻〉』に掲載されているので、そちらを御覧下さい。


 それでは、次回はいよいよ、邪馬台国の謎に迫っていきます。


邪馬台国ラプソディ
川鍋 光慶

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ホツマツタヱを見ていくと
人間臭い争いごとの連続で
知れば知るほど、しんどくなる一面があります。

争いごとの発端も人間臭くて
刑罰にも種類があり
罪人の流離う地域も決まっているところには
ほんとうに、縄文らしさは感じられないですね。。。

目に見えない量子の世界や
森羅万象、ミヤビ、こころを磨くこと
五七調の歌の響き・・・

時代が下っても大切にされてきた
これらのものはとても縄文的。

ホツマをやっている人は、
世知辛く厳しいいまの世にも
そこに惹かれてやまないのだと思います。
私もそうなんですよね~。

どんどんお話のスケールが大きくなってきましたね。
楽しみになってきました。

私は個人的に、秦氏の動向が気になります。

みんなはどんなところに関心があるのかなぁ?